110:二人の祈り
ザザザザッ、と水面に波紋が走った。
少し距離はあるものの、倉庫の能力が正確に発動する。水面に浮かぶドングリと野菜くずは、次々と倉庫に格納されていく。
周囲の群衆が声を上げた。
「おお……! 泉が清められていくぞ」
だが問題は小麦粉だった。
小麦粉はすっかり水に溶けてしまっていて、分離するのが不可能だ。
ならば水ごと――と思ったのに、ここの水は妙に『重い』。重たくて、思うように倉庫の中に入れられない。
「ぐっ……どうして」
私は唸る。この竜の泉は聖なる泉。元々竜の涙と言われていた上に、建国から五百年もの間、人々の信仰を受け止め続けてきた。
水にたっぷりと含まれた不思議な魔力が、本来の質量の数倍、数十倍もの重みとなって倉庫を拒む。
『ルシル、無理をするな』
顔を歪ませる私の横に、ラテが進み出た。
『この泉の魔力はおかしい。通常ではありえない濃度だ。おぬしの倉庫の能力とて、魔力に影響をされるのだから』
「で、でも。小麦粉をあのままにはできないわ。ちゃんと回収して、せめて肥料か何かにリサイクルしないと」
けれどできそうにない。
小麦粉を回収しようと水を格納すればするほど、体が重くなっていく。
「おほほ! 無駄なあがきだったようね。さっさと負けを認めて跪きなさい!」
押さえつけられた格好で、ヴェロニカが得意そうにしている。神官たちは「何言ってんだこいつ」みたいな顔をしていた。
「竜の泉が汚されるなど、前代未聞の不祥事。これは大神官様の責任問題になりますぞ」
宰相派の神官長が言う。もう一人も口を開いた。
「その通り。どう責任を取るおつもりか?」
「勝手なことを。責任を問うのであれば、我ら神官長も等しく問われるべきだろう。ここで不毛な議論をするよりも、まずは竜の泉を清める。次に犯人を捕まえる。それ以外にない」
シルヴェスターが言って、中立派の神官長たちが頷いた。
「幸い、そのルシルの働きで一部は清められました。すぐに掃除をしなければ」
「ヴェロニカ・スタンリーは拘束を続けるように。容疑者です」
何人かの神官たちが走ってきた。手にはバケツを持っている。泉の掃除をするつもりだろう。
だが、泉に足を踏み入れた神官たちの体がぐらりと揺らいだ。
慌てて互いに支え合っているが、小麦粉が溶けている辺りまで進めない。
「どうした?」
シルヴェスターが声を掛ける。
「それが、泉に入るとひどいめまいがするのです」
神官が答える。彼の顔色は真っ青だ。
「何……?」
シルヴェスターは膝をついて泉に手を差し入れた。途端、眉を寄せる。
「魔力が異常に高まっている。まさかこれほどとは」
「竜の泉は普段から魔力が高いが、確かにこれは異常事態だ」
他の神官長たちも確かめて、難しい顔になった。
群衆たちがざわめき始める。
「おい、何だか様子がおかしいぞ」
「聖なる竜が怒っているのでは? 怖い!」
「神殿は何をやっているんだ!」
人々の怒りが神官や神殿に向き始めた。
いつもは人々の心をまとめあげている神殿への不信感。信仰心ゆえの疑いと恐怖が入り混じって、暴発しかけている。
「今すぐに泉を清めなければ、きっと竜の怒りが下る!」
「早くしろよ!」
じり、と群衆が前に出た。一触即発の空気が漂う。
◇
「お待ちなさい」
と、その時。
竜の泉に凛とした声が響いた。
見れば神殿の建物の方から、一人の少女が歩いてくる。
美しい金の髪に、引き込まれるような紫色の瞳。――エレオノーラだ。
彼女は兄アルフォンスのエスコートを受けながら、泉のほとりまでやって来た。
「第二王子殿下、第一王女殿下」
シルヴェスターが言って軽く頭を下げた。
神殿は王家とは独立した勢力。たとえ相手が王子や王女であっても、神官たちは跪いたりはしない。
王子と王女の登場に群衆は戸惑った。
「あの娘が王女殿下? 初めて見た」
「噂だと重い病気だったんだろ?」
「でも食料ギルドのデマの時、元気になってきていると言っていたような」
エレオノーラは神官たちと群衆を見渡した。
その姿は威厳があって、少し前のような今にも倒れそうな儚さはもうない。自分の足でしっかりと立っている。
「市民の皆さん、初めまして。わたくしは第一王女エレオノーラ。長らく病に伏せっていましたが、シスター・ルシルの料理のおかげで元気になりましたの」
泉のそばで座り込んでいる私に近づいて、手を取って立たせてくれた。
「わたくしは大治癒の能力者。聖女として神殿に入る予定です。今日は大神官様との面談のため、神殿に赴いておりました。……まさかこんな事態になっているとは、思ってもみませんでしたが」
エレオノーラは痛ましげな瞳で、小麦粉が溶けて濁った水を見た。
「市民の皆さん。どうかご安心ください。竜の泉は汚されてしまったけれど、シスター・ルシルとわたくしの力によって、全て清めてみせましょう」
彼女は私の手を取ったまま、泉の中に一歩踏み出した。
ひやりとした感覚が足元に走る。同時にぐらり、足がふらつく感覚がした。濃すぎる魔力が平衡感覚を奪っているのだ。
ヴェロニカはよく、こんな泉に小麦粉やドングリを投げ入れたものだと思う。
もっとも泉に入ったわけじゃなく、ほとりから投げたのかもしれないが。
けれどエレオノーラは揺るがなかった。
彼女が横目で微笑みを向けてくる。すると私もすっと体が楽になった。
温かな光が体に入ってきたかのようだ。この感覚は知っている。ナタリーの小治癒を受けた時によく似ている。
ということは、エレオノーラが私に治癒能力を使ってくれたんだ。
そのまま私たちは手を取り合って、泉の中を進んでいく。腰下までも水に浸って、小麦粉で濁る部分のすぐ前までやってきた。
「……祈りを」
エレオノーラは軽く目を閉じて、手のひらを水面につける。
「聖なる竜、アステリア王国の守護者エルドランドよ。天駆ける流星の如き竜よ。貴方の慈悲深き涙により、我らの渇きは救われました。どうか私たちに眼差しを注ぎ、これからも慈雨を降らせますように。渇きに苦しむ民を救いますように。飢えと渇きとを遠ざけて、正しく生きられますように」
彼女が口にしたのは『竜の祈り』。この国では一般的な祈祷句である。
別に魔法の詠唱ではない。人々が日常的に口ずさむ、恵みをもたらした竜への感謝の祈りだ。
だからそれ自体には何の力もない言葉、……だったはずなのに。
祈りの最後の一句と同時、カッと光が弾けた。
真昼の太陽のような真っ白な光があふれて、私は思わず目をつぶる。
エレオノーラを中心に力があふれて、泉の表面に波が立った。
白熱した光が収まると、視界が徐々に戻って来る。
そうして私が見たものは――。
汚れも淀みが消えて、元の青い清らかさを取り戻した竜の泉の姿だった。




