87:VSクラーケン
船は港を離れてしばらくすると、大きく帆を張った。
吹き抜ける夏風をしっかりと受け止めて、ぐんぐん進んでいく。
ぐんぐん進んでいく。……めちゃくちゃ揺れる。
覚悟していたことだが、このくらいのサイズの船は揺れがダイレクトにクる。
「キツイ……」
私は甲板の手すりを掴んで下を向いていた。せっかくの海と空が目の前に広がっているのに、景色を楽しむ余裕がない。
今すぐ吐くほどではないけれど、長時間このままだとだいぶヤバい。
ラテはもっと辛そうだ。私の足元で小さく丸まって、ぐったりとしている。
『ううう、もう帰りたいよぉ』
船酔いのせいで幼児退行していらっしゃる。
ナタリーの治癒能力なら、船酔いも治してもらえたかな。ついてきてもらえばよかったかも。
「頑張って。ラテの感覚だけが頼りなんだから」
クラウスは舳先に立って、平然と海を見つめている。銀の髪が潮風に吹かれて揺れている。
S級冒険者は船酔いと無縁のようだ。三半規管が強いのかもしれない。羨ましい。
「シスター、船酔いか? なるべく遠くを見ておくといいぜ」
バーバラが心配して声をかけてくれた。
言われた通り、頑張って頭を上げる。船の縁から海を見ると、だんだんと様子が変わっていくのが分かった。
港の近くの水も濁っていたけれど、沖合はさらにひどい。ドブのように灰色っぽい色で、泡立っている。時折、魚の死骸がプカプカと浮いていた。
「ひどい」
私は絶句した。
「これがかつて、豊饒の海と呼ばれたシートンマスの成れの果てだよ」
バーバラが顔を歪める。
「この辺りが一番おかしい。魚は穫れねえし、たまに穫れても臭くて食えたもんじゃない。この腐ったような水の中に、網を入れるのもためらっちまう」
ぐったりしていたラテが顔を上げた。ヒゲがピクピク動いている。
『……あちらだ。毒の気配が流れてくる』
ラテが示したのは北の方角。東に港町があり、北側は大きな川の河口がある。
「川?」
「あそこは『銀の川』という川だ。昔はきれいな水が流れていたが、今は見ての通り」
川の水はよく見れば、やはり灰色に濁っていた。
川が汚染源なのだろうか? 汚染した水が流れてきて、海に流れ込んでいる?
であれば原因は海ではなく、川、ないし上流の何かかもしれない。
「バーバラさん。川の近くまで行くのはできますか?」
「途中までならな。あまり岸に近寄ると座礁しちまう」
「そっか……。それなら、船じゃなくて陸路で調べた方がいいかも」
アルフォンスと護衛の人、ギルは川を調べているだろうか。
私がそこまで考えた、その時のこと。
ズシン!
大きく船が揺れた。今までの波の揺れとは違う、何か重量のあるものがぶつかったような揺れ。
「ひゃあっ!?」
私はバランスを崩してよろめいた。転びそうになって、バーバラが支えてくれる。
ラテが「フギャッ!」と悲鳴を上げている。
「何事だ!」
バーバラが叫ぶ。
再度の衝撃が走り、船が大きく傾いた。
同時、舳先近くの海面が爆発するように盛り上がる。
ザバアアァァ――ンッ!!
大量の水しぶきとともに現れたのは、巨大な足!
ぬらぬらと光る赤黒い足が、何本も海面から突き出ている。太さは私の胴体の何倍もある。巨大な吸盤がついた触手のような足が、ゆらゆらと蠢いていた。
海面のすぐ下には、巨大な頭と黄色く光る目玉が見える。
「あ、あれは、クラーケン!?」
漁師の一人が叫んだ。
「クソ! なんであんな化け物が、こんな浅瀬に!」
バーバラが舳先へ向かって走っていく。
「クラーケンは、普段は深海に棲んでいる巨大タコの魔物だ。浅瀬に上がってくるなんて、聞いたこともない!」
戸惑う私に、漁師が教えてくれた。
曰く、クラーケンは光が届かないほどの深海に住む魔物。ごく稀に死骸が浜辺に打ち上げられるだけで、生きているそいつに出会った者はほぼいない、と。
クラーケンの巨大な足がムチのようにしなった。大きさに見合わぬスピードで、船のマストがあっさりとへし折れる。
バキィ! 鈍い音とともに、マストが倒れた。
「あわわわ!」
倒れてきたマストに巻き込まれそうになり、私は慌てて逃げた。船上はパニックになっている。
「銛を打ち込め! 追い払うんだ!」
バーバラの指示で、漁師たちは我に返った。何本もの銛が持ち出され、投げつけられる。
しかしクラーケンの皮膚はゴムのように弾力があり、銛は弾き返されてしまった。
「クソッ、駄目か!」
バーバラがキッと相手を睨みつけた。転がっていた銛を引っ掴み、勢いをつけて走り出す。
渾身の力を込めて足の根元近くに突き刺した。
「ギャアッ!」
悲鳴が上がる。バーバラの銛は見事に深く突き刺さっていた。
ところがクラーケンはさらに複数の触手を伸ばして、船体に絡みつかせた。メリメリと木材が軋む嫌な音が響く。
このままでは船ごとバラバラにされてしまう!
激しく揺れる船の上、たまらずしがみついた船の縁から海が見える。半ば本体を海面上に引き上げたクラーケンと目が合った――ような気がした。
「……下がっていろ」
混乱する船に静かな声が響いた。クラウスだ。
激しく揺れる甲板の上、折れてしまったマストを足場に彼は跳んだ。
私にはクラウスの姿が掻き消えたように見えた。
ヒュン、と風を切る音がする。見上げれば太陽を背に、銀の髪が輝いている。
「ハッ!」
気合一閃。振り下ろされた剣が、銀色の閃光となって走った。
ズバンッ!
船を締め上げていた巨大な足の一本が、根本から切断された。青っぽい体液が噴き出す。
「ギュオオオオオッ!!」
クラーケンが苦悶の声を上げた。海面に大きな波が立つ。
切断された足が、ドスンと甲板に落ちた。船が激しく揺れる。
クラーケンは残りの足を振り回して暴れたが、それらの攻撃をクラウスはいなし、弾き返した。
勝てないと思ったのだろう。クラーケンは大量の墨を吐き出して、海中に潜っていった。
海が黒く染まっている。それきり動きはない。
「逃げたか」
クラウスが甲板に着地した。トン、と軽やかな音がする。息は乱れておらず、返り血どころか水しぶきすらほとんどかぶっていない。
剣についた体液をふるい落とし、鞘に納める。一連の動作はいっそ美しいほどだった。




