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01:始まりの一皿と、追放の夜

 冬の終わりの重たい雪が、灰色の空からひっきりなしに舞い落ちてくる。

 薄汚れた修道服一枚では、王都の冬の厳しさは堪えた。指先はかじかみ、吐く息は白く凍って雪の向こうに消えていく。


「……お腹、すいた……」


 背中には、路地裏の汚い壁の感触。寒い中でも感じられる、生ゴミの悪臭。

 私は冷え切った手で、たった一つの所持品を握りしめていた。

 石みたいに硬くなった、黒パンの一切れだ。施しだと、修道院を追い出される時に投げつけられたものだった。


 口元に持っていくけれど、歯が立ちそうにない。そもそも、もう噛み砕く力さえ残っていないかもしれない。


 意識が朦朧としてくる。

 遠のいていく意識の中、ふわりと温かい湯気の匂いがした……ような気がした。


 あれはほんの数日前のこと。

 そうだ、私は厨房に立っていた。大鍋の中ではクリーム色に輝くシチューがぐつぐつと煮えていて、子供たちの「美味しい!」っていう歓声が、聖歌みたいに響いていたっけ。


(どうして……?)


 ただ、お腹を空かせたあの子たちに、温かいものを食べさせてあげたかっただけなのに。

 たった一皿のシチューが、どうして……私から全てを奪ったの……?





【三人称視点】


 ――数日前の出来事である。


 その日、修道院が運営する孤児院に、懇意にしている貴族からたくさんの寄付があった。新鮮な野菜と上等な干し肉。普段はめったにお目にかかれない香辛料の数々が、所狭しと並べられている。


 子供たちが大喜びしている横で、修道院長ヴェロニカの反応は冷ややかだった。

 彼女は冷たい商人のような目で、寄付された品物を品定めしている。


(ふん、今年も良い品が手に入ったわ。これを馴染みの商人に横流しすれば、またあたくしの懐が潤うというもの)


 ヴェロニカは元は高位の貴族令嬢だった。結婚前に不貞を働き、婚約を破棄されて貴族社会を追放された。

 娘の醜聞をもみ消すために実家である侯爵家が動いて、この王都の修道院長に収まったのだ。

 以来、彼女は厳格で高潔な修道院長の仮面をかぶりながら、社交界に返り咲く機会を狙っている。

 寄付された品々やお金を横領し、実家と繋がりのある商人と手を組んで、私腹を肥やしている。

 潤沢な資金で美容に勤しむヴェロニカは、三十五歳の年齢とは思えないほど若々しい。誰もがいつまでも美しい修道院長を尊敬していた。


 その日も子供たちの昼ご飯は、いつも通りの味気ない麦粥のはずだった。食事当番の修道女たちには、横流しする予定の食材に指一本触れさせるなときつく言い渡している。


 ところが一人の修道女見習いが、勝手な動きをしたのだ。

 ルシルという名のその少女は、今年で十七歳。孤児院出身で、修道女見習いとなった者だった。


 ルシルは寄付された食材の山を見て、妙な正義心を持ったらしい。

 こっそりと厨房に忍び込んで、食材の一部に手を付けた。

 干し肉を戻して野菜の皮を剥き、小麦粉を炒めて牛の乳を加え、ソースを作る。大鍋でコトコトと煮込んだシチューは、見たこともない不思議な白い色をしている。美食に慣れたヴェロニカでさえ、思わず唾がわくような良い香りを振りまいていた。


 ルシルは時折、こうして珍しい料理を作る。レシピの出どころを問い詰めても「さあ……? 何となく思いつきまして」などとふざけた言い方でごまかすのだ。


「美味しいは、正義なんだから!」


 ルシルの声が厨房に響く。

 その日の食卓は、子供たちの歓声でいっぱいになった。


「美味しい! ルシルお姉ちゃん、これすっごく美味しいよ!」


「毎日これがいい!」


 子供たちは夢中でシチューを頬張っている。その横で、ルシルは幸せそうに彼らを眺めている。


 と、その時。

 食材の寄付主である貴族夫人が、予告なしに視察に訪れたのである。

 予想外の貴族の登場を知らされて、ヴェロニカは慌てて院長室を出た。

 食堂では例の美味しそうなシチューが並び、子供たちが笑っている。


(あれは、寄付された食材! 使うなとあれほど言ったのに!)


 ヴェロニカの内心を知るはずもなく、貴族夫人は感動した様子だった。


「まあ、なんて素晴らしい香り! 子供たちも、本当に幸せそう! このお料理は誰が作ったの?」


「はい、私です」


 夫人はルシルの手を握った。

 それから無邪気な笑顔で、ヴェロニカに問いかけた。


「院長様、この修道院では、いつもこれほど素晴らしいお食事なのですか? わたくしが以前お見かけした時は、とても質素な薄いお粥のようでしたけれど」


 その瞬間、ヴェロニカの愛想笑いがぴしりと凍り付いた。

 ルシルが空気を読まずに答える。


「はい、いつもは質素な食事です。今日は寄付をいただけたので、奮発しました」


「あら、そう? 私以外の人も、時折寄付をしていると聞いたのですけれど……」


 夫人は眉を曇らせた。ちらりとヴェロニカを見る視線に、疑念の色が灯っている。


「孤児と修道女の人数は多いものですから。普段は節約しながら、寄付でいただいた食材を使っておりますのよ」


 ヴェロニカはどうにか表情を取り繕って答えた。

 夫人はまだ少し迷っているようだったが、それ以上は何も言わなかった。


 夫人が修道院を去った後、子供たちの満足の声とは裏腹に、ヴェロニカの周囲の空気は冷え切っていた。

 食器を片付けるルシルは気づかない。ヴェロニカの瞳の奥で、ルシルへの殺意にも似た憎悪が燃え盛っているのを。


(このままでは終われない。あの娘を追い出してやる)


 ルシルは元々優しく聡明な少女で、子供たちに慕われていた。

 何の後ろ盾もない孤児出身だけれど、この修道院で長く過ごせば、邪魔者になりかねない。

 ヴェロニカはルシルの追放を決めて、唇を歪めるようにして笑った。


 翌日、ヴェロニカはルシルを院長室に呼び出した。


「今日、呼ばれた理由は分かっていますね?」


 沈痛な表情を装って、彼女は言う。院長室の重厚な机の上には、鍵が開いて空になった小さな金庫が載せられていた。


「修道院の大切な寄付金が盗まれました。昨夜、あなたが盗み出したと証言があったのです」


「盗み……!? 違います、私はやっていません! 何かの間違いです!」


 ルシルは必死に言うが、ヴェロニカは取り合わない。


(ふん、冤罪じゃなくってよ。あたくしの財産になるはずだった食材を、お前は盗んだ。正当な罰だわ)


 シチューを作ったという事実を、「窃盗」という罪に捻じ曲げる。

 彼女は悲しそうな表情を作って続けた。


「ルシル、あなたのやったことは……神への冒涜です。このような穢れた者を、この修道院に置いておくのはできません」


「院長様!!」


「せめてもの情けで、衛兵に突き出すのはやめておきましょう。さあ、早く出ていきなさい」


 こうしてルシルは固い黒パン一つだけ持たされて、着の身着のまま修道院を追い出された。




新作始めました。

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