10:最高の相棒
ラテが仲間になって、初めての朝が来た。
厨房に足を踏み入れると、昨日まで鼻を突いていた腐敗臭はすっかり消えて、代わりに爽やかな乳製品の香りが満ちている。壺の中には、ラテが作り出した極上のヨーグルトがたっぷりと入っていた。
「おはよう、ラテ」
私の足元で丸くなって眠っていたラテに声をかけると、彼は小さく「にゃあ」と鳴いて、金色の瞳を開けた。厨房が一人ではなくなった。そう思えば、じんわりと心が温かい。
開店と同時に一番乗りでやってきたのは、やはりクラウスさんだった。彼は無言でケバブサンドを注文すると、カウンターの隅で毛づくろいをしているラテの存在に気づき、わずかに眉を動かす。
最強の剣士と強大な魔獣(猫)が、無言で見つめ合う。奇妙な緊張感が走る中、私は「はい、おまちどうさま!」と能天気にケバブサンドを差し出した。
◇
ケバブサンドの安定供給のためには、ヨーグルトの量産体制を整えなければならない。
私は市場で大量の山羊乳を仕入れてくることにした。
「ラテも来る?」
『そうだな。人間の町は興味深い。見物に行くとしよう」
今日買うつもりなのは山羊乳だが、他にも発酵食品で生かせるものがあるだろう。発酵マイスター・ラテの審美眼で見極めてもらうのだ。
「元日本人としては、お醤油と味噌は外せないんだよね~」
『なんだ、それは。というか「元日本人」とは何だ?』
「それは話せば長くなるねぇ」
前世の話は言いふらすようなものではないが、ラテになら言ってもいいだろう。だいたい、腐敗と発酵の微生物の話を(勢いで)もうしてしまった。人間の文化に疎い彼だが、そのうち私の話が人間の知識として異例だと気づくはずだ。
「とりあえず、ケバブ用のヨーグルトを確保しよう。その後、いろいろ話すよ」
『承知した』
市場は今日も賑わっている。最近の私は割れ鍋亭の商売に専念するため、スープデリバリーのお仕事はやめてしまった。
それでも常連さんが挨拶がてら声をかけてくれる。
「あっ、シスター。今日もスープはなし?」
「ごめんなさい。お店の商売が忙しくて、こちらまで手が回らないんです」
「うーん、そっか。仕方ないね。でも、あっちのお店は少し遠いから。余裕ができたら市場でも売ってくれよ。スープもサンドイッチも食べないと腹が寂しくてさ」
そんなことを言われてしまう。嬉しい悲鳴ってやつだ。
ケバブのヨーグルトソースもまだまだ工夫の余地があるし、忙しいことこの上なし。
できればスープ屋台の店主さんに挨拶して、たまにでもデリバリーをしたいんだけどねえ。
ラテは興味深そうな顔で市場をきょろきょろと見回している。人混みの中でピンと立つ尻尾が可愛らしい。
彼はトコトコと歩いて、一件の店の前で立ち止まった。
『ルシル、見ろ。魚だ』
生きたまま樽に入れられた魚が泳いでいる。ここは港町まで少し距離があるが、こうして生け簀のように運んできているんだ。
ラテがじゅるりとよだれを垂らしそうな顔になっている。
『美味そうだ。こいつもお前の料理でとびっきりになるんじゃないのか』
「あ、そうね。ヨーグルトソースは魚にも合うと思うよ。お魚もタンパク質だから、ヨーグルトの乳酸菌が柔らかくふっくらにさせてくれる」
『よし、買え。買うんだ』
「いや、今日は山羊のお乳をね……」
『買ってー!』
腐敗の魔獣様が二歳児のような駄々をこねだしたので、私は仕方なく魚を一匹買った。
「毎度あり。下ろしておくかい?」
店主が包丁を構えるが、私は軽く手を振って断った。
「いいえ、平気です」
魚を下ろすのは得意だ。前世でも修道院でもたくさんこなした。
魚を絶対倉庫に格納する。冷蔵庫がない世界で、時間停止は便利過ぎるわ。
「お魚の発酵食品といえば、くさやとかシュールストレミングが有名ね」
『なんだ、それは』
「一言で言えば、『すげークサイ食べ物』かな」
『……』
「くさやもそうだけど、シュールストレミングは世界一臭い食べ物だって言われてたね。うん、そのうち一度挑戦してみよう」
『…………』
さらに市場を歩いて行くと、野菜果物コーナーに差し掛かった。リンゴが手頃な価格で出ていたので、買っておく。
「ヨーグルトにリンゴをすりおろして加えると、けっこういい感じだったから。あとはニンニクも」
『リンゴとニンニクを同時に加えるのか?』
「そうだよ。美味しいよ?」
『……料理とは、錬金術もかくやであるな』
ラテは妙に悟ったようなことを言っている。
「あっ! 大豆がある!」
私は一軒の露店に駆け寄った。たくさんの豆が売っているお店で、重ねられたざるの上におなじみの丸い豆があったのだ。
大豆があれば、お醤油や味噌、お豆腐が作れる! 日本人としての魂が燃え上がった。
醤油も味噌も作り方は知っている。一時期手作りに凝っていて、色々試したのだ。
この世界には麹がなくて実現不可能だったが、今はラテという相棒がいる。材料と仕込む場所さえあれば何とかなるだろう!
私は大豆も買い込んで、絶対倉庫に入れた。倉庫最高。
『山羊の乳を買うのではなかったのか?』
ラテが呆れている。
「お魚買ってー! と駄々をこねた人には言われたくありません」
『「人」ではない。魔獣だ』
そんな憎まれ口を叩きながら、私たちは今度こそ山羊乳を扱っているお店にやって来た。
たくさんのバケツにミルクが入っていて、濃い匂いが漂っている。山羊も何頭かいて、「メェ~」と可愛らしく鳴いていた。