*第二話 泡夢*
ギィイ…と不快な音を立てながら、ローゼが寝室の扉を押し開ける。
リリーはローゼの背中越しに扉の向こうをのぞき込むと、その見覚えのない景色に困惑した。
長い長い廊下。
黒い壁にはシックな装飾が施されており、複数の大きな窓から淡い紫色の月明かりが差し込んでいる。
天井からは豪華なシャンデリアがつるされていて、ろうそくには淡い灯りがともっている。
月明かりに照らされて怪しげに輝く、光沢のある美しいレッドカーペットが、床を這うように敷かれていた。
ギシ……ギシ……。
ローゼの上品なローファーパンプスが木造の床を踏みしめるたびに、廊下はギシギシと軋む。
リリーはローゼのやわらかい手を握りしめながら、肩を震わせていた。
「ここって、ローゼのおうち……?」
ふと問いかけたリリーに、ローゼは振り返って、にこりと微笑んでみせる。
「ええ。ここはわたくしのお屋敷ですわ。ですが何人か、ニグルミーが迷い込んでしまったようですの。全部やっつけたら、お庭へ行きましょう。庭園のお花が見頃ですのよ!」
その言葉に、リリーは目を伏せた。
ぬいぐるみに襲われたときの恐怖がまだ胸の中に残っている。
「……うん。ニグルミーは怖いけど…ローゼといれば、安心できる。…お花、わたしも見たい」
ポツリとリリーが発した声に、ローゼは立ち止まり、リリーの顔を覗き込んだ。
「怖いのは、当然ですわ。けれど、もう大丈夫。だってリリーにはわたくしがついていますもの!」
ふわりと香るバラの香り。
ローゼの、花のように美しい笑顔は、リリーの心に温かい安心感を与える。
「……ローゼって、お花みたい。かわいらしくて、きれいで…触ったら壊れちゃいそう」
リリーがそう呟くと、ローゼは大きな瞳をこぼれんばかりに見開いた。
「まあ、そんなことを言うのはリリーが初めてですわ。わたくしからしてみれば、リリー。あなたのほうが壊れそうですわ。……こんなに瘦せ細って、包帯まで……」
ローゼは繋いでいた左手を放すと、ガーゼの貼られたリリーの右頬を、するりと優しく撫でた。
「……もう、痛みはないんですの?」
「……うん。もう痛くないよ。……だから、大丈夫」
リリーは自身の右頬にやさしく添えられたローゼの手を取って、控えめに握った。
しばらく静かにリリーを見つめていたローゼの美しい瞳が、静かに揺れる。
「……何があっても絶対に、リリーのことはわたくしが守って差し上げますからね」
そう言って悲しげに微笑んだローゼは、振り返るとすぐにまた歩き出した。
リリーはローゼの揺れる縦ロールを見つめながら、抱えていたうさぎのぬいぐるみを、ギュッと抱きしめた。
***
しばらく歩くと、ローゼは重厚な扉の前で足を止めた。
装飾が施された金色の取っ手。
扉の奥からは、ふんわりと甘い香りが漏れている。
「ここは……?」
「バスルームですわ。先程寝室から出るときに、足音が鳴っていたでしょう?おそらくそのニグルミーは、ここへ入っていったはずですわ。……準備はよろしくて?」
リリーは戸惑いながら頷いた。
バスルームという言葉が、なぜか胸の奥を冷たく撫でたような気がしたから。
扉を開けると、そこには夢のような空間が広がっていた。
真珠のように輝くタイルの床。
色とりどりのシャボン玉が天井を漂い、湯船にはピンク色の泡がたっぷりと立っている。
あちこちに浮かぶアヒルのおもちゃたちが、やさしく口笛を吹いているようだった。
「わぁ……」
リリーはその幻想的な空間に、うっとりと見惚れてしまった。
きらきらと目を輝かせるリリーの横顔を、ローゼは寂しげに見つめると、口を開く。
「ここにいるニグルミーをやっつけたら、お風呂に入りましょう。……あったかいんですのよ」
「……いいの?」
「もちろん。もうこのお屋敷は、リリーとわたくしの、二人だけのものなんですから」
「わたしと、ローゼの……」
ドクドクと高鳴る鼓動を感じながら、視線をバスタブへと戻す。
かわいらしいピンクの泡の奥で、何かが揺れた。
「……ローゼ、あそこ……」
「ええ。その通りですわ。リリー、決してバスタブへ近づかないでくださいまし」
ローゼの声が静かに響く。
その瞬間、ぴしゃりと水音が弾けた。
湯船の泡の中から、巨大な影がぬるりと現れる。
丸くて、ふわふわした耳。
アヒルのおもちゃにまぎれていた、巨大なくまのぬいぐるみ。
ふんわりと優しげな顔が、まるでお風呂に誘うように笑っている。
湯船から重そうに足を出すと、二人へじりじりとにじり寄るニグルミー。
ペタン、ペタンと、濡れた足音が部屋中にこだまする。
ローゼは静かにリリーの手を放すと、両手でしっかりとハンマーを構えた。
「リリー、ここからは任せてくださいませ。リリーをお護りするのが、わたくしの役目」
リリーを壁際の椅子へ座らせると、ローゼは勢いよくニグルミーの方へと走っていった。
ぴょんっ、と軽やかに踏み込んだローゼは、自分たちより二、三倍も大きいニグルミーの頭上にまで跳び上がる。
重々しいハンマーが勢いよく振り下ろされるたび、辺りにかわいらしい音が響く。
ピコンっ☆ ピコンっ☆
ニグルミーの身体が弾け、泡が舞い、キラキラとした光が浴室に散る。
リリーは、その様子をただ見つめていた。
震える手を、胸元で必死に抱きしめる。
そこには、いつものうさぎのぬいぐるみがいた。
「(……こわい……でも、ローゼはかわいくて、かっこいい)」
目の前で光が弾ける度、リリーの胸には恐怖と安堵が交錯していく。
最後の一撃。
ローゼがハンマーを高く掲げ、重たく、優雅に振り下ろす。
ニグルミーが崩れ落ちるのと同時に、辺り一面に紫色の花びらが舞う。
ふんわりと、ローゼの上品なバラの香りに包まれた。
「……さあ、リリー。もう怖くないですわ。……悪いものは、ローゼがやっつけて差し上げましたからね」
ローゼはゆっくりと、リリーに手を差し伸べた。
リリーは静かにその手を取ると、湯船へと近づく。
「……わぁ、とってもきれい」
リリーは静かにつぶやいた。
ローゼは優しげな笑みで、リリーを見つめる。
ローゼはとても面倒見がよかった。
リリーと一つ二つほどしか変わらないような年齢であるのに、リリーに触れる手はどこか大人びている。
ローゼはリリーが身に着けていた包帯やガーゼを、一つずつ丁寧にはがしていった。
明らかにサイズの合っていない、ぶかぶかで、ボロボロの汚れたTシャツを脱がせて、湯船へ浸からせる。
ちゃぷん、とお湯が揺れて、泡が舞う。淡いバラの香りが鼻をくすぐった。
「ローゼ……わたし……」
「……リリー。お風呂から上がったら、お庭でお茶会をしましょう。綺麗なお花を見ながら、おいしいお菓子を食べて、温かいお茶を飲むの。……リリーは、綺麗なものだけに囲まれて生きていけばいいんですのよ。」
リリーは紡ごうとしていた言葉を、心の奥深くにそっとしまい込んだ。
「わたくしが、毎日きちんとお世話して差し上げますからね。」
優しく丁寧に洗うローゼのおかげで、リリーはたくさんの泡に包まれながら、どんどん綺麗になっていった。
泡を洗い流した後の、さっぱりと清々しく、身体の内側からポカポカと温かい初めての感覚にリリーは感動した。
ローゼと同じ香りの白いワンピースを着せてもらって、パンプスを履き、身体中の傷にガーゼや包帯を巻きなおしてもらう。
足首まで伸びたリリーの淡い金髪を、ローゼは丁寧に、優しくゆっくりと乾かしてあげた。
まるでお人形のように美しくなったリリーを見て、ローゼは満足げに微笑んだ。
そのままリリーの手を取ると、二人は静かにバスルームを後にする。
誰もいない湯船のお湯が、ちゃぷんと音を立てた。