13:トイレの女神様
【ラテ視点】
「この子の咳が止まらないんです。熱も夜になるとぶり返してしまって」
顔色の悪い子供を連れた母親が、心配そうに話している。子供はケホケホと苦しそうに咳き込んでいる。
彼らの前に座っていたシスターの女が立ち上がって、子供の胸に手を当てた。
「我らの父よ、偉大なる主である神よ。この者の病魔を祓い、安らぎを取り戻し給え」
短い聖句に続いて、女の手が淡い光を放った。
すると子供の顔色が良くなって、咳も止まった。
「ありがとうございます!」
母親が何度も頭を下げている。
女は親子に微笑みかけてから、背後の薬草棚に向かう。何種類かの薬草を取り出すと、手早く調合して小さな瓶に詰めた。
「この薬を一日二回、朝晩と一匙ずつ飲ませてあげてください。飲み切る頃には良くなるはずです」
「お薬もいるのですか? 神様の奇跡で治ったとばかり……」
「私の力は小さくて、病をすっかり良くすることはできないんです。どうぞお大事にしてくださいね」
親子はもう一度頭を下げて、施療院を出て行った。
「次の患者さんは……あら」
入口までやって来た女と、吾輩の目が合う。
「猫さん、どこか具合が悪いの? きれいな黒猫さんね。私の髪と同じ色」
微笑んだ女は、美しい黒髪をしていた。瞳は透明感のある灰色で、ムーンストーンを思わせる。
この女がナタリーで間違いないだろう。
『お前がナタリーか?』
「ひゃっ!?」
確認のため念話を飛ばすと、女は派手に尻もちをついた。
「えっえっ、猫が喋った……!?」
『猫ではない。吾輩は偉大なる腐敗の魔獣、その名をラテと言う。我がしもべ、ルシルの懇願によりここへ来た』
「ルシルですって!」
ナタリーはがばっと起き上がると、吾輩の前足をがしっと掴んだ。
「ルシルちゃんとお知り合いなの!? あの子、急に修道院を出ていってしまって、お腹を減らしていないか心配してたのよ……!」
吾輩は妙な迫力に気圧されつつも、状況を説明しようと試みた。
『あー、腹は減らしていない。むしろ食いすぎて大変なことになっている。お前の力が必要だ』
「あの子ったら、また変なものを食べてお腹を壊したのね! まったくもう、ちょっと目を離すとすぐこれなんだから」
ナタリーは立ち上がり、一度施療院に入って助手らしき修道女に声をかけた。
「すみません、シスター。わたくし、急患の治療に行ってまいります。後のことは頼みます」
「はい、シスター・ナタリー。お任せください」
ナタリーは吾輩を抱き上げると、にっこりと微笑んだ。
「さあ、ラテさん。ルシルちゃんのところに連れていってくださいな」
◇
【ルシル視点】
お腹の痛みに耐えることしばらく。永遠に続くかのような苦行だったが、割れ鍋亭の店の扉が開く音がした。
『ルシル。戻ったぞ』
「ルシルちゃん。ご無事で良かった……!」
ラテとナタリーの声がする。ラテはちゃんとナタリーを連れ帰ってくれた。
「う、うん、ご無事っていうか、ご無事じゃないっていうかぁ……」
トイレの扉越しに感動の再会を果たす私たちだったが、その間もお腹はごきゅるるると音を立て続けていた。
「お腹が痛いと、ラテさんから聞きました。すぐに行きます」
ガチャリ。
あろうことかナタリーは、トイレの扉に手を掛けた!
「ちょ、ちょっと待って! ここトイレなの。私、お尻、丸出しで……」
「まあ……」
激しい苦痛の中、やりたくもない羞恥プレイを強要されて、もう心が折れそうだ。
ナタリーはすんでのところでドアを開けるのをやめてくれた。
「では、ルシルちゃん。このままで結構ですので、症状を聞かせてください」
「はい。生焼けの陸イカを食べたらこうなりました。お腹が、ゴブリンに棍棒で殴りつけられているみたいに痛いです。下すのも止まりません」
「陸イカはちゃんと火を通すようにと、前にあれほど言ったでしょう」
「ごめんなさい」
市場の親父さんにも言われたけど、つい忘れました。
「ルシルちゃんの食いしん坊にも困ったものです。孤児院時代にも……」
「あのぉ、ナタリーさん。今本当に痛いんで、思い出話は後にしてもらっていいですか」
「まあ」
私が涙声で言うと、ナタリーはこほんと咳払いをした。
「では、扉越しに治癒の力を送ります。ルシルちゃんは、なるべく扉に近づいてください」
「えええ、できるかなぁ」
私はだいぶ無理な姿勢で体を前に傾けた。ううっ、お腹が痛い。
ふわりとトイレの扉が光る。ナタリーの治癒の光だ。
これこそがナタリーの「能力」。本人は謙遜するけれど、本当に素晴らしい能力だと思う。
光は扉を通過して、変な態勢でいる私に吸い込まれた。すう――と体が楽になっていく。荒れ狂う私のお腹を優しく鎮めていった。
「ナタリー! 私の女神様! トイレの女神様!」
「トイレの女神様はちょっと」
ようやくトイレから解放された私は、ナタリーに抱きついた。今度こそ本当に涙の再会である。
ナタリーは私の背中を優しく撫でた後、改めて割れ鍋亭の店内を見渡した。
「ルシルちゃん。あなたがいなくなって、本当に心配したのですよ。でもまさか、こんなに立派なお店のオーナーになっていたなんて」
「運が良かったんだ。いい人に出会えて、助けてもらって。おかげでここまで来れた」
ナタリーはふと寂しそうに笑う。
「神様は人の行いを見てらっしゃいますからね。ルシルちゃんがいなくなった修道院は、まるで火が消えてしまったようです。子供たちも寂しがっていますよ。一体どうして、出ていってしまったのですか」
「……院長から聞いていない?」
私が慎重に問いかけると、ナタリーは首を横に振った。
「いいえ、何も。ただ出て行ったとしか」
(ヴェロニカめ、冤罪を着せたのを突かれると困るから、黙っているのね)
私はムッとして口を閉じた。ナタリーが心配そうにしている。
(ナタリーに話すべき? でも、下手に話したら彼女を巻き込んでしまうかも……)
迷いは長くは続かなかった。ナタリーは孤児院時代からの友人。心根の優しさは誰よりも知っている。
それにこうして私と再会した以上、話がどこかで漏れるかもしれない。その時に何も知らなければ、かえって危ない。
「ナタリー、聞いて。実はこんなことがあって……」
そうして私は話し始めた。
ヴェロニカへの疑念と、修道院への懸念を。
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