23:麹菌の力
「次に麹菌がありそうな場所は……酒蔵かな」
私たちは町外れまで行って、エールの醸造所を頼んだ。
「なんだ、なんだ。シスターが酒蔵に来るなんぞ、どうしたんだ。シスターが酒を飲んでいいのかい?」
醸造所の親方は、そんなことを言って笑っている。
「あらあら、まあまあ。私だって嗜む程度には飲みますわよ」
私も調子を合わせてみる。
実際のところ、この世界のシスターは飲酒をほぼしない。ミサの時にワインをほんの一口飲むくらいだ。
だが前世ではビールが大好きだった。試しに一杯、エールを飲ませてもらったが。
(ううーむ、いまいち)
今世では初めて口にするエールだが、雑味は多いし炭酸は弱いし、冷やしていなくてぬるいしで、いいところがない。
うーんこれは、仕事終わりの至福の一杯には程遠いなぁ。料理にも使えるかどうか。
「にゃーん」
エールのジョッキを抱えて微妙な顔をしていると、ラテが戻ってきた。
私は親方に頭を下げて、醸造所を後にした。
「どうだった?」
『やはり駄目だな。麹菌らしきものはいない。まあ、酒蔵の酵母も覚えてきたから、後で酒でも作るか』
「あそこのお酒はあんまり美味しくなかったよ。作るにしても、どうだろうね」
さて、他に発酵が関係する場所といえばどこだろう。いまいち思いつかない。
結局、麹菌を見つけることはできなかった。
◇
『ルシルよ』
調査に行き詰まって数日、ラテが言った。
『今まで行った場所に、麹菌そのものはいなかった。だが吾輩の力は、空気中や食物の中にいる無数の微生物の力を感じ取れる。おぬしの言う麹菌に近い力を持つ者も、ごくわずかながら存在するようだ』
「……!」
その言葉に、私は閃いた。
「そっか。見つからないなら、育てればいいんだわ!」
ラテが感じ取った可能性を持つ菌を、麦に付着させる。そしてラテの力で、その菌やより可能性を持つ菌を選んで培養させるのだ。
割れ鍋亭の厨房が、世紀の大実験場の舞台となった。
私は米と麦を蒸したものを用意した。なお、この国の主食は麦だが、米も割高だが他国から輸入されているのである。
蒸し米と蒸し麦の「麹床」のすぐ横に立って、ラテが意識を集中させる。
『……』
ラテから放たれた金色のオーラが、麹床をふわりと包み込む。
それはまさに神業だった。
ラテは、麹菌以外の全ての雑菌の活動を「腐敗」の力で抑制し、目的の菌の活動だけを「発酵」の力で爆発的に増殖させていく。
私の肉眼では、何が起こっているかはっきりと分からない。
でも、ラテが深く集中している様子は見て取れた。ここは彼を信じて待つだけだ。
それから数日後。
厨房には甘く芳しい、栗に似た香りが満ちていた。米と麦の表面は、美しい白い菌糸で覆われた「米麹」「麦麹」へと変化していた。
「やった……! すごいよ、ラテ!」
『ふん。当然だな』
私はウキウキと次の工程に取り掛かった。
厨房には山のように積まれた蒸したての大豆が、まだ湯気を立てている。
「まずはお味噌からやりましょう。フィン、ミア、手伝ってくれる?」
「うん!」
双子は元気に手を挙げて、大きなすり鉢とすりこぎ棒を抱えてきた。
蒸した大豆をすり鉢に入れて、完全に冷めないうちに丁寧に潰していく。冷めきってしまっても熱すぎても麹菌が死んでしまうので、注意が必要。
子供たちの力では大変なので、私も一緒になって作業を進めた。
「よし、こんなものかな。次に、米麹とお塩を混ぜた『塩切り麹』を、この大豆としっかり混ぜ合わせるわ」
「まぜまぜ……」
混ぜ合わせた大豆と麹は、粘土のようなかたまりになった。
私はそれを手のひらに乗せて、おにぎりを握る要領で丸めていく。これが「味噌玉」だ。
「こうやって団子にして、壺の底に叩きつけるようにして投げ入れるの。そうしたら中の空気が抜けて、カビが生えにくくなるのよ」
前世では一時期、麹にはまって醤油と味噌を手作りしていた時期があった。
結局は優れた製品の方が良いと分かってやめてしまったが、今になって経験が生きるとは。不思議なものだ。
私が力いっぱい味噌玉を壺に投げ込むと、「べちっ!」というい良い音がした。
「わー! 面白い!」
「えいっ!」
フィンとミアも楽しそうに真似をして、味噌玉を投げつけている。べちっ、べちっと音が次々に響いた。
味噌玉を全て投げ入れたら、壺の中で隙間なく平らにして、表面に塩を振る。きっちりとふたを閉めて、とりあえず完成だ。
「次はお醤油よ!」
醤油に使うのは、大豆と小麦で作った「醤油麹」。
あらかじめ計量しておいた食塩水を壺に入れて、醤油麹を加えて混ぜる。麹が食塩水を吸って混ざり合っていくと、やがて見た目も香りも濃厚な「もろみ」ができあがった。どろりとした液体は、いかにもパワーを感じさせる。
「ルシル、すごいね。ふつふつ言ってるよ」
壺の中を覗き込んで、ミアは不思議そうに言った。
フィンも言う。
「息を吸ったり吐いたりしてるみたい」
「ええ。ここからたくさんの微生物たちが、美味しい醤油を育ててくれるの。目には見えないけど、生きているのよ」
二つの壺が私たちの前に並んだ。
味噌と醤油。どちらも本来であれば、ここから数ヶ月、あるいは一年以上という長い時間をかけて熟成させていく。
けれど――。
◇
私たちのチームには、最強の発酵マイスターがいる。
『発酵と熟成の時間だ。少し長引くぞ』
ラテが壺に前足をかざすと、再び金色のオーラが放たれた。彼の「熟成」の力が、樽の中の時間を超高速で進めていく。
ふつふつと発酵が進む音が聞こる。厨房は醤油と味噌の濃い香りに満たされた。
そうして数時間後。
壺の中には見事な味噌と、黒く輝く液体――醤油が完成していた。
私は醤油を小皿に取って、指先につけてそっと舐める。
口の中に広がったのは、懐かしい味。大豆の風味が凝縮された、香ばしくてしょっぱいあの味だった。
「……美味しい」
ぽろり、と。私の目から涙がこぼれ落ちた。
「ルシル?」
双子がびっくりしている。私は慌てて涙をぬぐった。
「なんでもないよ。あんまり懐かしい味だったから、ついしんみりしちゃったの」
双子とラテ用に醤油と味噌を少しずつ小皿に取る。
『悪くない味だ。麹菌とやらも、なかなかいい生き物だな』
「うん! ありがとう、ラテ!」
私は満面の笑みで相棒を抱きしめた。
「不思議な味」
フィンとミアは目を丸くしながら味噌と醤油を舐めている。
「これで、作れる料理が無限に広がるわ! ラーメン、唐揚げ、照り焼き、焼きおにぎり!」
醤油と味噌は、元日本人にとっては最強の武器だ。私の頭の中は、これから生まれる新しいB級グルメでいっぱいになっていった。