1-1 終わりの始まり
終わりが始まった日といえば、この日になるのだろう。恐らくみんな口を揃えてそう言うはずだ。
そしてその時はまだ、いつもと変わらない日が過ぎていくのだと思っていたはずだ。
徳島県須王市の中心にある町、須王。特に変わった物もないごく普通の町だ。
それでも須王市の中心の町であり、比較的自然の多いこの付近の町では大きい建物も多く近代化の進んでいる所である。その須王町でも一番大きい通りに一人の男が歩いていた。サラリーマン風の恰好をしているがどこか違和感を感じさせる。首元のカッターシャツが血らしきもので染まっているのだ。
その日は平日で、町を行きかう人々は仕事などで時間に追われているのか、時計を見ながら、せかせかと歩いている人がほとんどだ。そんな中、その男は周りを気にすることなくゆっくりと歩いていて、今も向こうから来た男性と肩がぶつかってしまったが、相手は何も言わない、反応すらしない男を見て軽く舌打ちして足早に歩き去ってしまった。比較的都会であるこの町では、その分人情などは薄れている。中年の男がけがをしていようが、自分で歩ける程度なら見向きもされない。
ふらふらと歩くその男は時間や仕事に追われているようには見えない。道脇に並んでいるショップのショーウィンドウに並んでいる商品に目を奪われる事もなければ、観光客のように辺りをキョロキョロと見回すこともない。
傷の具合が悪いのか、視線は前方やや下を見ているだけで、なんの感情も読み取れない表情でただ歩いている。
中にはそんな男を、眉をひそめて見る者もいるが多くは気にすることなくすれ違って行った。そして男は須王でも新しく一番大きい通りに差し掛かった。そこはかつては田んぼや荒れた空き地ばかりだったのだが、時代が進むにつれ大きい建物や商業施設が建ち、新しくできた分道路も大きく走りやすい。当然車通りも多く、たくさんの車が行き来している。
男は変わらない足取りで大きい道路の交差点に差し掛かった。ちょうど歩行者信号が青に変わったところで、男は止まることなく横断歩道を歩き出す。
次々と後から来る人々に追い抜かれながら、半分ほど渡った頃に信号が点滅しだす。ほとんどの人はこの時点で慌てて走り出すだろう。それができない人は中央で次を待つ。
しかし、その男は何を気にするでもなくそのまま歩いて行く。横断歩道を渡っている最後の人が男の横を走り抜けていったが、男の様子はまったく変わらない。
そして点滅していた信号は赤に替わり、車線の信号が青に替わった。男が影響しない車線の車は関係ないとばかりに走り出すが、男が歩いている車線は進むことができず、じりじりと前進してくる。気の短い者はクラクションを鳴らしているが、男は耳が聞こえないのか何の反応もしない。
不幸にも、先頭で信号待ちをしていたのは音楽を爆音で流し、窓も外から見えないくらい黒いフィルムを貼った違法改造車で、轢くぞと言わんばかりにアクセルをふかしながら前進するのだが、それにも反応することなく男はゆっくり歩くのみだ。
当然、そう言った連中が黙って渡り切るのを待つようなタイプではない。派手な格好と頭をした男性が車を降り、肩を揺らしながら男に近寄って行く。
「コラ、おっさん!邪魔なんじゃ、トロトロあるいてんじゃねーぞ!」
そう言うが早いか、男の肩を突き飛ばした。それを助手席から同じように派手な格好をした女性がニヤニヤしながら見ていた。
もう後続の車も異変に気付き、文句どころかクラクションすら鳴らさなくなり、隣の車線を走る車は好奇の目を向けながら走り去っていく。
「聞いてんのかコラ!」
突き飛ばされても文句も言わず歩こうとする男の襟首を掴んで凄んだ時、それまで俯き気味だった男の顔があらわになる。その目はフラフラと定まらない動きをしており、どこを見ているわけでもなさそうだった。口の端からはよだれを流した跡が残っていて、どう見ても普通には見えない。首周りの血のような汚れが殊更不気味さを増している。
……こいつヤクでもやってんじゃねーか?
派手な男、林は勢いよく絡んでいった事を少し後悔しだした。もしやばい筋の人間だったら、どこかの組に所属しているわけでもない林には、後からの追い込みが怖い。
「ちょっとー、もう行こうよ。そんなのそこらに捨ててきなよ。」
だるそうに助手席の女が、たばこに火を点けながら言った。その声に我に返る。先日ようやく誘う事に成功して、今日ドライブまで持ち込んだのだ。そんな女の前でビビってるような姿を見せる訳にはいかなかった。この手合いの価値観はそんなもんである。
一瞬女の方に気を取られ、視線を男に戻した時それまでフラフラと定まらなかった男の視線が、林の顔でピタリと止まった。
「ちっ!じ、邪魔なんだよおっさん!」
視線はあっているはずなのだが、林を見てはいないような男になんとなくゾクリとして、男の襟首を掴んでいる手を乱暴に離した。
男は何歩かたたらを踏むように後ろに下がり、倒れそうになる。林は最後まで見ないで車に戻ろうと振り返った。その瞬間ものすごい力でその体を引き戻された。
「へっ?」
その間抜けな声が林の最後の言葉となった。
「きゃああ~っ!」
助手席の女が、こっちを見て大きな口を開けて悲鳴を上げているのが見えた。何度も口説いてようやく誘う事に成功し、今日こそは。と気合を入れて来た。こんなことしている暇はないのだ。
助手席の女の元に近寄ろうとするが、うまく力が入らず足を上げる事もできない。
だんだんと目の前が真っ赤に染まっていき、急速に体が冷えていくのを他人事のように思いながら林は、助けを求める様に助手席を見た。
……そこに女の姿はなかった。開いたドアと道路に散乱した女の物と思しき小物が見えただけだった。
「なんだよ……せっかく、うまく、いきそう……」
林の意識はそこでぷつりと途絶える。
交差点は悲鳴が響き渡っている。派手な男の首筋に噛みつき、大量の血を浴びながら男は周りを見た。手に持っていたモノをもう用はないとばかりに投げ捨てると、本能に従いそれを拡げるために次を求めて歩き出した。
同じころ、市内にある高校で、期末試験が行われていた。静まり返った教室には、シャーペンの芯が試験用紙の上をすべる音と、消しゴムを使う音くらいしか聞こえない。
その教室の中ほどの席で、一人の生徒は時計を見つめている。やがて時計の針が定刻になった。はやる気持ちを抑えてチャイムがなるのをじっと待つ。最後に解答用紙の記名欄をもう一度確認した。以前のテストで、名前を書き忘れて提出してしまったことがあるのだが、返却の時に担任から、下手くそな字のせいで一発でわかったぞ。とさらし者にされた事があるのだ。剣崎 哉太。ちゃんと書いていることを確認した時、壁につけてあるスピーカーからジジッと音がした後、大音量で終了のチャイムが鳴り響いた。
「終わった~!」
カナタはそう言って大きく伸びをした。三学期末試験が今日でようやく終わった。来年は県立須王高等学校の最上級生であり、進路のことについても本格的に考えていかなければいけなくなるのだが、とりあえずは憂鬱なテスト期間を乗り切れて一安心だ。などと考えていると後ろの席から軽く小突かれる。
「ちょっと、邪魔だってば」
どうも思い切り背伸びしたせいで、後ろの席の邪魔になってしまったらしい。教卓では解答用紙を集めた教師が休みの注意事項などを話している。進路相談のスケジュールなどの話もあり、それを聞いていたのだろう。
「ハハ、悪い悪い。ハルカ」
カナタはあまり悪びれることなく謝りの言葉を口にする。カナタの後ろの席に座っているのは、仁科 遥華。という女子生徒だ。
振り返るとハルカは眉間にかるくしわを寄せてこちらをにらんでいた。きりっとした顔立ちで人によるとにらまれると怖いと言われることもあるが、小さい頃からの付き合いなので今更なんとも思わない。すこし明るめの髪の凛々しい顔立ちをしている。誰に対しても分け隔てなく接するので、男女問わず人気がありカナタとは一応幼なじみということになる。
「カナタもそろそろ進路決めないと、後で焦っても知らないからね!」
カナタが教師の話をまともに聞いていなかったのは明らかであり、まだはっきり進路を決めていないことを知っているハルカが弟にでも言うような口調で言うので、つい冗談が口をつく。
「どこも行くとこなかったら、ハルカの爺ちゃんのとこで雇ってもらおうかな。師範代でいいや」
笑いながらそう返すとハルカは一瞬何か考えたようだが、馬鹿じゃないの!と頬を膨らませて席を立った。ハルカの祖父は剣術道場をやっていて、カナタは小さい頃から妹のヒナタと二人で通っている。
きっかけはカナタが剣や刀が大好きで、武士にあこがれて……まぁ少年なら誰しも一度は思う頃、近所に道場があったのだ。興味本位でのぞいたところ、壁に掛けてある日本刀が見えた。
……ここに通えば少しくらい触らせてもらえるかもしれない。そう考えたカナタはすぐ入門こそしなかったが、頻繁に道場に姿を見せるようになり、小さいころから剣術に興味があったハルカと知り合い、一緒に真似事を始めた。
ハルカの祖父もかわいい孫とその友達に竹刀を持たせて教えてくれた。やがて正式に入門したのだが、途中で飽きたのと、ちょっとしたことがあって最近はあまり行っていない。
その事にちょっとした罪悪感を感じ、チクリと胸を痛ませながら、帰るべく荷物をバッグに入れていると机の周りに人が立った。見上げるとそこには見慣れた友人の顔がならんでいる。
「カナタ。今日行くんだろ?」
丸刈りの少年っぽさを残した顔立ちの男は松園 昴。
スバルが言っているのは、ここ須王町の中心街に新しくできたゲームセンターだ。中心街のほうは同じ須王町でも学校のある周辺やカナタ達が住む隣町より、大きい建物や店舗も多く賑わっている。なので学生たちはそっちを町と通称している。遊びや買い物に行くなら、この辺では町に行くしかない。
そして比較的小柄なスバルの隣でまるでスバルに隠れようとでもするかのように、やや遠慮がちに立っているのが大橋 大吾。
名前に大きいが二つも入っているだけあって縦も横も、さらには厚みもありがっしりとした風貌のこの友人は、見た目に反して穏やかな性格で小動物が大好きだったりする。困った人を見かけると放っておけない優しい男だ。
いつもつるんでいるのはだいたいこの二人なのだが……今日はいつもと違う顔ぶれもあった。
「田島君と中尾君も行きたいんだって、いいよね?」
カナタの心の疑問を感じ取ったの如く、ダイゴがそう言った。スバルとダイゴの反対側に田島と中尾という同級生が立っている。今日は帰りにスバルとダイゴ、三人で町に遊びに行こうと約束していた。別に増えても構いはしないのだが、それほど仲が良いわけでもないのに、どうしたのかと怪訝に思っていると、田島と中尾が顔を見合わせると勢いよくカナタの机に手をついて顔を寄せて来た。そして期待した顔で言い出した。
「その!剣崎君さ、例の物ないかな?」
「なっ!お前ここで!」
焦ったカナタは周りを見渡し、その言葉を聞かれたくない相手を見つけて様子をうかがう。カナタの視線の先ではハルカが友人と談笑しているのが見える。どうやら聞こえなかったようで、内心そっと胸をなでおろす。二人は例の物としか言っていない。それが何を指すかはわかりようがないのだが、隠したいことをかぎつける我が幼馴染の鼻が予測を超えてくることは経験則で理解している。まして彼らが言う例の物は、ばれた日には道場へ強制連行の上、稽古という名の制裁を免れないであろう危険な代物なのだ。
「最近は入荷していない。が・・・希望は?内容によっては準備する」
声を潜め、額を突き合わせるようにして商談を行う。そして希望を聞いて金額を伝えたあと、もう一度感づかれてないかそっと確認して、二人に了承を伝えた。
「そんな怖いならやんなきゃいいのに……」
ダイゴのあきれた声が聞こえた気がするが、これはビジネスなのだ。多少はリスクもつきまとうのは仕方のない事なのだ。
例の物とは、道着をきたハルカの立ち姿の写真だ。
その凛とした姿のファンは意外と多く、以前何気なく話していたところ、ぜひ買いたいと言う奴がいたので軽い気持ちでこっそり撮ってきた。するとそいつはちょっとびっくりする値段で買い取った。それが広まって、時折こうやって声がかかり、いい小遣い稼ぎをさせてもらっている。カナタにとっては見慣れた姿でも、ほかの奴らにとっては普段見ない道着姿は特別なものがあるらしい。男子だけではなく女子にも売れるのだ。
そして収入の一部から、提供者であるハルカに時折何か欲しがっている物を買って渡している。誕生日でも何かのイベントの時期でもない時に渡したりするので、怪しまれたりするのだが……
今度久しぶりに道場へ行き、こっそりと撮ってくる計画を立てる。カナタに言わせれば普段からりりしい雰囲気のハルカの、さらにりりしい道着姿など普段の延長線上にあるだけではないかと思うのだが。
それよりも好きな小物などを見ている時とか、本人は隠しているがお気に入りの小物やぬいぐるみに愛称をつけて大事にしている時などに見せる柔らかい笑顔の方が価値があると思う……いや、さすがにそんなところを盗撮したりしないしわざわざ教えたりもしないのだが……。
「なに?ニヤニヤして。スバル君たち待ってるわよ」
「うあ!」
そんなことを考えていると、いつの間にか戻ってきて帰り支度を整えたハルカから急に声をかけられ、思わず変な声を出してしまった。これには声をかけたハルカも驚いたらしく「なんて声だしてんのよ」と口をとがらせ、目を丸くしている。
むしろこんな顔の方が、素顔に近くてかわいいのに……など考えてしまい、慌てて考えを打ち消したカナタはハルカの肩を掴んで出口に向けて軽く押しながら言った。
「ちょっと考え事していたんだよ。ハルカも帰るのか?途中まで一緒にいこうぜ!」
「ちょ、ちょっと。押さないでよ!」
気恥ずかしくなり、顔を見られないように後ろに回る。
ハルカを押しながら荷物を持って、スバル達の姿を探すと、いつの間に移動したのか教室の出口の方で、ニヤニヤしながらこっちを見ていた。ハルカが戻って来たのにわざと教えなかったな、と視線で文句を伝えながらも耳が熱いのを自覚する……きっと顔が赤くなってるんだろう。 そんな顔をハルカに見られたくなくて、文句を言われながらもハルカを押す力を弱められないカナタだった。
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