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【第二章:曙光と黒の影】  ——盗賊の森、ラウンズの残響

塔を出たグリムドアは、風の匂いに顔を上げた。

 草の香りと、わずかに漂う血と土の残り香——それが東の森から吹いていた。

 「……ここを越えなければ、街には辿り着けない」

 背後には育った塔。記憶もないまま目覚め、魔術を身に付けた場所。

 名も知らぬ育て手が残した魔道具と、本——《銀月の書》。

 それに記された一文が、今の彼女の全てを動かしていた。

 > 「月が満ちる十三夜、東の空に“鍵”が現れる。その時、真実が動き出す。」

 そして昨夜、空に“青白く光る鍵のような紋”が浮かんだ。

 自分の出自を知る手がかりが、ようやく動き出したのだ。

 (ならば、私も動く時)

 夜の森は風の音がほとんどしない。葉が擦れる音も、獣の鳴き声もない。

 ただ「何か」が息を潜めているような、張り詰めた静けさだけがそこにあった。

 黒き森。

 地元では“入ってはならぬ森”とされるが、その理由は人知れぬまま——ただ、消えた者は数知れず。

 グリムドアは静かに足を踏み入れる。

 魔力を内に巡らせ、外に気配を張り巡らせながら進む。

 (……獣ではない。複数……弓兵の配置……地形の把握も)

 気配がある。十数、いや二十以上。

 木の上、茂みの中、道の先……彼女はすでに“狙われている”。

 そして数歩進んだ時——空気が変わった。

 「——今だっ!」

 森の中から飛び出す影。顔に布を巻いた男たちが、一斉に彼女を取り囲んだ。

 鎧や剣、装備はどれも一流品。だが血と泥に汚れ、かつての誇りを感じさせながらも今は……ただの盗賊のようだった。

 「嬢ちゃん、いい服着てるなあ。魔術師様か? ならなおさら、いただいていくぜ!」

 「囲め!逃がすな!」

 しかし、グリムドアは微動だにしない。

 「あなたたち、その装備……軍のものね?」

 「……なんだと?」

 「腕も……悪くない。でも“剣の質”と“目の奥”が合っていない。あなたたち……元は戦の兵ね?」

 一瞬、盗賊たちの中に沈黙が走る。

 「なっ……こいつ、何者……!」

 「黙れ!行けッ!!」

 怒号とともに、弓が放たれ、刃が走る。

 だが、彼女はすでに魔法を展開していた。

 「《氷霧のひょうむのとばり》」

 青白い霧が足元から立ち込め、一帯の視界を覆う。

 矢が狂い、斬りかかる者が仲間を切りかける。

 「ぐあっ——」

 「お、おい、どこだっ!」

 その混乱の中で、彼女は魔石を指で弾き、詠唱を続ける。

 「《氷鎖よ、断罪の地を穿て》!」

 足元から巻き上がる氷の鎖が、次々と盗賊たちの動きを封じる。

 一人、また一人と倒れていく。

 (装備はいい。だけど連携が雑。軍規が失われて久しい証拠)

 「くそっ!魔女めぇぇぇっ!!」

 怒号を上げて、斧を持った大男が突っ込んでくる。

 だがその足元、すでに光が走っていた。

 「《雷針》」

 無数の雷が地から噴き出し、男の身体を貫く。

 彼は焼け落ちるように倒れ、静寂が戻る。

 ……その時だった。

 ずしん、と。

 地が震えた。

 盗賊たちが、はっとしたように道を開ける。

 「来るな……」

 「やべぇ、こいつに出てこられちゃ……」

 そして現れたのは、一人の男だった。

 夜よりも重い気配をまとい、黒鉄の大剣を担いだ男。

 体格は一回り以上大きく、剣は人の背丈より長い。

 その男は、グリムドアを見てにやりと口角を上げた。

 「……通行料を払ってもらおうか、嬢ちゃん」

 「あなたがこの一団の頭……?」

 「“盗賊の頭”ってのは違ぇな。俺はただ、生き残った奴らをまとめてやってるだけだ」

 「名を。」

 「アドニス。元“白金の剣”部隊隊長……今はただの追われ者さ。」

 グリムドアの眉がぴくりと動く。

 (ただの盗賊ではない……この男、本物の“戦士”だ)

 風が止む。葉が揺れる音すら止む。

 月が、わずかにその雲間から顔を出した。

 グリムドアは静かに魔石を取り出し、呟いた。

 「……なら、通してもらうには」

 「剣で語るしかねぇな?」

 アドニスが剣を肩から滑らせ、地に構える。

 重々しい金属音が、夜を裂く。

 そして、決戦の幕が落ちた。


  森が静まり返る。

 夜風さえも、その気配に飲まれたかのように止まっていた。

 「来い……魔女。」

 アドニスが黒鉄の大剣を肩に担ぎ、じり、と足を踏み出す。

 その一歩ごとに地が沈み、獣のような重圧が森全体を揺るがす。

 グリムドアは目を細め、ローブの内から青白く輝く魔石を取り出した。

 彼女は静かに呟く。

 「《レイグナ・シェル……展開》」

 魔石が砕け、空中にいくつもの魔法陣が浮かび上がる。氷・雷・風——三属性の術式が、彼女を中心に回転を始める。

 その瞬間、アドニスが地を蹴った。

 重力を物ともしない跳躍。一気に距離を詰め、斜め上から大剣を振り下ろす。

 「ッ!」

 グリムドアは寸前で回避。剣は大地を抉り、衝撃波で木々が吹き飛んだ。

 彼女はすかさず詠唱。

 「《氷鎖よ、地を縫え》!」

 足元に現れる氷の鎖がアドニスの足を縛るが、彼は力で引き千切るように踏み込む。

 「そんな鎖で俺は止まらんッ!」

 グリムドアは顔色一つ変えず、次の魔法を重ねる。

 「《雷針、束ねて落ちよ!》」

 天空から無数の雷の針が降り注ぎ、アドニスの肩、腕、背に突き刺さる。

 だが彼は剣を振り回し、雷を吹き飛ばしながら叫ぶ。

 「遅いッ!!」

 剣が振り抜かれた。グリムドアの肩をかすめ、空間ごと斬り裂かれたような衝撃が走る。

 彼女は苦しげに息を吐きながらも、距離を取った。

 (想像以上……真正面からぶつかって勝てる相手じゃない)

 その瞬間、彼女は足元に緻密な詠唱陣を描く。

 「《魔装陣・解放》……《双属性融合・氷雷穿》!」

 術式が唸りを上げ、彼女の周囲に空気が震える。

 右手に氷の刃、左手に雷の矢——二つの魔力が融合し、光となる。

 アドニスも気配の変化に気づいた。

 「面白ぇ……!それで来い、魔女!」

 彼が剣を構え、全力で突撃してくる。

 (この瞬間しかない……!)

 グリムドアは刃と矢を同時に解放した。

 「——ッ!!」

 氷雷が渦巻き、中心にいるアドニスを飲み込む。

 彼は剣を盾にし、魔力の嵐を耐えながらも進む。

 「くっ……!」

 雷に打たれ、氷に刺されながらも、彼は叫ぶ。

 「俺の力は——こんなものじゃないッ!」

 だが、その時。足元にわずかに輝く魔法陣。

 (見せ魔法に意識が行った……本命はこれよ)

 「《重の封環》、発動。」

 足元の陣が光り、アドニスの身体が急激に沈む。

 重力十倍。地が陥没し、膝が崩れる。

 「ぐ……あ……!」

 そこに、グリムドアは最後の詠唱を放った。

 「《氷華裂断・終式》!!」

 頭上から、巨大な氷刃が十重に重なり、落ちてきた。

 轟音と共に、大地が凍てつき、すべてが止まる。

 静寂。

 煙が晴れた時、アドニスは氷に膝をつき、剣を地に突き刺していた。

 彼の周囲には砕けた氷と、焦げた大地。

 そして——動けない男の姿があった。

 「……見事だ……グリムドア。」

 アドニスは、深く、静かに頭を垂れた。


 黒き森の中、激しい魔法の爆発音が止み、静寂が訪れた。

 吹き飛ばされた盗賊たちが地に伏す中、ただ一人、その中央に立ち尽くしているのは銀の髪を揺らす女魔法使い——グリムドア。

 その視線の先に、膝をつく男がいた。全身傷だらけで、肩には人の背丈ほどある黒鉄の剣。その男、アドニスは、歯を食いしばりながら地に剣を突き立て、身体を支えていた。

 氷の魔法をまともに受けながらも折れぬ闘志。だが勝敗は決していた。

 グリムドアはゆっくりと男に近づいた。

 「なぜ——貴様のような男が盗賊などと成り果てている?」

 その言葉には、あからさまな軽蔑も、怒りもない。ただ静かな疑問と、わずかな哀しみが込められていた。

 アドニスはしばらく黙っていた。やがて、苦笑を一つこぼす。

 「……質問に答えるには……少し長い話になるが、いいか?」

 「構わないわ。あなたの口から聞きたい。」

 グリムドアは立ったまま、目を伏せたアドニスを見下ろす。男は地に座り直し、口を開いた。

 「……俺はな、“白金の剣”と呼ばれた近衛部隊の隊長だった。仕えていたのは、第一皇子アルセリオ……俺の主であり、友であり、正義を信じる男だった。」

 アドニスの目が遠くを見つめる。

 「数か月前、東の国境で大規模な戦争があった。敵軍の背後に——突如、現れたんだ。“自らを武神と名乗る男”が。」

 その名を言った瞬間、アドニスの声がかすかに震えた。

 「まるで悪夢のようだった。あいつはたった一人で戦場を駆け、我が軍を蹂躙した。将校を次々と切り伏せ、我らの防陣は瞬く間に瓦解。……そして、主君であるアルセリオ様は、俺の目の前で——その男に討たれた。」

 拳を握る音が聞こえた。憤怒でも後悔でもない、深い無力の音だった。

 「必死に撤退し、生き残った部隊を率いて本国へ戻った。だが……そこに待っていたのは、栄誉でも哀悼でもなかった。」

 グリムドアは小さく息を呑む。アドニスは続けた。

 「第一皇子の死は王宮を揺るがせた。皇位継承は混乱し、第三皇子は己の地位を固めるため、俺たち“白金の剣”に責任を押し付けた。『王子を守れなかった無能な部隊』として、俺たちは軍籍を剥奪され、国外追放になった。」

 「……非道。」

 グリムドアが小さく呟く。だがアドニスは、それすら笑い飛ばすように口元を歪めた。

 「そして、極めつけが——リュッセルだ。」

 その名を言う時だけ、彼の声には苦味と渇きが混じっていた。

 「彼女は国王直属の近衛団長であり……俺の恋人だった。」

 グリムドアは瞠目する。

 「追放された後、俺は知った。リュッセルは“王命”で第三皇子に嫁がされた。……それが、俺にとっての終わりだった。」

 アドニスは肩で息をしながら、言葉を絞り出す。

 「誇りも、仲間も、愛する人も、すべてを失った。残ったのは、この剣と——戦う技だけ。だから俺は、こうして……残った者たちと盗賊まがいの真似をして、生きるしかなかった。」

 その場には、深い沈黙が流れた。やがて、グリムドアがそっと口を開く。

 「それでも、あなたは“まだ折れていない”。剣を握っていた。戦って、私に名乗り、正面からぶつかってきた。」

 アドニスの赤い目が、グリムドアを見つめ返す。

 「私はあなたをただの盗賊だとは思っていない。まだ——戦える。」

 しばし視線を交わし合ったのち、アドニスはふっと鼻で笑った。

 「……不思議な女だな。名を聞いても?」

 「グリムドア。」

 「……妙な名だが、悪くない。」

 彼は倒れていた剣を、ゆっくりと立てて支えとしながら立ち上がった。

 「……いつかもう一度、誰かを守るために剣を振るうことがあるなら、その時は……お前の言葉を思い出す。」

 「忘れないで。」

 そう言って、グリムドアは森の奥へと歩を進めた。背後では、アドニスがその場に立ち尽くしていた。

 その手は、まだ剣を握っていた。

 黒き森を抜ける頃、東の空がかすかに白み始めていた。長い夜の静寂を割くように、一筋の陽光が草原に差し込んでいた。夜露に濡れた大地がかすかに煌めき、グリムドアのローブの裾を濡らす。彼女は振り返り、森の中で交わした激闘の記憶を思い返していた。

 アドニス。あの男の剣の重さ、瞳に宿る深い絶望と、なおも抗う意志——かつての誇り高き戦士がなぜ盗賊となっていたのか。その答えは、彼女の中に静かに刻まれていた。戦いの中で見えたもの。それは力による支配ではなく、力を持ちながらも行き場を失った者の姿。

 「……夜が明けたわね」

 呟く声は小さく、だが確かな決意を帯びていた。塔を出てから初めて見る夜明けだった。だがその美しさよりも、胸にわだかまるものの方が重かった。あの男のように、自分もまた「何者か」によって運命を縛られているのではないかという予感。

 (私は……何者なの?)

 草原に一歩踏み出すと、風が背中を押すように吹いた。その先に、小さな集落が姿を見せる。

 グリムドアは目を細めた。その村は、まるで戦争の恐怖を拒絶するように、頑丈な木の杭で四方を囲っていた。杭は真新しく、太く、高く、上部には金属製の棘が打ち付けられていた。防衛用の見張り台も建てられており、そこには槍を手にした見張り兵が緊張の面持ちで立っていた。

 村の規模にしては過剰な防備——それがこの地の治安の悪さ、そして迫りくる戦火の脅威を雄弁に物語っていた。

 グリムドアが門に近づくと、すぐに二人の門番に制止される。

 「止まれ。身分を示せ」

 「……私は冒険者よ」

 「ならば、冒険者証を見せろ」

 彼女は一瞬黙した。塔で育ち、街に出たのはこれが初めて。当然、そんなものは持っていない。

 「……なくしたわ」

 門番たちは顔をしかめた。

 「なくした? ふざけるな。冒険者証がどれほど重要か分かって言っているのか?」

 矢継ぎ早の詰問。グリムドアは淡々とした表情のまま、口を開く。

 「目的は街に向かう道中よ。夜明け前に黒き森を抜けてきたの。……まだ、信用できない?」

 その言葉に門番たちは一瞬動揺した。あの森を、夜の間に抜けてきたというのか。しかも一人で——。

 しばしの沈黙の後、一人が口を開いた。

 「……明日までに冒険者登録を済ませろ。それまでは村で騒ぎを起こすな。監視対象とする」

 脅しのような口調だったが、グリムドアはうなずくだけで村へ足を踏み入れた。

 村に入った瞬間、空気が変わった。人々の顔に笑顔はなく、通りを歩く者の誰もが早足で目を伏せていた。すれ違う者たちの視線は警戒と猜疑に満ちており、誰もが互いを信じていないようだった。

 (……まるで、戦場のよう)

 彼女はそのまま中心の広場へ向かった。昼近くなり、陽光が高く昇るころ、広場にある石段に腰を下ろすと、そこから人々の会話が自然と耳に入ってきた。

 「西の帝国、また前線押し上げたらしい。王都レガリアのすぐ近くまで来てるって話だ」

 「武神サマエルが動いてるってさ……一国の軍を単騎で蹴散らしたって噂もある」

 「この村も……時間の問題だな。逃げ場なんて、どこにもない」

 「北の神聖王国ヴェルスナーチも何やら軍を動かしてる。南も西も……もう安全な場所なんてないのさ」

 「最近、森の方も騒がしいぞ。ゴブリンやトロール、夜になると村に近づいてくるらしい」

 (世界が、動いている。塔に閉じこもっていた間に、こんなにも)

 グリムドアはじっと耳を澄ませながら、世界情勢の変化と、その中心に「武神サマエル」という存在があることを感じ取っていた。

 その後、彼女は冒険者ギルドへ向かった。村の中央通りから少し外れた場所に、木造ながらしっかりとした二階建ての建物があった。入り口には朽ちかけた看板に“冒険者ギルド・エンゼル支部”と掘られている。中へ足を踏み入れると、木の床が軋む音が響いた。

 内部は広く、数人の冒険者たちがカウンターに詰め寄っていた。粗末な装備の者、まだ若い少年のような者、そしていかにも厳つい歴戦の男たち。皆がそれぞれの思惑と空気を纏っていた。

 受付には中年の女性職員がいた。眼鏡の奥から慎重な視線を向けてくる。

 「ご用件は?」

 「冒険者登録をしたいの」

 女性職員は訝しむように目を細めた。

 「身分証明書か、紹介状などはありますか?」

 「ないわ。……でも、測ってみれば分かると思う」

 「……では、こちらへどうぞ」

 グリムドアが案内されたのは、奥の小部屋に設けられた簡素な測定室だった。部屋の中央には、古びた魔力量測定装置が置かれている。彼女が手をかざすと、装置が静かに唸り出し、次第に光を放ち始めた。

 ……しかし。

 「え……? これは……」

 警告音。装置の表面が眩く輝き、一瞬空間が歪むほどの圧が走る。職員が慌てて装置の主電源を落とした。

 「こ、これは……失礼しました! た、たぶん装置の不調です。あす……明日また来てください!」

 「……そう、分かったわ」

 グリムドアは背を向けて部屋を出た。だがその背に、職員がつぶやく声が届いた。

 「計測不能……? あんな数値、見たことがない……まさかラウンズ級……?」

 そのつぶやきは、グリムドアの背に重く残った。

 ギルドを出た彼女は、静かに深呼吸をひとつついた。

 (やはり……私は普通じゃない。塔の中で過ごした年月は、誰にも理解できないほどの重みを持っている)

冒険者ギルドでの異常反応、そして人々の反応から逃れるようにしてグリムドアはギルドを出た。その足で向かったのは、村の中でも比較的立派な建物のひとつ、商業通りの端にある宝石店だった。

 看板には金箔の文字で『リゼット鉱石店』と彫られており、木彫りの重厚な扉には魔力を感じる結界の痕跡が残されていた。扉を開けると、かすかに香木の香りが漂い、室内は薄暗くも静謐な空気に満ちていた。

 中には、高価そうな鉱石や宝石が丁寧に展示されており、カウンターの奥には、髭を蓄えた白髪混じりの店主が座っていた。彼は帳簿を読んでいたが、グリムドアの足音を聞きつけて顔を上げた。

 「……おや、これはまた珍しいお客様だ。旅の魔術師かね?」

 「それに近いわ」

 店主は目を細め、興味を引かれたような表情を見せた。

 「ふむ。では今日は、どんなご用件で?」

 グリムドアはローブの内から、小さな布に包まれた魔法石を取り出す。手のひらほどの大きさ、淡い青紫色に光る石。それは“下級”とされるものだったが——塔の特異な環境で精製されたその石は、精製度、魔力純度ともに規格外だった。

 「これを、買い取ってほしいの」

 店主は無造作に手を伸ばして受け取った。だが次の瞬間、石を包む布をめくったその表情が凍りついた。

 「……これは……っ」

 彼は石をそっと天秤に載せ、検査用の魔力測定具をかざした。測定具が反応し、青い閃光を放つ。その瞬間、石の周囲の空間がかすかに揺らいだ。

 「信じられん……。この大きさで、この純度。精製の痕跡がまったくない。人工物ではなく、自然生成……? まさか、そんな……」

 「問題でもある?」

 「い、いえ。ただ……これはもはや“下級”などとは呼べません。これは“上位精霊核”に近い性質を持っています。魔力の通導率、保存性、共鳴係数……まさに奇跡のような石です」

 グリムドアは特に表情を変えずに言った。

 「いくらになるの?」

 「……お代をつけるのが難しいですが、参考価格として……そうですね、村の平均的な家庭の十年分の収入に相当します」

 「その価格で、買い取れるの?」

 店主は唸りながら帳簿をめくり、金庫の鍵を取り出す。

 「すべての金をかき集めれば、何とか……。正直、これは王都へ持ち込めば十倍の値がつくでしょうが……当店としても、この石が他店に渡るのは惜しい」

 「それで構わない。手持ちが必要なの」

 「……取引成立です」

 店主は金貨の詰まった重い革袋を差し出した。それを受け取ったグリムドアは、ふっと小さく息を吐く。

 「感謝するわ」

 「……いや、感謝するのはこちらのほうです。もしまた“こういった品”をお持ちであれば、いつでも」

 軽く頷いて、グリムドアは店を後にした。

 (あれほど驚くとは思わなかったわね……。塔にあった石は、私にとっては当たり前のものだったけれど)

 夜風が頬を撫でる。金貨の重みとともに、グリムドアの歩みは宿屋へと向かっていた。


 思索の渦に身を委ねながら、得た資金で宿屋に向かった。

 夜が訪れた。

 グリムドアは、宿屋の二階にある小さな部屋の窓を開けて、夜風を感じていた。村の灯りがいくつか灯り、遠くで犬の鳴き声がかすかに聞こえる。昼間の喧騒は落ち着き、ようやく一息つける静寂が訪れていた。

 だが、空腹はその静寂を許さない。彼女はローブを羽織り、階段を下りて、宿屋の一階にある酒場へと向かった。

 ドアを開けると、暖かな光と、食事と酒の香りが迎えてくる。木造の天井には吊るされたランタンが揺れ、テーブルでは数組の客が料理と話に興じていた。

 グリムドアが姿を見せた瞬間、視線が一斉に集中する。銀髪、蒼と黒のローブ、整った顔立ち。田舎の酒場に突如現れた異邦人の姿に、誰もが言葉を失っていた。

 「なんだ、あの女……」  「旅の魔術師か? ずいぶん上等な格好してるな」  「目が合った……ぞっとするな」

 彼女は無言のまま、カウンターの端の席に腰を下ろした。女将らしき女性が、警戒を含んだ目で彼女を見ながらも、手慣れた口調で声をかける。

 「……注文は?」

 「温かい食事を。今夜のおすすめで」

 「鹿肉と豆の煮込みと、焼きパン。少し辛いが温まるよ」

 「それで」

 料理が運ばれる頃には、周囲の視線も少しずつ逸れていった。スプーンを口に運ぶ。濃い味つけの中に、わずかな香草の風味。熱が喉を通って胃に落ちると、身体の奥から力が戻ってくるようだった。

 (……こういう味も、悪くない)

 背後からは、冒険者たちの会話が聞こえる。

 「明日の依頼、北の森だってよ。トロールが出たって噂だが、どうせただのホブゴブリンだろ」  「このところ魔物の気配が濃くなってる。なんか、空気が重いんだよな……」

 グリムドアはパンをちぎりながら、無言で耳を傾けていた。その時——

 「……!」

 突如、空気が震えた。

 外から、重低音のような振動。そして——轟音。

 「ドンッ!!!」

 地鳴りが酒場を揺らし、窓ガラスがびりびりと震える。

 「な、なんだ!?」「爆発!?」「魔物か!?」

 グリムドアは席を立ち、ローブを翻して走り出す。誰よりも早く扉を開け、夜の闇の中へと身を投じた。

 村の外縁部——崩れた木柵。そこから溢れ出す黒い影。ゴブリン、ホブゴブリン、そして背丈の倍あるトロール。それらが咆哮をあげながら、村の中へ雪崩れ込んでいた。

 「避難しろ!!」「武器を取れ!!」

 兵士たちが叫び、村人たちが逃げまどう。小さな村は、一瞬にして戦場と化した。

 グリムドアはすぐさま詠唱に入る。

 「《重力逆転》」

 身体が宙に舞う。空中に躍り出た彼女の周囲に、いくつもの魔法陣が展開される。蒼い光が夜空に浮かび、彼女の瞳がそれをなぞるように動く。

 「《氷弾:散裂》!」

 空中に展開された円陣から、数十発の氷弾が放たれる。氷弾はゴブリンたちの群れへと降り注ぎ、胴体や四肢を貫き、瞬時に数体が絶命する。

 「《雷槍:貫穿》!」

 次に雷の槍が空から地へと一直線に貫き、トロールの肩口を抉る。巨体がのけぞり、怒号とともに地を叩きつけるが、その直後には——

 「《火葬連弾》!」

 連続で放たれた火球が地面に着弾。衝撃と共に爆風が広がり、ホブゴブリンの隊列を粉砕する。村の外壁近くに積まれていた木材が一瞬にして燃え上がった。

 「まだよ……!」

 彼女は連続詠唱を止めず、さらに複合術式へ移行する。

 「《風刃陣》——《雷網》展開!」

 風の刃が半円を描くように飛び、回避を図る敵を分断。同時に網状に広がる雷撃が空間を封じる。逃げ惑う魔物たちは次々と地に伏し、やがて沈黙した。

 兵士たちがその様子を見上げ、呆然とする中——

 「《七重結界》《魔力圧縮陣》《斬光:落雷》!!」

 グリムドアが天空で展開した術式が頂点に達する。全方位から収束された魔力が、一本の光刃として地へと降り注ぐ。巨大なトロールが光に包まれた直後、爆裂するように吹き飛び、その周囲の敵すら消し飛ばした。

 「……終わった……?」

 だが、その時。彼女は“違和感”を覚えた。

 (この襲撃、ただの魔物の暴走じゃない)

 目を凝らす。その中に、人の動きを持つ存在がいた。黒いローブ。仮面。明らかに魔物ではない。

 「……人間? いや、違う」

 彼らは、まるで指揮官のように魔物に指示を出していた。

 「《封陣・四方障壁》!」

 光の結界が走り、彼らを取り囲む。逃げ道は封じられた。

 「アダマス……」

 そう名乗った男たちは、怯えたように震えながらも、叫んだ。

 「我らはアダマス! 東の魔女の塔に眠りし主、ソロモン様の意思に従い、この地を浄化する!」

 その言葉に、グリムドアの目がかすかに揺れた。

 「……ソロモン。私の“名”」

 彼女の記憶の奥底が、微かにきしむように反応していた——。

 夜明け前、静まり返った村の広場。崩れた外柵と、燃え残る木材の匂いが空気に漂う中、グリムドアは結界で拘束したアダマスの一団を見下ろしていた。

 彼らは五人。全員が同じ黒のローブに身を包み、骨のような意匠の仮面をかぶっていた。だが結界の中で膝をつき、すでに抵抗の意思は見せていない。

 「話す気があるなら命は奪わない。……それとも、魔法で吐かせることになっても構わない?」

 グリムドアの声は静かだったが、冷たさが滲んでいた。彼女の指先には淡い光が灯っている。《真言開示》——対象の自白を強制する、精神干渉系の高位魔法。

 一人の仮面の男が震える声で口を開いた。

 「ま、待ってくれ……話す。話すから……!」

 彼女は頷き、魔力を収める。そしてその場に膝をついて、男の仮面を取り去った。

 露わになったのは、痩せた顔の青年だった。額には瘦せた印のような赤い紋様。明らかに魔術の刻印である。

 「名は?」

 「……ザイン。アダマスの第五集団、召喚補佐役……」

 「命令系統は?」

 「我々は“主”の声を媒介する教令官アブレクから指示を受けている。今回の襲撃は、王都への進軍を妨害する“浄化の前兆”として、武神の軍とは別に独自に行われた……」

 「目的は?」

 「“眠りし主”の再臨の兆候が、この村の地下にあると……ここに封じられし“魔力の欠片”を回収しようと……」

 「主とは、誰のこと?」

 「ソロモン様だ……魔導王ソロモン。我らアダマスは、東の魔女塔に封じられし主を復活させるために動いている」

 彼の目には熱と狂信が宿っていたが、その視線がグリムドアに向くことはなかった。ただ彼女を“強力な外敵”として見ていたようだった。

 (……私が“ソロモン”と同一であることには気づいていない。幸い、名前はまだ知られていないようね)

 彼女は内心で安堵する一方で、沈黙のままに立ち上がった。

 そして——

 「……あなたたちには、これ以上の力は不要」

 彼女の両手に魔力が収束してゆく。術式は静かでありながら、強い束縛を秘めていた。

 「《封魔紋》——力の回路を閉じる」

 五人のアダマスの信徒の身体に、青白い紋章が浮かび、次の瞬間、彼らの全身から魔力の輝きが抜けていった。

 呻き声。恐怖の叫び。だが、それも一瞬だった。

 術が終わる頃には、五人はただの青年と中年の男たちになっていた。強化された肉体も、魔術の才能も剥がれ落ち、ただの“普通の人間”の存在へと戻されていた。

 「……な、何をした……」

 「命を奪うより、無力にする方が意味がある。これで、あなたたちはもう“兵器”にはなれない」

 グリムドアは背を向けた。

 結界が解かれ、拘束された者たちは兵士に引き渡された。夜は明け、空には光が差し始めていた。

 彼女の背中には、新たな決意が宿っていた。

(前半省略・グリムドアの村到着〜アダマス尋問・魔力封印まで記載済)

 そのころ、遥か東方。

 黒い霧が濃く立ち込める山中、かつて修道士たちが住みついていた廃墟を改造した異形の施設——“沈黙の聖域”。そこにて、アダマスの高位幹部である教令官アブレクは、沈黙のままに石造りの魔導玉座の前に跪いていた。

 その前には、古の術式を刻んだ魔導石柱が立ち並び、中心の水晶球には村の空中からの視界が映し出されていた。

 水晶球の一つが暗転し、魔力の反応が消失する。

 「……第五集団、壊滅。すべて、断絶」

 アブレクの仮面の奥から、ほとんど人間らしさのない低く無機質な声が漏れた。

 「予兆以上の力……そして“光の刃”による収束型魔法。あれは——」

 彼の細長い指が空中に魔術式を描く。数百にもおよぶ魔法観測記録が再生され、過去の映像と照合されていく。その結果、導き出された予測値と記録が交差し、一つの警告を映し出した。

 《特級魔術行使個体:ランク未定 詠唱適合率97% 魔力出力:既知最大値超過》

 「……兆しは、現実になったか」

 彼は長い外套を翻し、背後に立つ数名の従者たちに命じた。

 「《イグレア修道院》に“深紅の班”を向かわせよ。既に次の封印の崩壊が始まっているはずだ」

 「はっ」

 アブレクは再び水晶球に目を向ける。そこには、光に包まれながら宙を舞う銀髪の女の姿が一瞬だけ映っていた。

 「白銀の魔女……あなたが“器”であれ“剣”であれ、いずれ我が主の御前に跪くことになる」

 仮面の下、彼の目元がわずかに歪んだ。

 「我らが目覚めを迎える時……その存在が試金石となる」

 霧が濃くなり、祭壇の魔石が鈍く脈打つ音を立てる。沈黙の聖域には、次なる計画の胎動が満ち始めていた——。

  * * *

 そして翌朝——

 村は、前夜の戦火の痕跡に包まれていた。

 崩れた柵、焦げた地面、破壊された倉庫。魔物たちの骸は、まだ完全に処理されておらず、兵士と数人の冒険者たちが死体処理と調査に追われていた。

 人々は、ただ呆然とその光景を見つめていた。

 「……本当に……あの娘が、全部……?」

 「空から……光が落ちて、トロールが……一瞬で……」

 「私、見たんだ。雷と炎と、氷が同時に……村を覆ってた……」

 噂は瞬く間に広まり、広場には人が集まり始めていた。

 そのころ、遥か東方。

 黒い霧が濃く立ち込める山中、かつて修道士たちが住みついていた廃墟を改造した異形の施設——“沈黙の聖域”。そこにて、アダマスの高位幹部である教令官アブレクは、沈黙のままに石造りの魔導玉座の前に跪いていた。

 その前には、古の術式を刻んだ魔導石柱が立ち並び、中心の水晶球には村の空中からの視界が映し出されていた。

 水晶球の一つが暗転し、魔力の反応が消失する。

 「……第五集団、壊滅。すべて、断絶」

 アブレクの仮面の奥から、ほとんど人間らしさのない低く無機質な声が漏れた。

 「予兆以上の力……そして“光の刃”による収束型魔法。あれは——」

 彼の細長い指が空中に魔術式を描く。数百にもおよぶ魔法観測記録が再生され、過去の映像と照合されていく。その結果、導き出された予測値と記録が交差し、一つの警告を映し出した。

 《特級魔術行使個体:ランク未定 詠唱適合率97% 魔力出力:既知最大値超過》

 「……兆しは、現実になったか」

 彼は長い外套を翻し、背後に立つ数名の従者たちに命じた。

 「《イグレア修道院》に“深紅の班”を向かわせよ。既に次の封印の崩壊が始まっているはずだ」

 「はっ」

 アブレクは再び水晶球に目を向ける。そこには、光に包まれながら宙を舞う銀髪の女の姿が一瞬だけ映っていた。

 「白銀の魔女……あなたが“器”であれ“剣”であれ、いずれ我が主の御前に跪くことになる」

 仮面の下、彼の目元がわずかに歪んだ。

 「我らが目覚めを迎える時……その存在が試金石となる」

 霧が濃くなり、祭壇の魔石が鈍く脈打つ音を立てる。沈黙の聖域には、次なる計画の胎動が満ち始めていた——。

  * * *

 そして翌朝——

 村は、前夜の戦火の痕跡に包まれていた。

 崩れた柵、焦げた地面、破壊された倉庫。魔物たちの骸は、まだ完全に処理されておらず、兵士と数人の冒険者たちが死体処理と調査に追われていた。

 人々は、ただ呆然とその光景を見つめていた。

 「……本当に……あの娘が、全部……?」

 「空から……光が落ちて、トロールが……一瞬で……」

 「私、見たんだ。雷と炎と、氷が同時に……村を覆ってた……」

 噂は瞬く間に広まり、広場には人が集まり始めていた。

 一方、冒険者ギルドの奥の部屋では、複数の職員と技術者が慌ただしく動き回っていた。魔力量測定器の記録装置が昨晩自動で保存した数値が、解析不能のレベルに達していたからだ。

 「この値……ミスリルランクの平均の三倍以上……いや、もはや測定器の上限すら超えている……」

 「間違いない。“オリハルコン”……いや、それ以上……“ラウンズ”に匹敵する……」

 「でも登録記録がない……名前も……」

 「いったい誰なんだ、あの魔術師は……」

 宿屋では、女将が静かに頷きながら語っていた。

 「……朝方、部屋を出て行ったよ。音も立てず、まるで風みたいに」

 「何か言ってませんでしたか? 行き先とか」

 「何も。けど……なんだか、決めた顔をしてた。ああいう目は、昔の戦士たちにしか見たことないよ」

 村の東門から続く土の道。その先には、わずかに残された足跡がある。草露に濡れながらも、まっすぐに森の奥へと向かっていた。

 グリムドアは、誰にも告げずに村を後にしていた。

 昨晩の戦闘と尋問から、彼女は《魔力の欠片》がこの村には存在しなかったことを確信していた。

 アダマスの目的が誤情報か、あるいは“次の地”と混同されていたのかは不明だが、何にせよこの村が最終目的地ではなかった。

 彼女の足は、自然と東の森へと向かっていた。

 その地は、グリムドア自身の出自——記憶の空白、そして“ソロモン”という名が持つ真の意味と繋がっている。

 (私は……知る。真実を、過去を。そして、私の意志で未来を選ぶ)

 朝霧が薄くなり、太陽の光が木々の間から差し込む。

 彼女の銀の髪が光に揺れ、蒼と黒のローブが風に靡く。

 静かに、だが確かに。彼女の足取りは、次なる戦いと覚醒の地へと進んでいく——。


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