13-8
「キイィィィイイ!」
マザーが金切り声を上げながら、激しく体を動かす。美鈴は掴んでいるマザーの上顎の部分を握りしめながら、振り払われないように、しがみついた。
――あとは花音ちゃん達がここから逃げてくれれば……
そう考えてしがみつく宿儺にマザーは前の脚を上げて宿儺めがけて突き下ろした。
ドスッという音が二つ重なって聞こえた。するどい黒角質の爪は宿儺の肉体をも突き刺してしまう。
肩口と脇腹に脚が刺さった宿儺は、マザーによって引き寄せられる。小柄な姿も相まって、まるで蜘蛛の巣に捕らわれた哀れな獲物のように見える。
じっさい捕まえた獲物をそうするように、マザーを糸を出しながら脚を器用に動かし、宿儺を糸で巻いてしまおうとしているようだ。
美鈴はマザーの意図を正しく理解していた。それでもマザーの上顎を掴んでいる手を緩めようとはしなかった。
美鈴は自分がどんな姿をしていて、それを見た人がどういう対応をするか、よく理解していた。
宿儺として作り替えられた美鈴に、もう平穏に生きる道はない。
それならば最後まで迷惑をかけてしまった、花音達の役に立ちたい。それだけを考えていた。それなのに……
「やあっ!」
するどい気合の声と共に、走る剣閃。走りこんできたハルカによって、宿儺の脇腹を貫いていたマザーの脚が柔らかい部分を切り裂かれ、力が抜けるのが分かった。
「おりゃあ!」
その反対側からは、美鈴の知らない男性が、糸を巻き付けようとしていたマザーの脚を盾で殴ってはじき返した。
「に……げて、くださ、い」
宿儺になってからまともに言葉を発していないからか、そもそもその機能がないのか、出しづらい言葉をなんとか喉の奥から押し出す。
「たい、ちょうさんにも、いった、のに」
美鈴がなんとか絞り出した言葉に、ハルカ達が答えるより先に新たな影が走りこんできた。
「はああ……っりゃああ!」
例のごとく勢いをつけて飛び上がったヒナタが、回転しながら重力も力に変えてマザーの右足の付け根を切り裂いた。さらに、着地した瞬間狙ってきた他の脚を「十一」で受け流しながら肉薄したまま「梅雪」を振り続ける。
蜘蛛の脚の踏みつけを何度も逸らしながら、その近くでくるりと舞うヒナタの姿は、まるで絵画のように非現実的な美しさを鮮烈に見せている。
「キイイィィィイイ!」
ヒナタの攻撃を嫌ったマザーが前脚を高々と上げて揺らす。鳴き声をあげながらまるで上半身を起こした体勢になっている。
「……それ、待ってた」
そのマザーと少し離れた位置に伏せるゆずは、スコープ越しにずっと待っていた。マザーが柔らかい箇所を露にするのを……。
ダーン!
周りの建物に反響しながら、響いた重い銃声と共に吐き出された銃弾が、ゆずの狙いを寸分とたがわず命中する。
マザーの上体が大きくのけぞった。ゆずが狙ったのは、普段は狙えない腹だった。周りの部位と違い、体を起こさないと見る事もない蜘蛛の下部分。
その部分は柔らかく、へカートⅡの銃弾はたやすくマザーの体内に侵入して暴れた。
「キイイィィ!」
弱点と言っていい部位に銃弾を受けたマザーが激しく暴れ狂う。
周りの建物を崩し、地面をえぐりながら暴れるマザーを素早く後退したハルカ達が見ていた。
「さて、起きるかな?」
更にその後ろで、じっとカナタが見つめるのは、蜘蛛の背中の上に丸まっている灰色の女性。美鈴からの情報を基にマザーの本体がその灰色の女性であることは分かっている。
その隣では、まるで陸上競技のスタートの合図を待つ選手のように、クラウチングスタートの姿勢で待機している花音がいる。
「うまくいきますかね?」
心細いのか、不安そうに花音はそう呟いた。
その花音をカナタはチラリと見て微笑んで見せる。そしてあえて軽い口調で言った。
「さあ?大丈夫なんじゃないか?あいつら隊長の指示とかまるっと無視して動いてるんだ。自信がないとやらないだろうしさ」
カナタがそう言うと、花音は少しだけ笑った。
「悪いカナタ。俺はもう少し動けそうにない……」
花音の後ろにはぎこちない動きでスバルが、近づく感染者たちの相手をしているアスカと由良に指示を出している。喰代博士の治療で何とか動けるくらいにはなったが、毒が残っているのか十全に動けてはいなかった。
「けが人はすっこんでろ。そこで博士の実験台になりながらアスカ達に指示を出してればいいさ。アスカ達も実力はあるんだ。足りないのは経験と自信だ。それをお前が補ってやれば感染者相手なら戦える」
そう言ったカナタを見てスバルは苦笑しながら隣を見た。スバルの隣では喰代博士がスバルの体からいろんなデータをとっていた。マザーが毒を持っているのも初めての事だが、その毒を受けた被検体には大いに興味をそそられるらしい。
「スバル君!悪いけどもう少し血を抜いていいかな?もうちょっとサンプルが欲しいんだ!」
前にはマザーが暴れ、後方には感染者が迫っているというのに、まったくぶれない博士の姿にスバルは何度目かのため息をついた。
「またっすか?俺貧血で倒れないですよね?ちょっとフラフラするんすけど?」
「なあに、大丈夫さ!もし倒れても私がついてるから!」
自信たっぷりにそう言う喰代博士の言葉に、スバルの頬が引きつる。もし倒れてしまったら博士が嬉々として色々調べる姿を想像して、絶対に気を失わないようにしようと、気合を入れなおしていた。
そんなやりとりを暴れるマザーから離れた宿儺-美鈴が呆然と見ていた。
「なん、で……」
思わずこぼれてしまった美鈴の言葉をカナタは拾って返した。
「ごめんな、せっかく逃げろって言って、マザーを引きつけてくれてたのにな。まぁ、なんていうか……ああなったら、あいつら俺の言う事なんか聞きやしないからさ。俺ももう諦めてる。でもさ、悪い事にはならないと思う。……俺はそう信じてる。だから君も少しだけ俺たちを信じてほしい」
カナタがそう言うと、信じられないといった表情になる美鈴に、下から声がかかる。
「ね、美鈴ちゃん。カナタさん達はきっとどうにかしてくれるよ?私も信じてる。だから、美鈴ちゃんも信じてほしいな」
飛び出せる姿勢で構えたまま花音がそう言うと、美鈴はゆっくりと小さくだが頷いた。
「わか、まし、た。わた、も戦い、ます」
ぎこちない言葉でそう返した美鈴にカナタも花音も微笑みながら頷いた。
――本当は逃げてほしい。私の体が動くうちはマザーを抑えてみせるから。
美鈴はそう思っていたのだが、心のどこかで目の前の人たちが持っている温かいものに惹かれる気持ちもあった。それは宿儺になった事で諦めて、心の奥底に封じたはずの感情だった。それなのに、その感情と一緒に美鈴の背中を押す声があったのだ。
「お姉ちゃん、その人たちにまかせてみようよ。花音ちゃんの家族みたいな人達だもん。きっと温かいよ」
聞こえるはずのないその声……絢香の声に抗えず、美鈴は思わずうなずいてしまっていた。
ダーン!
カナタ達は話しているうちにも、ゆずがさらに撃った。今度はのたうちまわっていた蜘蛛の脚の付け根に穴を穿ち、緑色の液体をまき散らしている。
「キイイイイイイイ!」
マザーが一段と大きな声をあげる。上半身をもたげていたマザーが勢いよく地面に戻して、土埃が一瞬マザーの姿をも隠した。
一歩離れた所で、「晴香」を構えてマザーの方を睨むハルカ。右手に「十一」を構えて、左手の「梅雪」をくるくると手の中で回しているヒナタと、建物の一部なのか厚い金属の板を盾代わりに持って、カバーに入れるように二人のすぐ後ろに控えるダイゴ。
そしてスコープ越しにゆずの視線を受けながらゆっくりと晴れていく土煙の中で、マザーに変化があった。
「あ……右脚の一本。再生しないよ!」
ヒナタが目ざとく見つけて刀で差しながら言う。
それはさきほどゆずが根元に銃弾を叩きこんだ脚で、穿かれた銃痕がそのまま残って、だらりと脚が引きずられている。
さらに……。
「キヤアアァァァアア!」
蜘蛛型の時とは違う鳴き声が響き渡る。それは今までのように蜘蛛の口から聞こえてはいなかった。
「……起きた」
ハルカが呟いて刀をぐっと握り替える。
マザーの……蜘蛛の背中の上で、丸まって横になっていた灰色の女が起きて、十一番隊を睥睨していた。




