108:神殿を巡る思惑
【三人称】
時は少しさかのぼる。
宰相サイラスは、王城の執務室で政務をこなしていた。
猛禽類を思わせる黄の瞳が無表情のまま、机の上に並べられた書類を追っている。
彼の立場は少し前までは盤石だったのに、今では基盤が揺らいでいる。
手駒だった食料ギルドは壊滅的打撃を受けて、実質上の管理権が第二王子アルフォンスに移った。
さらに港町シートンマスの代官バルダスの犯罪行為。
バルダスは確かにサイラスの傘下にあり、献金を受け取っていた。
銀の密採掘はサイラスが指示したわけではない。だがその金を受け取っていた以上は、犯罪の連座として追及を受ける。
(アルフォンスめ。あの短期間でバルダスの罪を立証し、この私にまで憲兵の調査を入れるとは。小僧と思って見くびっていた)
アルフォンスは今年十八歳になった。成人したばかりの年頃である。
少年時代から優秀だったが、野心をむき出しにするタイプではなかった。兄の王太子にどこか遠慮していた節もある。
だが、最近の第二王子は様子が違う。
サイラスと王太子を追い落とす意志を隠さなくなった。
神殿にも手を伸ばし、神官長シルヴェスターと組んだと情報が入っている。
(神殿……)
現在の神殿の勢力は、未だサイラスの影響が強い。
五人いる神官長のうち、二人が宰相派。二人は中立。残る一人がシルヴェスターだ。
神殿のトップである大神官は、現国王の王太子時代からの懐刀。操るには少々骨の折れる相手だった。
サイラスの影響は強いが、決定的ではない。
(エレオノーラ王女の回復の噂が事実であれば、神殿の勢力がくつがえる)
エレオノーラは大治癒能力者。この非常に貴重な能力の持ち主は、聖女または聖人として大神官と同等の待遇で神殿入りするのが習わしだ。
サイラスは考える。
不利な局面に追い込まれている現状、神殿勢力を失うわけにはいかない。
サイラスには切り札がある。しかしそれは、可能な限り使いたくない力だ。制御を誤れば自滅の危険を帯びる種類の力。
(であれば……)
彼は便箋を取って書き始めた。送る相手はかつての愛人、ヴェロニカ・スタンリー。
スタンリー侯爵家との縁が便利だった上に、ヴェロニカはサイラスにベタ惚れして何でも言うことを聞いた。
修道院長時代の寄付品横流しは、相応の金額となってサイラスの懐を潤した。
だが、切り捨てるのに未練はない。彼女の価値は既に底をついたのだから。
最後に一つ汚れ仕事をやらせて、完全に見切りをつける。仕事の成否は問わない。実行することだけが重要なのだ。
この企みが行われれば、神殿の権威は大きく失墜するだろう。
そうすれば現在の大神官は責任を問われ、引退に追い込まれる。
空いた席をサイラス派閥の神官長が埋める。そうなれば、たとえ聖女が乗り込んできても対抗ができる。
『心配はいらない。全て上手くいくよう取り計らっている』
手紙の最後にそう記して、サイラスは唇の端を歪めた。
ヴェロニカの王都脱出など手配していない。そのまま再逮捕され、さらなる重罪が下されることだろう。
通常の人間であれば、この仕事はやりたがらない。
能力の問題ではなく、精神的な制約のためだ。
しかしもう後のないヴェロニカ、サイラスを盲信している彼女であれば駒にできる。
サイラスは腹心の部下に手紙を託し、もう一つ指示をした。
アルフォンスが懇意にしているという、市井の店。食料ギルド壊滅の引き金を引いたあの店に、泥をかぶせるために。
ヴェロニカはルシルを恨んでいる。
ルシルに上手く冤罪を着せられずとも、ヴェロニカがルシルを恨んでの犯行という筋書きを強化できるだろう。
そうなればサイラスは知らん顔を決め込めば良い。全てはヴェロニカがやったことであり、証拠さえ残さなければサイラスに累は及ばない。
一通りの指示を出し終わって、彼は窓辺へと立った。
眼下には王城の庭が広がっている。
美しく整えられた庭には、庭師や使用人、貴族たちが行き来している。平和な光景だ。
しかしサイラスは知っている。この美しい城の地下に眠るものの正体を。
伝説に謳われる存在が、今やどのような怪物に成り果てているのかを――。
◇
【ルシル視点】
ドングリ盗難事件から数日後。
盗難事件は結局、犯人が捕まらなかった。
夜中に素早く盗みに入り、干してあるドングリだけを拾ってさっさと逃げていった。
目撃情報はなく、また被害額が軽いので私たちも憲兵も本気で追わなかったせいもある。
「それじゃあ旅するキッチン、行ってきます!」
倉庫に料理と屋台を格納し、準備を整える。
そうしていつも通り出発しかけて――。
「割れ鍋亭店主、ルシル! すぐに神殿に出向くように!」
息せき切らせて走ってきた神官が、叫ぶように言った。
あの神官は知っている。シルヴェスター神官長の部下だ。
「何事ですか?」
「事情は道すがら説明する。今はとにかく、すぐに向かってくれ」
「え、あ、はい」
神官の様子はただごとではない。
呼ばれたのは私だけだったが、ラテ、ギルとクラウス、フィンとミアもついてくることになった。
◇
「竜の泉が汚されたのだ」
と、神官は言った。
「りゅうのいずみ?」
早足で半ば走るようにしながら、フィンが不思議そうに言う。
「竜の泉は、建国王の友である生命の竜エルドランドの涙と呼ばれる泉よ。ずっと昔、アステリア王国ができる前、この一帯は乾いた荒れ地だった。渇きに苦しむ人々を見て、竜は涙を流した。すると涙はみるみるうちに泉になり、人々の喉を潤した」
この国では有名な建国神話の一節である。
フィンは隣国の子なので、知らなかったのだろう。
竜の泉の伝説の真偽はともかく、神殿のすぐ裏手にある(というか、泉のそばに神殿が建てられた)泉は、聖なる泉として信仰の対象になっている。
「汚されたとはどういう意味ですか?」
「……大量の野菜くずや小麦粉などが投げ込まれていた」
何だと! 食べ物を粗末にしてる!
私の内心の憤りに気づかず、神官は続けた。
「投げ込まれたものの中には、ドングリもあった。そのため一部の者が、泉を汚した犯人がルシルだと騒ぎ立てている」




