5-2
「うわっ!」
「ちょ、まっ!」
スバルを巻き込んで足を滑らせたダイゴは、斜面を土煙を上げながら滑っていく。スバルはそれを止めようと握るところを探して手を伸ばしているが、それで止まるはずもなく引きずられて滑っていった。
「おおい、だいじょうぶか?」
急ぎめに坂を下りながらカナタが声をかけると茂みのガサガサする音とくぐもった声が返ってきた。
「なんとか。あちこち擦りむいたけど……」
「このっ、バカダンゴ!気をつけろっつったろうが!」
「ごめんよ、スバル君。地面が見えたら油断しちゃって」
元気に会話しているから大丈夫だろう。ダンゴというダイゴの小さい頃のあだ名を久しぶりに聞いて、カナタは思わず微笑んだ。無意識に言ってしまったのだろうが、ダイゴが言うようにもう大分降りていてあと少しの所だったのだ。
「ほら、ゆず」
それでもダイゴ達の所へ急ごうと、ゆずに手を伸ばす。
「……?」
ゆずはきょとんとしてそれを見ている。苦笑したカナタはさっとゆずの手を掴んで斜面を降り始めた。
少し降りると、まだスバルとダイゴが茂みに身を隠すように屈んでいるのが見えた。カナタから見える限り異変はないが、気を引き締めて、音を立てないようにして進む。
「ゆず、なるべく音をたてないようにな」
手を引いているゆずに声をかける。
「……ん」
短く答えたゆずは、ひたすら地面を見つめて歩いている。心なしか頬から耳が赤いからきっと寒いのかもしれない。少し気になったが、今はスバル達の方が先だ。
カナタは慎重に斜面を降りるとスバル達の横に屈む。人の手の入っていない山なので下生えの雑草や灌木は身を隠す程度の高さは十分にある。
季節は冬だが、植生が豊かな場所だ。
「スバル、どうかしたのか?」
カナタが聞くと、スバルは無言でハンドサインを出した。仲間内で定めたそのサインは、音を立てるな、この先に何かいる、だった。
スバルが示した方を見ていると、やがて聞こえてきた。
がさっ……がさっ……と草をかき分けて歩く音だ。
しばらくそのまま息をひそめていると、音がしている茂みの向こうから、ぼろぼろの服を着た男が姿を現した。頼りない足取りながら、枝に引っかかり、服が裂かれようともまったく意に介さず歩いている。よく見ると、肩口に大きな傷があり、乾いた血がその周りを赤黒く染めている。
「感染者だ…………」
誰かがごくりと喉を鳴らす音が聞こえた。姿を見せたのは、美浜集落で話していた移動をする感染者だ。
これまでは、生きている人を見つけない限り、その場に立ち尽くすか、ふらふらと近くで行ったり来たりを繰り返す。というのが、カナタ達の知る感染者の定説だった。
今カナタ達の視線の先にいる感染者は、これまでの感染者の定説を壊して、まるでどこかを目指しているようにまっすぐに歩いている。
少し驚いて見ていると、さらにその後ろから十体前後の感染者が姿を現した。最初に現れた個体と似たような有様で、同じ方向に向かってゆっくりと歩いている。カナタ達の隠れている茂みの方に来るかどうかは微妙な所だ。
「まずいな……」
カナタは呟く。今のところ身を隠せているが、近くを通る感染者がいるかもしれない。かといって今動けば、その音で一発でばれる。もし、一体でも見つかってしまえば十数体を相手取らないといけなくなる。
こっちの近くを通らない事を祈るしかない。
声には出さなかったが、全員がこっちに来るなと祈っていた。
がさ……がさと、草を踏み分け感染者は進む。今のままなら、カナタ達が潜む茂みから3~4m離れた所を通る。そう思われた。
先頭にいるスバルがホッと息を吐いたのが見えた。あとは視界に入らないように気を付けるだけと思った瞬間だった。
歩いていた感染者がその場に立ち止まったのだ。カナタ達の間で、弛緩した空気が再度張り詰める。
「うそだろ……」
「おいおい、待てよ」
声を潜めて、カナタが呟き、スバルがその後を言った。
感染者が立ち止まった訳は、すぐに分かった。感染者の進路上に腰よりやや低いくらいの岩があった。動きのぎこちない感染者は、何かを登ったりするのが苦手なので、ちょっとした石段も登れず右往左往する。
誰もが固唾を飲んで感染者の動向を見ている。
やがて、その感染者は移動を再開した。目の前の岩を迂回して進行方向は変わっていない。
「こっちに……来るぞ」
一番前で様子を見ていたスバルが押し殺した声で告げる。感染者は邪魔な岩を避けるという手段を取った。そして避けて移動した分、カナタ達が隠れている茂みに近づいていた。
「こ、こっちに向かってきてるよ!」
冷や汗をかきながら、ダイゴが悲鳴を上げるような口調で言った。カナタは決断を迫られ唇を噛む。
危険を承知で、音を出すのを気にせずダッシュで逃げるか、カナタとスバルが足止めして足の遅いダイゴとゆずを先に逃がすか……。考えているうちにも感染者の群れは一歩、また一歩とカナタ達へ死を運ぼうと近づいて来ている。
迷っている時間はないし、どっちにしても危険度は変わりない気がする。そう考えたカナタが、声を出そうとして、喉がカラカラになっていたのに気づいた。一瞬、周りの音は遠くなり、ただ自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえていた。
カナタは頭を振って、一度大きく息を吸い込んで、動揺と一緒に吐き出し、気持ちを落ち着ける。
「ここにいてもどうせ見つかる。一気に逃げよう」
カナタが全員を見回してそう言うと、ダイゴもスバルも蒼白になった表情で頷く。ゆずは黙ってカナタを見つめている。ただ、つないでいる手からは小さく震えているのを感じていた。
カナタも震えそうになる手足を叱咤しつつ、号令をかけた。
「いくぞ!」
立ち上がり、走りだそうとした瞬間、またしても想定外の事が起きた。感染者達のさらに向こうで激しい音がしたのだ。何か大きい物が茂みを転がり落ちるような激しく大きい音に、感染者たちは一斉に立ち止まり、音のする方に顔を向けている。
やがて、ゆっくりそちらへ向きを変えた。
「今です!こちらへ」
あっけにとられているカナタ達に、知らない声が聞こえてきた。声の方に視線を向けると、カナタ達と同じように下生えに体を隠して女性が手招いている。
「音が停まればまたこちらに向かってきます。はやく移動を!」
その女性が何者であるか、危険はないのか、言ってることが本当なのか。何も分からないが、複数の感染者に襲われそうな今の状況よりはましと思い、目配せをしあって女性の後を追って移動した。
◆◆◆◆
「ここまでくればとりあえずは大丈夫でしょう。かの者達はあの山を越えようとしますので」
そう言って周りに比べ一段低い山を指さす。
「あ、ありがとうございます。あなたはどうしてこんなところに?」
カナタはとりあえずは感謝を述べて、女性の事を訊ねた。それはあまりに普通の雰囲気だったからだ。武装はおろか着ている服も普段着っぽいし、荷物も持っていない。普通に考えて、女性が一人で出歩いていい所ではない。それなのに、目の前の女性から、気負いやおびえと言った感情は全くと言っていいほど感じられない。カナタは心の中で警戒心を一段階上げて注意深くその女性を見た。
訝し気に訊ねるカナタに薄く笑った女性は優雅に話しだした。
「どういたしまして。私は翠蓮と申します。あら……この山に住まう鍛冶師の小屋を訪ねておいでになったのではなかったのですか?お迎えに上がったのですが」
微笑んだままスイレンと名乗った女性はそんなことを言いだした。彼女の言う事が本当なら、カナタ達が目指している鍛冶師の小屋から来たという事になる。
「あなた方が山に入ったのは把握しておりました。むしろなかなかお見えにならないので、やきもきしておりましたら先生が迎えに行くようにおっしゃったので……」
と、なんでもない事のように言う。
「迎えって……そんな簡単に。しかも把握してたって……」
スイレンの言う事に呆気にとられ、スバルが呟く。それが聞こえたのか、スバルの方に近寄ってスイレンは言った。
「このようなご時世です。危機管理は重要なことですよ?私、先生の身の回り全般を任されておりますので、先生に懸念なく作業していただくのも仕事の一つです。それに私、こう見えて結構強いのですよ?」
そう言い、口に手を当てて上品に笑った。
掴めない女性だ。危機管理と言っても、こんな広い山のどこから来るかもわからない奴を把握するなんてことが簡単にできる訳がない。本人は結構強いと言うが、体は細く鍛えているようにも見えない。
慎重に見ていると、手を繋いだままだったゆずが、カナタの手を引いた。
「ん?どうしたゆず」
何か言いたそうな素振りを見せたゆずに、カナタが身を屈めて聞くと、ゆずは スイレンを見たまま言った。
「その女の人、武器、持ってる」
ゆずがそう言った瞬間、カナタ達の間を緊張が走り抜けた。カナタ達が動きを止めていると、別段慌てるようなこともなく静かにスイレンはゆずを見る。穏やかに微笑んでいるのだが、妙な圧力を感じる。
「……余計な警戒をされないように、あえて見せないようにしていたのですが……まさかお子様にばれるとは少々驚きました」
そう言い、クスクスと笑う。
それに対し、若干むっとしたゆずがカナタに半分隠れながら言い返した。
「む……私はもう十五。お子様ではない。」
「え?」
それにはカナタ達も驚いた。ゆずの背格好や、人との応対に慣れてなさそうな感じからもう少し下の年齢だと思っていたのだ。
スイレンは相変わらずくすくすと笑っていたが、スッと立ち上がり洋服の乱れをなおすと、恭しくカナタ達に頭を下げた。
「では、改めまして。私、こちらの土地にお世話になってます鍛冶師の龍 安明の身の回りを仰せつかっておりますスイレンと申します。先生をおたずねになりお客様がおいでになると事でお迎えにあがりました。こちらへどうぞ」
整った所作でスイレンは言うと、案内するように歩き出した。カナタ達は顔を見合わせて、着いていくか迷ったがとりあえずスイレンの後を追うように歩きだした。
「なんか勢いに飲まれてっけど……どう思う」
歩きながら顔を寄せてきたスバルが言う。
「まあ……目的の場所に案内するっていうなら行くしかないんじゃないか?」
「どっちにしても、感染者の群れがいる所に戻るのはごめんだからね」
ダイゴは苦笑いを浮かべてそう言った。じわりじわりと自分たちが隠れている場所に向かって歩いてくる感染者というのは、恐怖でしかない。
もちろん、スイレンの言う事が本当であればという前提だが……。油断だけはしないように仲間たちに伝える。
「ゆずはよくあの人が武器を持ってるってわかったな。どこで気づいたんだ」
カナタが手を引くゆずに聞くと、ゆずは歩きにくい道を下を見ながら進んでいたが、顔を上げて少しだけ得意げな顔になって言った。
「うん……わかった。なんとなく?」
どうもはっきりとした回答は得られないようだ。
やがて沢の音がだんだん大きくなり、川が近い事を思わせる。慣れているのか、スイレンは悪路をものともせず歩いて行くが、時折後ろを振り返りこちらに合わせる余裕すら見せている。
こちらは身の軽いスバルはいいとして、ダイゴは少し前から喋る余裕もなくなっているし、カナタもゆずを気遣いながら歩いているので、そこまで余裕はない。
しかも武器や防具を帯びたカナタ達と違い、スイレンの格好はいたって軽装だ。シックなセーターに足首ほどまであるロングスカートという格好で、なぜこの悪路をスイスイ歩けるんだろうか?
そう思いながら立ち止まってこちらを待つスイレンを見ると、また口に手を当てクスクスと笑うとカナタ達を気遣うように言った。
「あと少しで着きますので、もう少々我慢なさってくださいね。何しろ先生が求める物が大体このような山を分け入った場所にありますので」
そう言って、にこりと笑うとまた歩き出した。さらさらと沢の流れる音と木々が出す音しか聞こえない山深いこの場所で、スイレンだけがまるで自然に受け入れられているような、そんな錯覚をカナタは覚えていた。
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