07:幽霊宿
店主さんの後押しを受けて、私の目標は決まった。
日中はスープの配達で小銭を稼ぎ、夕方になったら情報屋や商人ギルドの不動産窓口を巡る。目的は、私の『城』となる物件探しだ。
で、夜は引き続きロックリザードのケバブに最適なヨーグルトソースの開発を続けていた。
そんな感じで日々を過ごすこと数日。
けれど、厨房付きの物件はどれもこれも高価で、今の私にはとても手が出ない。
途方に暮れていたある日、一人の情報屋がニヤリと笑って一枚の地図を差し出してきた。
「シスターのお嬢さん、腕利きの料理人なんだって? なら、こいつはどうだい。訳ありだが、破格の物件だぜ」
それは街外れにある、元は繁盛していたという宿屋だった。
店の名前は、『割れ鍋亭』。変な名前だ。
「だいぶ前から『夜な夜な幽霊が出る』って噂が立ってな。客も従業員も寄り付かなくなって、今じゃ廃屋同然さ。持ち主の爺さんもほとほと困り果てて、二束三文で手放したがってる」
(幽霊……ねぇ)
前世の記憶を持つ私にとって、その単語は全くリアリティを持たなかった。
いや、もしかしたらこのファンタジー世界は幽霊がいるのかもしれないけどさ。でも私、シスターよ? エクソシストではないけど、聖職者よ。悪霊退散のお祈りとか、できちゃうもんね。破ァッ!!
むしろ、厨房付きの建物がたったの銀貨十枚で手に入るかもしれないという事実が、心を躍らせる。
「分かりました。私が行きましょう。こう見えても聖職者ですので、幽霊なんてさっくり成仏させちゃいますわよ」
私はその物件の調査を即決した。
◇
翌日、私は『割れ鍋亭』の持ち主だという老人から鍵を借りて、一人でその宿に足を踏み入れた。
中は埃っぽく、蜘蛛の巣が張っているけれど、建物自体はしっかりしている。そして何より、厨房が広くて本格的だった。
(すごい! これなら、どんな料理だって作れる!)
私はこの場所がすっかり気に入った。あとは原因を突き止めなければ。夜、一人で泊まり込むことに決めた。
夜。厨房の隅に身を潜め、物音を立てずに待ち構える。
真夜中を過ぎた頃、宿の談話室の方から、ガシャン! と皿の割れる音や、男たちの下品な笑い声が聞こえてきた。
(来たわね、『幽霊』さんたち)
こっそり覗き見ると、そこにいたのは幽霊――ではなくて、ガラの悪い男たちである。
どう見ても幽霊ではない。だって足があるし、安酒をガンガン飲んでる。下品にガハハと笑う幽霊なんて、いるわけないでしょ。
たぶん地元のチンピラたちがこの建物をアジトにして、人を遠ざけるために幽霊騒ぎを起こしていたのだ。
私がこっそり観察していると、足元の床板が、ギッと嫌な音を立てた。
「――誰だ!?」
しまった!
チンピラたちは一斉にこちらを向き、潜んでいた私に気づく。
「へぇ、可愛いお嬢ちゃんじゃないか。ここで何してるんだ?」
「見てはいけないものを見ちまったなあ……」
下卑た笑いを浮かべ、男たちがじりじりと私を取り囲んだ。
◇
絶体絶命。
私が懐の小刀に手をかけようとした、その時だった。
ギシ――と。二階の階段が静かにきしんだ。
チンピラたちの視線が、そちらへ向かう。
階段を降りてきたのは、一人の男だった。
月明かりに照らされた銀色の髪。全てを見透かすような、鋭い青い瞳。
その男は私のことなど意にも介さず、ただ心底迷惑そうに眉をひそめていた。
「……うるさい。眠れないだろう」
「あぁ? なんだてめえ!」
チンピラの一人が、男に殴りかかる。
次の瞬間、男の姿がふっと消えたかと思うと、背後には床に伸びるチンピラの姿があった。何が起きたのか、私にも誰にも分からなかった。
「な、なんだと!?」
「やっちまえ!」
残りのチンピラたちが、お約束的なセリフを吐いて一斉に襲い掛かる。
けれど男は剣を抜くことすらなかった。柳のように攻撃を受け流し、的確な一撃で、一人、また一人と静かに無力化していく。
喧嘩などではなく、一方的な蹂躙だった。
あっという間に全てのチンピラが床に転がると、男はようやく私の方を向いた。
そして、一言だけ口を開いた。
「……無事か?」
「は、はい! ありがとうございます!」
私は深々と頭を下げた。
あまりの出来事に呆然としながらも、私は懐から布に包んだパンを取り出した。
「あの、もしよろしければ、これをどうぞ。せめてものお礼です」
それは、自分の夜食用に持参していたケバブサンドの試作品だった。
男は無表情でそれを受け取ると、何気なく一口、かぶりついた。
次の瞬間、彼の動きがピタリと止まった。
その青い瞳が、驚きにわずかに見開かれる。彼は手の中のサンドイッチを凝視し、ほとんど聞こえない声でぽつりと呟いた。
「……美味い……」
◇
翌朝。
持ち主の老人がおそるおそる宿屋へやってくると、縛り上げられたチンピラたちが玄関先に転がっていた。
「こ、これは一体……!」
「幽霊の正体ですよ」
私が事情を説明すると、老人は涙を流して感謝してくれた。
「ありがとう、ありがとうお嬢さん! これでやっと、悩みの種が消えたよ。そうだ、この宿、君に譲ろう。ちょうど店を畳もうと思っていたところでな」
「本当ですか!?」
「ああ。君のような勇気のある子が、この宿を蘇らせてくれるなら、ワシも本望じゃ」
「お値段はいかほどでしょう?」
私が聞くと、老人は首を振った。
「最初に情報屋に提示した、銀貨十枚。それで十分じゃよ」
「え、でも……」
それは「幽霊騒ぎ」で瑕疵があったからだ。
老人は笑顔である。
「それだけあれば王都から田舎の息子夫婦の家への路銀になる。土産も買ってやれる。十分だよ」
「分かりました」
私は懐からギルドの賭けで勝った銀貨を取り出した。提示された銀貨十枚に上乗せして、それを老人に渡す。
「これはお礼です。どうか受け取ってください」
こうして私は、正式に『割れ鍋亭』の新しい主人となった。
さて、これからどうしようか。まずは大掃除からだよね。
私が一人、広くて埃っぽい談話室で考えていると、いつの間にかあの銀髪の男がテーブル席に座っていた。
彼は私をまっすぐ見て、真剣な眼差しで言った。
「……あのサンドイッチ、もうないのか? 朝食に出てくると期待していたのだが」
どうやら彼は、この宿と……私の料理を気に入ってしまったらしい。
「クラウスだ。しばらく前からここに泊まっている。今後も拠点にするつもりだ」
「はあ。まあいいですけど、宿屋の開業はまだ先ですよ」
「構わない」
私は、広くて可能性に満ちた自分だけの厨房に立つ。
傍らには『絶対倉庫』に眠る最高の食材。
そして談話室には無口で最強、どうやら食いしん坊な用心棒。
(さあ、お城と最初の家臣(※お客さんです)も手に入れた。ここからが、私の本当の革命の始まりよ!)
私の胸は希望と興奮で、かつてないほど高鳴っていた。




