14-2
首と、蜘蛛型との接合部から少なくない量の緑色の液体をまき散らしながら、マザーは怒りに満ちた目でハルカの姿を追い続けていた。
渾身の一撃を放ったハルカは、後ろに跳んだ後は重力に逆らわず地面に降り立とうとしている。
「キャアアア!」
マザーが荒々しく声を上げると同時に、蜘蛛型の脚が動いた。着地寸前のハルカに、両側から二本の黒角質の爪が勢い良く伸びてくる。
ハルカを貫かんと、横殴りに繰り出された脚よりも一瞬だけ早く地面に着地したハルカは、先を見る余裕もなくただ地面を蹴った。マザーから距離を取るために。ハルカにとって精一杯の速度の動きだったが、怒りに満ちたマザーの脚は、後ろ向きに跳んだハルカの下半身に届こうとしていた。
――やば……間に合わない⁉
ハルカの背筋に冷たいものが走った。
黒角質の爪がハルカの腰のあたりをえぐる軌道で迫ってくる。アスファルトの地面に一撃で大穴を穿つ爪だ。もう腰から下は使い物にならなくなる。
焦るハルカの心中とは裏腹に、マザーは気分が高揚するのを感じていた。先ほどから自分の周りをちょろちょろと動き回る鬱陶しい奴をようやく捉えたと思っていたからだ。
空中ではどうする事も出来ず、諦めるハルカと無意識のうちに口角を上げているマザーの間に、壁が入り込んできた。
ダイゴが叫びながら盾のように構えていた鉄板を持ち替えて、迫ってくるマザーの爪を横から殴った。
「させるかあぁ!」
ガィン!
まるで金属同士を激しくぶつけたような音が響き、殴りつけたダイゴが反動で逆側に弾き飛ばされた。ただそれだけの力が加わったことで、マザーの爪の軌道をずらす事には成功していた。
ハルカの履いているスニーカーを削り取りながら、黒光りする爪は空を切った。ハルカはそのまま地面を滑って、建物の瓦礫に背中を強く打ち付けてようやく止まった。
弾き飛ばされたダイゴは、激しく地面を転がりながら、マザーの爪が空を切ったところを見て、心の中で快哉をあげながら、建物の壁に激しくぶつかり、その口から血が舞った。それを荒々しく袖で拭ったダイゴは、震える膝を叱咤しながら、立ち上がろうとしている。
しかし、それでもまだマザーの掌の上から逃れてはいなかった。マザーがハルカを貫こうと動かした脚は二本。ダイゴのおかげで最初の脚の攻撃はギリギリで回避できたが、もう一本の脚は振り上げた状態で、じっと狙っていた。
これまでの戦いで、マザーはちょろちょろと動き回る人間たちは、そう簡単に捉えられないと理解していた。これまで何度も必殺の一撃を避けられた事で、多段攻撃を狙っていたのだ。
マザーはしたたかに背中を打ちつけて、呼吸もろくにできていないハルカを見下ろした。そして無造作に振り上げていた脚を振り下ろそうとした。
タタタタタタタタタ
聞こえてきた銃声と、脚に感じる衝撃にマザーは口をゆがめた。 苛立ちの表情を露にして、脚を止めてマザーはそれに目を向ける。
狙撃地点から走ってきたゆずが、一瞬で状況を把握して、マザーの脚に向かってM-4の引き金を引いた。連続で吐き出される銃弾は、命中してはいるが……中には表面の甲殻で弾かれているものもあり、それほどダメージは与えていないように見える。
傷はどうという事はないが、マザーは本能的に警戒していた。
――あの人間の攻撃は馬鹿にできない。
マザーにとってもへカートⅡの威力は無視できないものだったらしく、それがゆずに対する警戒となってあらわれていた。
しかし、マザーはすぐに理解した。
――今は痛くない武器だ。痛いのはもっと長くて大きい。
今のゆずは脅威ではない。恐らくそう判断したマザーが、再びハルカに狙いを移す。今度こそ刺し貫いてやる。そんな気配を漂わせて……
ゆずは走りながら撃ち続け、その弾がなくなる頃に、マザーがハルカに意識を移して、自分を意識の外に置いた事を冷静に見極めていた。そして、弾が切れたM-4をマザーよりも高い位置に照準した。
ポシュッ!
空気が抜けるような音をだして、ゆずが持つM-4から吐き出されたのは、5.56mmの弾丸ではなく、40mm榴弾だった。自衛隊の駐屯地で弾丸と共に手に入れていた、M-4に取り付けられるグレネードランチャー。装填されていた一発しかない弾がここで使われた。
それまでと違う音に、マザーは少しだけ警戒をする様子をみせた。そして、マザーはハルカを狙っていた脚で、それを払いのけようとする
「キヤアァァッ……!」 ドゴオン!
少し苛立ったような声を出しながら、打ち払おうとしたマザーの脚が榴弾に当たった瞬間、その衝撃で起爆した。
予想してなかった爆発に、マザーは意表をつかれ、一瞬だけ動きを止めた。しかし爆発も、それと同時に脚に着火した粘着質な炎も、驚きはしたようだがたいして効いてはいない。
爆発の煙が一時的にマザーとの間を阻む。わずかに見える煙の向こうでは口元に笑みすら浮かべて、再び脚を振り上げるマザーの姿が見える。
しかし、マザーは動きを止めていた。何かを感じ取ったようにせわしなく視線を動かして、警戒していた。
「キヤヤアアアアアァァ!」
苛立ったように叫び声を上げたマザーの目に映ったのは、「桜花」を構えたカナタとゆずの姿だった。
◆◆◆◆
ゆずが撃ったグレネードの爆発は、想定外に煙幕の役目をしてくれていた。カナタはそれを見て、隣にいる花音の肩に手を置くと、その頭を数回ぽんぽんと軽く叩く。
「それじゃ」
そう言って花音に微笑みかけたカナタは、マザーに向かって走り出す。マザーからは煙が邪魔でちょうど自分の接近を隠してくれる。カナタは手に持つ「桜花」をぎゅっと握り締めた。一度目を閉じ深く深呼吸をする。そして、再び目を開けた時には自分とマザーしか見えないくらい集中している。
マザーの少し手前で、カナタは足を止めた。そこにM-4を投げ捨ててゆずが走りこんでくる。
「カナタ君!」
ゆずが名を呼んで手を伸ばす。集中しているカナタはゆずの方を見もせずに、「桜花」を握っていた手を離し、ゆずが受け取る。
煙がはれてきて、隙間から見えたマザーと視線が交錯する。その瞬間、息を止めたカナタはマザーに視線を固定したまま、桜花を腰に差している感覚で手を伸ばした。
カナタの手がしっかりと桜花の柄を掴む。鞘の部分をしっかりと握って固定しているゆずを見て、ゆっくりと息を吐いて、止める。
刹那、空気が凍ったようにその動きを止めた。
ゆずの手がカナタの腰に回される。その微かな温かさが、カナタの緊張を溶かし余分な力が抜けるのが分かった。
――ありがとな、ゆず。
心の中でそう告げると、カナタは短く息を吐きながら抜刀した。




