1-1 終わりの始まり
「母」は静かにたたずんでいる。
ある時、はるか遠くから飛来したものがあった。時折ある事だ。中には「母」に接触しようとするものもあるが、ほとんどは「母」にたどり着くまでに燃え尽きてしまう。
しかしこの時は少し違った。その時飛来したものは燃え尽きる間際にちいさい種をまき散らした。
種は「母」の中に入り、あろう事か「子」として慈しんでいる個体に同化してしまった。
「母」は怒った……いや、激怒した。よりによって私の大事な「子」に入り込むなど……「母」は種だけではなく、種の入った「子」まで異物と判断するようになった。
すると、「母」は気付いてしまった。それまで慈愛の目で見ていた「子」達が、我が物顔でふるまい「母」の体さえ傷つけていた事を。
そのせいで「母」の寿命は著しく短くなった。「母」はわからなくなった。……そして関係ない「子」まで異物であると誤認しだしたのだ。
「母」は静かにたたずんでいる。その中に狂気の種をはらんで……。
終わりが始まった日といえば、この日になるのだろう。恐らくみんな口を揃えてそう言うはずだ。
そしてその時はまだ、いつもと変わらない日が過ぎていくのだと思っていたはずだ。
徳島県須王市の中心にある町、須王。特に変わった物もないごく普通の町だ。
それでも須王市の中心の町であり、比較的自然の多いこの付近の町では大きい建物も多く近代化の進んでいる所である。その須王町でも一番大きい通りを一人の男が歩いていた。
一見普通のサラリーマンのように見えるその男性はひどく顔色が悪く、視点も焦点が合っていないように見える。
その日は平日で、町を行きかう人々は仕事などで時間に追われているのか、時計を見ながら、せかせかと歩いている人がほとんどだ。そんな中、その男は周りを気にすることなくゆっくりと歩いていて、今も向こうから来た男性と肩がぶつかってしまったが、相手は何も言わない、反応すらしない男を見て軽く舌打ちして足早に歩き去ってしまった。
ふらふらと歩くその男は何か目的があるようには見えない。
体調が悪いのか、にごった視線はやや下を見ているだけで、なんの感情も読み取れない表情でただ歩いている。
中にはそんな男を、眉をひそめて見る者もいるが多くは気にすることなくすれ違って行った。そして男は須王でも新しく一番大きい通りに差し掛かった。そこはかつては田んぼや空き地ばかりだったのだが、近年開発が進み、道路も広く作り直されている。近くに大型商業施設などが出来ている事もあり、たくさんの車が行き来している。
男が交差点に差し掛かった。ちょうど歩行者信号が青に変わったところで、止まることなく横断歩道を歩き出す。
次々と後から来る人々に追い抜かれながら、半分ほど渡った頃に信号が点滅しだして、同じように渡っている人々が歩調を速めて横断歩道を渡っていく。
しかし、その男は何を気にするでもなくそのまま歩いて行く。横断歩道を渡っていた最後の人が男の横を走り抜けていったが、男の様子はまったく変わらない。
そして点滅していた信号は赤に替わり、車線の信号が青に替わった。男が影響しない車線の車はすぐに走り出すが、男が歩いている車線は進むことができず、じりじりと前進してくる。気の短い者はクラクションを鳴らしているが、男はそれにも何の反応も示さない。
不幸にも、先頭で信号待ちをしていたのは音楽を爆音で流し、窓も外から見えないくらい黒いフィルムを貼った違法改造車だった。轢くぞと言わんばかりにアクセルをふかしながら前進するのだが、それにも反応する様子はない。
当然、そう言った連中が黙って渡り切るのを待つようなタイプではない。派手な格好と頭をした男性が車を降り、肩を揺らしながら男に近寄って行く。
「コラ、おっさん!邪魔なんじゃ、トロトロあるいてんじゃねーぞ!」
そう言うが早いか、男の肩を突き飛ばした。それを助手席から同じように派手な格好をした女性がニヤニヤしながら見ていた。
もう後続の車も異変に気付き、文句どころかクラクションすら鳴らさなくなり、隣の車線を走る車は好奇の目を向けながら走り去っていく。
「聞いてんのかコラ!」
突き飛ばされても文句も言わず歩こうとする男の襟首を掴んで凄んだ時、それまで俯き気味だった男の顔があらわになる。その目はフラフラと定まらない動きをしており、どこを見ているわけでもなさそうだった。口の端からはよだれを流した跡が残っていて、どう見ても普通には見えない。首周りの血のような汚れが殊更不気味さを増している。
……こいつヤクでもやってんじゃねーか?
派手な男、林は勢いよく絡んでいった事を少し後悔しだした。もしやばい筋の人間だったら、後からの追い込みが怖い。
「ちょっとー、もう行こうよ。そんなのそこらに捨ててきなよ。」
だるそうに助手席の女が、たばこに火を点けながら言った。その声に我に返る。先日ようやく誘う事に成功して、今日ドライブまで持ち込んだのだ。そんな女の前でビビってるような姿を見せる訳にはいかなかった。こういう男の価値観はそんなもんである。
一瞬女の方に気を取られ、視線を男に戻した時それまでフラフラと定まらなかった男の視線が、林の顔でピタリと止まった。
「ちっ!じ、邪魔なんだよおっさん!」
視線はあっているはずなのだが、林を見てはいないような男になんとなくゾクリとして、男の襟首を掴んでいる手を乱暴に離した。
男は何歩かたたらを踏むように後ろに下がり、倒れそうになる。林は最後まで見ないで車に戻ろうと振り返った。その瞬間ものすごい力でその体を引き戻された。
反射的に踏ん張ろうとした林の体は、いともたやすく地面に引き倒された。
「へっ?」
その間抜けな声が林の最後の言葉となった。
「きゃああ~っ!」
助手席の女が、こっちを見て大きな口を開けて悲鳴を上げているのが見えた。何度も口説いてようやく誘う事に成功し、今日こそは。と気合を入れて来た。こんなことしている暇はないのだ。
車の方に戻ろうとするが、うまく力が入らず足を上げる事もできない。
だんだんと目の前が真っ赤に染まっていき、急速に体が冷えていくのを他人事のように思いながら林は、助けを求めるように助手席を見た。
……そこに女の姿はなかった。開いたドアと道路に散乱した女の物と思しき小物が見えただけだった。
「なんだよ……せっかく、うまく、いきそう……だった」
林の意識はそこでぷつりと途絶える。
交差点は悲鳴が響き渡っている。派手な男の首筋に噛みつき、大量の血を浴びながら男は周りを見た。手に持っていたモノをもう用はないとばかりに投げ捨てると、本能に従いそれを拡げるために次を求めて歩き出した。
◆◆◆◆
同じ頃、市内にある高校で期末試験が行われていた。静まり返った教室には、シャーペンの芯が試験用紙の上をすべる音と、消しゴムを使う音くらいしか聞こえない。交差点の喧騒など想像もつかない静かな空気が教室に満ちている。
その教室の中ほどの席で、一人の生徒は時計を見つめている。
窓の外からは、何かあったのかサイレンを鳴らしながら走っていくパトカーの音が聞こえる。
それをぼんやりと聞きながら見ていると、ようやく時計の針が定刻になった。はやる気持ちを抑えてチャイムがなるのをじっと待つ。最後に解答用紙の記名欄をもう一度確認した。以前のテストで、名前を書き忘れて提出してしまったことがあるのだが、返却の時に担任から、下手くそな字のせいで一発でわかったぞ。とさらし者にされた事があるのだ。剣崎 哉太。ちゃんと書いていることを確認した時、壁につけてあるスピーカーからジジッと音がした後、大音量で終了のチャイムが鳴り響いた。
「終わった~!」
カナタはそう言って大きく伸びをした。三学期末試験が今日でようやく終わった。来年は県立須王高等学校の最上級生であり、進路のことについても本格的に考えていかなければいけなくなるのだが、とりあえずは憂鬱なテスト期間を乗り切れて開放的な機敏を楽しもう。
などと考えていると後ろの席から軽く小突かれる。
「ちょっと、邪魔だってば」
どうも思い切り背伸びしたせいで、後ろの席の邪魔になってしまったらしい。教卓では解答用紙を集めた教師が休みの注意事項などを話している。進路相談のスケジュールなどの話もあり、それを聞いていたのだろう。
「ハハ、悪い悪い。ハルカ」
カナタはあまり悪びれることなく謝りの言葉を口にする。カナタの後ろの席に座っているのは、仁科 遥華。という女子生徒だ。
振り返るとハルカは眉間にかるくしわを寄せてこちらをにらんでいた。きりっとした整った顔で、肩にかかるくらいの少し明るめの髪を頭の後ろで一つ結びにしていて、凛々しい顔立ちをしている。誰に対しても分け隔てなく接するので、男女問わず人気があり、カナタとは一応幼なじみということになる。
「カナタもそろそろ進路決めないと、後で焦っても知らないからね!」
カナタが教師の話をまともに聞いていなかったのは明らかであり、まだはっきり進路を決めていないことを知っているハルカが弟にでも言うような口調で言うので、つい冗談が口をつく。
「どこも行くとこなかったら、ハルカの爺ちゃんのとこで雇ってもらおうかな。師範代でいいや」
笑いながらそう返すとハルカは一瞬何か考えたようだが、馬鹿じゃないの!と頬を膨らませて席を立った。ハルカの祖父は剣術道場をやっていて、カナタは小さい頃から妹のヒナタと二人で通っている。
きっかけはカナタが剣や刀が大好きで、武士にあこがれて……まぁ少年なら誰しも一度は思う時期に、近所に道場があったのだ。興味本位でのぞいたところ、壁に掛けてある日本刀が見えた。
……ここに通えば少しくらい触らせてもらえるかもしれない。そう考えたカナタはすぐ入門こそしなかったが、頻繁に道場に姿を見せるようになり、小さいころから剣術に興味があったハルカと知り合い、一緒に真似事を始めた。
ハルカの祖父もかわいい孫とその友達に竹刀を持たせて教えてくれた。やがて正式に入門したのだが、途中で飽きたのと、ちょっとしたことがあって最近はあまり行っていない。
その事にちょっとした罪悪感を感じ、チクリと胸を痛ませながら、帰るべく荷物をバッグに入れていると机の周りに人が立った。見上げるとそこには見慣れた友人の顔がならんでいる。
「カナタ。早く行こうぜ!」
そう言ってカナタを急かす、丸刈りの少年っぽさを残した顔立ちの男は松園 昴。
スバルが言っているのは、ここ須王町の中心街に新しくできたゲームセンターに行く約束をしていたからだ。
中心街のほうは同じ須王町でも学校のある周辺やカナタ達が住む隣町より、大きい建物や店舗も多く賑わっている。なので学生たちはそっちを町と通称している。遊びや買い物に行くなら、この辺では町に行くしかない。
そして比較的小柄なスバルの隣でまるでスバルに隠れようとでもするかのように、やや遠慮がちに立っているのが大橋 大吾。
名前に大きいが二つも入っているだけあって縦も横も、さらには厚みもありがっしりとした風貌のこの友人は、見た目に反して穏やかな性格で小動物が大好きだったりする。困った人を見かけると放っておけない優しい男だ。
いつもつるんでいるのはだいたいこの二人なのだが……今日はいつもと違う顔ぶれもあった。
「田島君と中尾君も行きたいんだって、いいよね?」
カナタの心の疑問を察したのか、ダイゴがそう言った。机を挟んでスバルとダイゴの反対側に田島と中尾という同級生が立っている。
今日は帰りにスバルとダイゴ、三人で町に遊びに行こうと約束していたはずだ。別に増えても構いはしないのだが、それほど仲が良いわけでもないのに、どうしたのかと怪訝に思っていると、田島と中尾が顔を見合わせると勢いよくカナタの机に手をついて顔を寄せて来た。そして期待した顔で言い出した。
「その!剣崎君さ、例の物ないかな?」
そう言われたカナタが、焦った顔になった。
「なっ!お前ここで!」
カナタは周りを見渡し、その言葉を聞かれたくない相手を見つけて様子をうかがう。カナタの視線の先では、少し離れた場所でハルカが友人と談笑しているのが見える。どうやら聞こえなかったようで、内心そっと胸をなでおろす。二人は例の物としか言っていない。それが何を指すかはわかりようがないのだが、隠したいことをかぎつける我が幼馴染の鼻が予測を超えてくることは経験則で理解している。まして彼らが言う例の物は、ばれた日には道場へ強制連行の上、稽古という名の制裁を免れないであろう危険な代物なのだ。
「新しい商品はない。が・・・希望は?内容によっては準備する」
声を潜め、額を突き合わせるようにして商談を行う。そして希望を聞いて金額を伝えたあと、もう一度感づかれてないかそっと確認して、二人に了承を伝えた。
「そんな怖いならやんなきゃいいのに……」
ダイゴのあきれた声が聞こえた気がするが、これはビジネスなのだ。多少はリスクもつきまとうのは仕方のない事だ。多分……。
ここで言う例の物とは、道着をきたハルカの立ち姿の写真だ。
その凛とした姿のファンは多く、以前何気なく話していたところ、ぜひ買いたいと言う奴がいたので軽い気持ちでこっそり撮ってきた。するとそいつはちょっとびっくりする値段で買い取り、それが広まっていい小遣い稼ぎをさせてもらっている。カナタにとっては見慣れた姿でも、ほかの奴らにとっては普段見ない道着姿は特別なものがあるらしい。男子だけではなく女子にも売れるのだ。
そして収入の一部から、提供者であるハルカに時折何か欲しがっている物を買って渡している。誕生日でも何かのイベントの時期でもない時に渡したりするので、怪しまれたりするのだが……
今度久しぶりに道場へ行き、こっそりと撮ってくる計画を立てる。カナタに言わせれば普段からりりしい雰囲気のハルカの、さらにりりしい道着姿など普段の延長線上にあるだけではないかと思うのだが。
それよりも好きな小物などを見ている時とか、本人は隠しているがお気に入りの物やぬいぐるみに愛称をつけて大事にしている時などに見せる柔らかい笑顔の方が価値があると思う……いや、さすがにそんなところを盗撮したりしないし、わざわざ教えたりもしないが……。
「なに?ニヤニヤして。スバル君たち待ってるわよ。」
「うあ!」
そんなことを考えていると、いつの間にか戻ってきて帰り支度を整えたハルカから急に声をかけられ、思わず変な声を出してしまった。これには声をかけたハルカも驚いたらしい。
「なんて声だしてんのよ」
口をとがらせ、目を丸くしていたハルカが表情を変えて、カナタから視線を逸らした。
「遊びに行くのはいいけど……ちゃんと道場にも顔を出しなさいよ。その……遠慮なく稽古できる相手がいないとつまんないのよ」
少し頬を染めながらそう言うハルカの顔は、他の奴らは知らないだろう。
むしろこんな顔の方が、素に近くてかわいいのに……など考えてしまい、慌てて考えを打ち消したカナタはハルカの肩を掴んで出口に向けて軽く押しながら言った。
「す、少し考え事していたんだよ。ハルカも帰るのか?途中まで一緒にいこうぜ!」
「ちょっと。押さないでよ。もう!」
気恥ずかしくなり、顔を見られないように後ろに回る。
ハルカを押しながら荷物を持って、スバル達の姿を探すと、いつの間に移動したのか教室の出口の方で、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。ハルカが戻って来たのにわざと教えなかったな、と視線で文句を伝えながらも耳が熱いのを自覚していた……きっとカナタも顔が赤くなってるに違いない。
そんな顔をハルカに見られたくなくて、文句を言われながらもハルカを押す力を弱められないカナタだった。
試験終わりの解放感もあり、喧騒に包まれている廊下を友人たちと冗談を言い合いながらカナタは歩いて行く。
「ねえニュース見た?昨日のニュースで地球に落ちるかもしれないって騒がれてた隕石。結局燃え尽きちゃったらしいよ?」
「なんだよ、気候が変わったりして平和な日常からおさらばできるとおもってたのに~」
「でも世界各国でごく小さい流星みたいな光を観測したらしいよ?」
「それどっか落ちたの?」
「さあ。帰りポテト食べて帰らない?」
「いいね、行こう」
試験の解放感に浸っているのはカナタ達だけではないようだ。そんな会話を聞きながらカナタ達は廊下を歩いていく。
その廊下の窓からは、遠くの方で黒煙が上がっているのが見えたが、楽しそうに話している生徒たちにそれに気づく者はいなかった。
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