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「ふう。ただいま」
自宅の玄関を開け、誰に言うでもなくヒナタは帰りを告げる。誰もいない事は分かっているので返事を期待したわけではない。両親が共働きの剣崎家ではこの時間に誰かいる事はほとんどない。カナタが早く帰っている事もあるが、今日にいたってはそれもない事がすでにわかっている。
シン。とした家に、誰もヒナタの帰りを待っていない。そんな錯覚をしてしまう。
ふとそんな風に考えてしまい頭を振ってその考えを追い出すと、後ろ手に玄関のカギを閉めそのまま自分の部屋がある二階に上がって行った。
二階には部屋が二つあり、奥が自分の部屋で手前は兄の部屋だ。
「はぁ・・・」
チラリと兄の部屋のドアに視線を送りつつ、自分の部屋に入りドアを閉めると、再度ため息がもれる。少し前からカナタがなんとなくよそよそしい感じがしてぎこちないのだ。
四つも年が違うんだし思春期の男女の兄妹なんてそんなものだと友達は言うが、なんとなくそれとは違う気がしていた。
だから、今日は思い切って、久しぶりにカナタと一緒に帰りながらゆっくり話そうかと思って、わざわざ高校のほうまで足を延ばしたのだが……今日に限って友人と遊びに行くだなんて、なんとも間が悪いものだ。
まあ、約束も連絡もしていないのでそれは仕方ない。今度ゆっくり話してみよう。そう考えて気持ちを入れ替える。
なんなら明日から春休みだ。どこかに連れて行けと甘えてみようか……兄妹なんだし。
ヒナタは制服を脱ぐとシワにならないように伸ばしながらハンガーにかけクローゼットにしまった。ふと扉についている姿見が目に入り、そこには下着姿のまま眉間にしわを寄せている姿があった。
ずっと続けている稽古のおかげか平均よりやや小柄ではあるものの均整の取れた体つきをしている。若干起伏に乏しいのはこれからの成長に期待するところだ。まだ中学生だしと自分を納得させる。無理やり意識をそらし鏡に向かって笑顔を作り、両手を握って気合を入れると道着の入ったバッグを持って、ラフな服装に着替えて部屋を出る。
部屋に一人でいるとまた色々考え込んでしまうかもしれない。こんな時は道場で汗を流すに限る。余計な考えをふりきるようにヒナタは家を出て、歩いて十分くらいの場所にある仁科道場へと向かった。
仁科道場に着くと、格式がありそうな門をぬけて母屋を右手に見ながら道場の方に向かう。
ここの道場主である仁科晴信は、兄のカナタと同級生のハルカの祖父であり、今はヒナタの剣術の師匠である。
もともとは刀剣好きで武士に憧れたカナタがしょっちゅう遊びに行って入りびたり、同じ興味のあったハルカと意気投合。
いつもカナタについて回っていたヒナタと三人で真似事をやっていたのだが、片手間に晴信が手ほどきしてくれたのもあり、次第に本気になっていった。
カナタは途中で飽きて、最近はあまり熱心にやらなくなったが、孫であるハルカも真面目に打ち込んでいたし、ヒナタも中学に入ると同時に正式入門して門弟となった。
ヒナタに才能があったのか、師匠の教えの賜物か。いまでは公式戦では道場の代表としてハルカと共に県大会の常連となりつつあった。
「あれ？」
ふとヒナタは声をこぼす。
いつも聞こえている、気合の声、竹刀の音や床を踏み込む音。それらが全く聞こえない。
更衣室に向かう板張りの廊下を歩いているとやけに静かなのに気づいた。いつもは誰かしら稽古をしているのに。と疑問に思いつつも更衣室の扉を開けようとした。
その時、後ろに気配を感じた。そしてそれはヒナタが振り返るよりも先に動いていた。
「いらっしゃい！ヒナタちゃん！」
そういってヒナタの後ろから抱き着いてきたのは、今しがた考えていた仁科遥華だった。妹のようにかわいがってくれるのはうれしいのだが、気配を消して近づくのはやめてほしい。
「こんにちはハルカ。きょうは道場、静かだね？」
抱き着かれたままヒナタは挨拶と先ほど感じたことを聞く。
「ん～、そういえばそうだね。あたしもさっき帰ってきたばかりだから……ね、どうだった？」
ハルカの問いにヒナタは黙って首を振った。
ハルカにはカナタとの事を相談している。今日話してみる事も言ってあった。
「なんか、スバルくん達と街に遊び行ってくるって」
少し寂しそうにヒナタがそう言うと、ハルカはもう少し強めに抱きついた。
「もー、こんな可愛い妹が悩んでるのにカナタの奴め……道場に呼び出しちゃう？二人で思い切り稽古つけてやった後なら逃げる余裕もなくなってるよ、きっと」
それ最初から逃げちゃうよ。とヒナタは苦笑して返した。
そのままくっつくようにして一緒に歩き、更衣室へ入る。
ちなみにハルカはカナタの同級生であり、ヒナタより年上になるわけだが、昔からカナタがハルカと呼ぶのを、幼いころのヒナタもマネして呼んでいたのがそのまま定着してしまっている。
中学に入ったばかりの頃さすがにどうかと思い、「ハルカちゃん」と呼んだら微妙な顔をされ、「ハルカさん」と呼んだら悲しい顔をされた。「ハルカお姉ちゃん」ではずいぶん迷った顔をしていたが、最終的にはそのまま「ハルカ」でいいよ。と言われ、結局そう呼んでいる。
くっついたまま、それぞれのロッカーのところまでやって来た時、ハルカのポケットから微かな振動と短いメロディが聞こえてきた。そこでようやく解放されたヒナタが振り返るとハルカがポケットからスマートフォンを取り出していた。
「……？」
スマホの画面を見たハルカは怪訝な顔になり、すぐにどこかに電話をかけ始めた。ヒナタの耳にも微かに呼び出し音が聞こえてくる。
そのまま十数秒まったが、相手は電話をとることはなく「もう……」と小さく呟くとハルカは発信を止めた。
「誰から？」
「父さん。なんかいきなり訳の分かんないメッセージよこすから、直接聞いてみようと思ったんだけど……」
そう言うとハルカはスマホを操作して画面をヒナタに見せる。画面には一般的によく使われているメッセージアプリが呼び出されていて、タブに「とうさん」と表示されている。
『急いでおじいちゃんの所か、おじいちゃんが不在ならカギを全部閉めて家にいなさい。誰が来ても出てはだめだ。また後で連絡する』
とあり、急いで打ったのだろう、意味不明な改行や誤字もあったが、要約するとそう書かれている。
「どういうこと？」
何があったとか何のためにとかが何も書いて無く、確かによく意味が分からないがなんだか不穏な文章に不安をおぼえてハルカに聞くが、ハルカも分からないから電話で聞こうとしたのだろう。だまって首を振る。
たぶん何か危険な事があるから安全な所にいなさい。という事なのだろうが、普段から平和に慣れきっているためか、そこまで焦る様子もない。
「なんか近くで凶悪犯罪でもおきたかのな？」
軽い感じでハルカは言う。ハルカの両親はどちらも警察に勤めていて、特に父の孝蔵さんはバリバリの刑事だ。どうしても犯罪と結び付けて考えてしまうのだろう……
とりあえず二人とも着替えはしないでネットニュースなどを検索しながら道場のほうに行くと、ちょうど師匠の晴信さんもやってきたところだった。昼寝でもしていたのか、髪の毛が寝癖で凄いことになっている。
「おお、ハルカにヒナタ。なんか孝蔵のやつが慌てて電話してきてなぁ。言うだけ言って電話を切るもんだから何が何だかかよくわからんのだが、子供たちを守れというからな。何かあったのかの？」
孝蔵さんはハルカの祖父にも連絡していたらしい。ただ、午睡をとっていたためか、晴信にもいまいち事情が伝わらなかったようで、しきりに首をかしげている。
この頃にはすでに平和な日常にひびが入って崩れようとしていたのだが、ほとんどの人はまだそれに気づく事なく、変わらぬ日常を送っていた。
――ただ確実に不穏の影は仁科道場にも忍び寄ってきていた。
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