104:夜の出会い
「名残惜しいけれど、そろそろ王都に帰らないとね」
十日目の夜。私は宿屋の食堂で、みんなを集めて話していた。
「割れ鍋亭も心配だからねえ。雇い人たちだけじゃ、なかなか手が回らないだろ」
ギルが言えば、フィンも頷く。
「ルシルがいないと、旅するキッチンの屋台は出せないから。じょうれんさんたち、きっと待ってるよ」
「シーフードもいいが、いつもの割れ鍋亭の味が恋しくなってきた」
これはクラウスである。食い気ばかりだな。
「昆布のスープはあれから研究を重ねて、かなりいい感じにできたわ。あとは王都の店で麺を打って、シーフードラーメンデビューといきましょう」
「たのしみ」
ミアがニコニコしている。
こうして私たちの最後の滞在の夜が過ぎていった。
◇
夜、波の音を聞きながら眠っていると、ふと目が覚めた。
私は普段は朝までぐっすり人間なので、途中で目覚めるのは珍しい。
しばらくベッドの中で寝返りを打っていたが、目が冴えてしまったので起き上がった。
同じベッドにフィンとミアが眠っている。ラテは見当たらないが、彼はたまに夜の散歩に行くので気にしないでおく。
双子を起こさないよう気をつけてベッドを出て、部屋を抜け出した。私も散歩をしてこよう。
真夜中の港を渡る風は、潮の香り。もうあの甘ったるいヘドロの匂いはしない。
月光を受けて、海面はきらきらと輝いている。
――ふと。
港の埠頭の先に誰かが立っているのが見えた。
最初はラテかと思った。見慣れた金色のオーラに包まれていたからだ。
でも近づいたら違った。
それは人だった。オーラに見えたのは彼の金色の髪が、月の光を反射していたのだ。
彼は黙って海の向こう、水平線を眺めている。
「あの……?」
遠慮がちに声をかけると、彼は振り返った。
金色の髪に金色の瞳をした、十代前半の少年である。何となく面差しがアルフォンスに似ている、かもしれない。
「こんばんは、シスター。月のきれいな夜だね」
声変わりをする前の澄んだ声が、夜の潮風に乗って響く。
姿も声も確かに少年なのに、何か違和感がある。
不快ではない。ただ何か、大きなものが隠されているような。そんな違和感。
少年が軽く手招きをしたので、私は少しだけ近づいた。
「僕にとって、この海は――」
私に語って聞かせるというより、独り言のような口調で彼は言った。
「遥かな旅路であり、遠く向こう側の故郷とをつなぐ、あるいは断絶する壁でもある。戻りたいとは思わないが、たまに懐かしくなるね」
「……え?」
私は思わず彼を見た。
この世界は航海技術がさほど発達しておらず、大陸は他に発見されていない。
私は前世の知識として、海の向こうに大陸がある可能性を知っている。
けれどもこの国の人々は、そんな考えはそもそも持っていないのに。
「あなたは、海の向こうから来たの?」
少年は答えない。微笑むだけだ。
いや、違う。
私は一つ思い出した。この国の人々は海の向こうの大陸を知っている。――おとぎ話として。
アステリア王国の建国王エリオットは、遠い国で神々から竜の卵を授かった。その国が海の向こうなのだ。
エリオットと竜は竜の背に乗ってこの大陸にやって来る。海を越えて。
そしてさらにさまざまな困難や冒険を乗り越え、アステリア王国を建てたと言われている。およそ五百年前の話だ。
「あなたは――」
誰?
そう聞こうとした言葉は、少年によってさえぎられた。
「ラテをお腹いっぱいにしてくれて、ありがとう。あの子はずっと空腹で、一人ぼっちだった。今は温かい人々に囲まれて、幸せに暮らしている。僕はそれが何よりも嬉しい。もう一人のあの子は手遅れかもしれないが、せめてラテだけは、このまま幸せでいてほしいんだ」
ラテは王都の路地裏で、餓え死に寸前までお腹を減らして行き倒れていた。
私がケバブサンドをあげたら、すごい勢いで食べたっけ。
彼はラテの過去を知っているのだろうか?
「何の話をしているの? あなたはラテの知り合い?」
少年は答えず、また海を見た。
「ラテが出会ったのが、君で良かった。ありがとう、ルシル。異界の魂の持ち主」
「……!?」
ぶわりと金色の光が弾けた。眩しさに一瞬目をつむる。
その瞬間、不思議なイメージが私の頭の中に流れ込んだ。
何かとてつもなく大きな存在がいる。その大きなそれに少年が手をかざすと、まるで分裂するように小さな何かが生まれた。
少年は大きなそれと小さなそれを愛おしげに撫でると、小さな方を空に放つように掲げる……。
光が収まる。目を開けると、少年の姿は見当たらない。
「消えた……?」
呆然としていると、すぐ足元から声がした。
『何を呆けておる』
「わっ! ラ、ラテ!?」
見ればすぐそこに、先ほどまで少年が立っていた位置にラテがいた。
「ラテ、こんなところで何をやっているの!」
『散歩だが? ついでだから海を見ていた。船はこりごりだが、飛竜の背に乗って海を飛び越えるならいいかもしれぬと思ってな』
「そ、そう……。ところでさっき、ここに男の子がいなかった? 十二歳くらいの」
『知るか。吾輩は静かな夜の海を愛でていたのだ』
ラテが嘘をついているようには見えない。では、先ほどの少年は一体何だったのか。
「……ラテは私と出会う前、どうやって暮らしていたの? 家族はいないの?」
『今日は妙なことばかり聞くな。家族はおらん。魔獣は親から生まれる種類のものもいるが、吾輩はそうではない。気がついたら成獣の姿で存在していた。恐らく魔力から直接生まれるタイプの魔獣だったのだろう』
そんなこともあるのか。
『家族はおらんと言ったが……』
ラテは海を眺める視線を外さずに続けた。
『おぬしやフィンとミアが、今の家族と言えるかもしれんな』
私は思わず足元のラテを見た。ヒゲがピクピク動いている。あれはきっと、照れ隠しだ。
私の心にむくむくと喜びが湧き上がってくる。
やばい、ニヤニヤが抑えられない。
「そうよね! 私もラテのこと、家族だと思っているよ!」
『おい、よせ! くっつくな!』
ラテを抱き上げて頬ずりしたら、すごく嫌な顔をされた。このツンデレさんめ。
「私が一番のお姉さんで、ラテは弟。フィンも弟、ミアは妹よね」
『ふざけるな。吾輩が兄に決まっておろう』
「でもラテはいつ生まれたか分からないんでしょ? 私の方が年上だよ、きっと。前世分もあるし」
ラテにはだいぶ前に前世の話をしている。『ふーん』くらいで軽く受け流された。
『前世を持ち出すなら、お姉さんではなくお母さんだろうが。厚かましい』
「あはは、それもそうね」
潮風が吹く。夏とはいえ、少し風が冷たい。
風邪を引く前に宿に戻った方がいいだろう。
私はラテを抱っこしたまま、宿屋への道を戻り始めた。腕の中の黒い毛皮は、とても温かい。
あの不思議な少年は気にかかるが、ラテの幸せを願ってくれた。だから悪い人ではない。
もう一度振り返った海は、静かな波を寄せては返していた。




