111:聖女誕生
目の前で起こった奇跡を誰もが信じられず、みなが口を閉ざしている。
しんと沈黙が落ちる中で、エレオノーラが微笑んだ。あの王城の塔で見せるような年相応の笑みではなく、聖女として慈愛と威厳が感じられる笑み。
「わたくしとシスター・ルシルの力で、竜の泉は清らかさを取り戻しました」
彼女は私と繋いだ手を掲げてみせる。
「泉を汚した犯人は、厳しく罰しなければなりません。しかし今はこの清らかな泉の再生を、どうか祝っていただけませんか?」
パチパチパチ、と拍手の音がした。
振り返ればアルフォンスとシルヴェスターが、それぞれ手を叩いている。
その音で正気に返ったかのように、群衆たちも手を叩き始めた。まばらだった拍手の音は、すぐに万雷の喝采になる。
「……すごい。あれが聖女の力!?」
「汚れが一瞬で消えたわ」
人々は興奮した様子で声を上げている。
エレオノーラは優雅に微笑んで、私と一緒に泉から上がった。2人ともずぶ濡れだ。
「市民の皆さん。わたくしたちは着替えて参ります。皆さんはどうぞ普段通り、神殿と泉への祈りを続けてください」
「王女様、いえ、聖女様! ありがとうございます!」
「聖女様、万歳!」
「聖なる竜よ、これからも我が国を見守っていてください!」
エレオノーラを称える群衆と、苦虫を噛み潰したような宰相派の神官長たち。それから呆然としているヴェロニカ。
それらの人々を後にして、私たちは神殿の建物に入った。
最後にふと振り返ると、群衆の後ろの方にいる人が目に留まった。背の高い人で、フードをかぶって顔立ちはよく見えない。
その人は無言で私を眺めていたが、つと踵を返して立ち去っていった。
その時に一瞬だけ見えた、猛禽類のような黄色の瞳だけが印象に残った。
◇
神殿の建物に入り、人々の視線がさえぎられた瞬間。
エレオノーラの体がぐらりとよろめいた。
「エレオノーラ!」
私は慌てて彼女を支える。
彼女の体は以前のように痩せこけてはいないけれど、まだまだ細い。
「大丈夫ですわ。ちょっと張り切って力を使いすぎただけ。休めば治ります」
そう言って笑ってみせるけど、無理をしているのは明らかだった。
「あちらの部屋へ」
シルヴェスターが指示をすると、女神官たちが部屋に通してくれた。着替えが用意されていたので、体の水を拭き取ってから着替える。
「身支度、終わりました」
女神官が声をかけると、アルフォンス、シルヴェスター、それからラテたちが入ってきた。
「エレオノーラ、体は大丈夫かい?」
「ええ、お兄様。平気です」
そう言うものの彼女の顔色は悪い。椅子に座らせて、体が冷えないようにひざ掛けをかけてあげた。
「それにしても、見事な浄化だったね。王女様は大治癒の能力者だが、大治癒とはあんなこともできるんだ」
ギルが言うと、エレオノーラは苦笑した。
「私の能力は、基本的に病や怪我の治療です。あとは毒の浄化を少しだけ」
『何? ではどうして泉を浄化できたのだ』
ラテが言うと、シルヴェスターが驚いた目で黒猫を見た。
「猫が喋った……?」
あ。この人にはまだラテが魔獣だと伝えていなかったっけ。
私は手早く説明する。
エレオノーラが話を再開した。
「それで、竜の泉に撒かれていたのが小麦粉だったのか幸いしました。小麦は私にとって毒です。だから治癒の応用で浄化ができました」
「なるほど……」
思わず唸る。彼女の体質がこんなところで役に立ってしまうとは。
「ルシルが最初にドングリや野菜くずを取り除いてくれたおかげですわ。私にはあれらの食材を『浄化』する力はありませんので」
「だから私と一緒に、を強調していたのね」
「ええ。それにルシルはヴェロニカと宰相派の神官長に、濡れ衣を着せられそうになっていたでしょう。聖女と共に浄化を行う修道女のイメージを押し出せば、不利を跳ね除けられると思って」
とっさの状況でそこまで考えられるとは、エレオノーラは頭のいい子だ。私は感心してしまった。
シルヴェスターが口を開いた。
「エレオノーラ王女殿下、神殿を代表して礼を言わせていただきたい。竜の泉が汚されるなど、前代未聞の不祥事だった。あの場で迅速に事を収められなければ、間違いなく民心の不安が広がっただろう。そうなれば神殿の権威が揺らいでしまう」
「……それが狙いだったのかもね」
アルフォンスが腕を組む。
「地下牢に入れられていたヴェロニカがこのタイミングで脱獄したのは、不自然だ。誰かの――まず間違いなく宰相の手引きだろう」
「宰相はヴェロニカを使い捨てたってことかい? だってあんな騒ぎを起こせば、また牢屋行きだろう。さらに罪が追加されて」
ギルの言葉に、アルフォンスは頷いた。
「そうだろうね。エレオノーラとルシルの力がなければ、この件は確実に神殿の権威を傷つけた。泉を汚した犯人が誰かよりも、神殿の管理不行き届きが責められたはずだ」
「この事件の真の標的はルシルではなく、神殿そのもの。エレオノーラ殿下が聖女としての立場を盤石にする前に、仕掛けたのだろう。……結果として聖女の印象を強めただけに終わったが」
シルヴェスターが苦い顔をしている。
宰相は二人の神官長を傘下に入れているから、神殿の地下牢にいたヴェロニカを逃がすのも不可能じゃない。
ドングリを盗んで私に濡れ衣を着せようとしたのも、言わばついで。まあそれは、ヴェロニカが逆恨みで指示したのかもしれないが。
「これからどうなりますか?」
私が問えば、シルヴェスターが答えてくれた。
「まずはヴェロニカが実行犯だという証拠固めだな。しかし宰相が裏で糸を引いているのは推測にすぎん。彼に繋がる証拠はまず出ないだろう。だが、今回の事件は神殿の権威を傷つけるに至らなかった。それどころか王女殿下の際立った力の演出になった。結果だけ見れば何の問題もない」
「そうですか……良かった」
ほっと息を吐く。
『気になることは他にもある。あの泉の魔力は何だ。異常ではないか』
ラテが口を出すと、シルヴェスターは戸惑ったように答えた。
「猫が喋るのは慣れんな……。竜の泉は特別な泉。生命の竜の涙であり、魔力の源泉とされている。普段から濃い魔力を内包しているが、確かに今はおかしい。最近は徐々に魔力が濃くなっていたのだが、あそこまで上昇していると気づいたのは今日のことだ」
『つまり、おぬしも知らぬということか』
ラテは首を横に振った。
竜の泉は気になるけれど、今は事態を解決できてほっとしている。
エレオノーラの力の演出は、市民の心に強烈に残ったことだろう。
これから聖女として職務が待っている彼女に、また美味しい食事を届けてあげようと思った。




