20-7
こうした一流の洋服や小物は、夏芽にとって身を飾るだけのものではなく、男をひっかける小道具でもあった。どうしても困窮した時は売れるし、売った金でランクを落とした洋服を買い、それに見合った男をひっかけ貢がせる。これまでそうして生きてきた夏芽は人生など簡単なものであると勘違いしていた。会社に勤めていた頃、なじめず苦労していた時の事はもう頭の片隅にも残っていない。
そんな生活をしてきた夏芽に想定外の事が起きた時の対処など考えつくはずもない。何も考えずに逃げたがたいした距離を移動できたわけでもない。兄を探して街を走り回ったヒナタの三分の一も走っていない。それでも必死に助けてくれそうで身形のいい男に助けを求めた。
「なんで助けてくれへんのや!」
何度も声をかけたがことごとく失敗に終わった。誰もが自分の身を守るのに必死で余裕がなかったのもあるが、見るからに遊んでそうで足手まといでしかなさそうに見える夏芽を助けようとする者はいなかった。やむを得ず声をかける基準をだんだんと落としていったが、悪し様に振り払われる始末だ。振り払った男はこれまでなら声をかけてきても鼻であしらっていたレベルの男だった。
失意のあまり両膝をつく。ここまでの屈辱はいままで味わったことのないものだった。
「なんでやねん、何があかんの?」
血を吐くような声を出す夏芽に近寄る影があった。それに気づいた夏芽は涙を乱暴にぬぐうと、精一杯の愛想を作って振り返ると助けを求めた。
「……は?」
次の瞬間、夏芽は組み伏せられていた。首筋に鉄のにおいがする生暖かい液体が降りかかってくるのを感じながら絶望した。そこにいたのは変わり果てた林だった……
ここでいったん、夏芽の記憶は途切れる。次に意識を取り戻すのは実に二年も後になるのだが、その間はぼんやりとしか記憶も残っていない。なにやら頭に直接誰かが話しかけてきていて、何かをしないといけないという漠然とした感覚が残っているだけだ。
そして二年の月日が流れて、夏芽は意識を取り戻した。
「なにしとんねん、おっさん」
ついて出た言葉がそれだった。薄汚い部屋に暗そうな男が一人自分を見ている。自分はというと磔のように両手両足を壁に固定されていて、しかも一糸まとわぬ姿を見知らぬおっさんに晒している。状況がまったくわからなかった。
ずいぶんと口汚く罵っていたと思う。状況的に自分は好きに弄ばれた後なのだろう。暴行された感触はないが、状況がそうとしか思えない。
やがて、文句も言いつくし声がかれて出づらくなった頃にようやく男は口を開いた。
「口の動きは問題ないな。思考能力も悪くない。気分は悪くないか?痛いところは」
言っている事は医者に似ているが、違うところはこちらの体をまったくいたわっているわけではなさそうな事だ。なんとなくそれがわかった夏芽は心底ゾッとした。いたずらや乱暴をされたものと思い罵っていたが、この男はそんなことに全く興味を示していない。自分の体など路傍の石ころほどにしか興味はないだろう。
「なんやねん、あんた」
そう言った夏芽の声は震えていた。これまで勢いよく喋ったことで喉が枯れてしまったのか、心の奥底が恐怖を訴えていたのかはわからない。
それが夏芽と佐久間の最初の出会いだった。
ちょうど喰代博士が開発した試薬と似た効果の薬を開発した佐久間は、誰でもいいから手ごろな感染者を捕まえた。たまたまそれが夏芽だっただけのことだが、薬と夏芽の相性がよかったのか、初めて佐久間の想定通りの効果を表した。
こうして、夏芽は不死の肉体と、なぜか感染者に襲われないという力を手に入れたのだ。喰代博士の試薬と違い感染者の能力まで発揮できるのは、感染体の位置が関わってくる。せいぜいマウス相手に実験するしかない喰代博士と違い、佐久間は簡単に人体実験に踏み切る。それによって試薬の効果が及ぶぎりぎりのラインを佐久間は掴んでいる。
詩織も同じ半感染の状態だが、試薬により感染体は延髄に着床できずに留まっているだけだ。しかし夏芽は感染体が着床したのち、発症を抑えてある。もちろんこのラインを突き止めるまでに佐久間はかなりの数の犠牲者を出している。さらにすでに着床している感染体は夏芽の体から養分を吸うので定期的に薬を摂取しないといけない。
人体の運動機能を司る延髄に着床した感染体は脳まで支配して、本体の指示に従うようにさせる。その際に人が元々備えているリミッターをすべて解除するのだ。人間は自分の体が壊れない程度の力しか出すことができない。これはリミッターがかかっているからだ。たまに解除されるのが命の危機が迫った咄嗟の時だ。いわゆる火事場の馬鹿力がこれにあたる。火事場から普段持てないような重い物を運び出した例は結構残っている。あとは精神に疾患を持つものもリミッターが外れかかっている人が多く、怪力を発揮することが多い。
それに暴力性を足し、人の形をしたものを攻撃する本能的な忌避感を消してしまえば立派な感染者が出来上がる。
ここまでが、佐久間が解明していることだ。ちなみに喰代博士は人体実験なしで、理論的に近いところまで解明している。実証ができないために、今は仮説という形でしかないが喰代博士の天才ぶりがよくわかる。
話を聞き、さらにそれを証明するような実験をその目で見た夏芽は、目の前の男に逆らう気をなくした。なにしろ薬を摂取しないことには自分は生きられないのだから……
それに見た目はそこらの感染者のような恐ろしい姿ではなく元のまま、いや、それどころか少し若返っている感じすらある。さらに佐久間に従っているかぎり感染者に襲われることもないのだ。
もともと長期的な展望ができず、刹那的な思考の夏芽にとって飢えることもなく思いのままに動けて感染者に襲われることもない今の状況はそう悪いものではなかった。さらに、男を食いつぶしてきたことからわかるように夏芽は罪悪感というものが元々持っていないか、あって非常に希薄なものだった。力を持った今、力をもっていない者がどうなろうとどうでもよかった。
それでも、カナタにより首を飛ばされたときはさすがに死を覚悟した。古今東西、首を飛ばされて生きていた者は物語の登場人物を加えても数えるほどしかいないだろう。
まさか自分もその一人とは思ってもいなかったが、次もうまく逃れられるとは限らない。夏芽にとっての最大の関心ごとは自分が不自由なく生きていける事にあるのだから。ちょうど同じころ佐久間も喰代博士がとったマザーのデータを手に入れることができて、研究が次の段階に進もうとしている時だった。
こうしてふたりのサイコパスの思惑がぴったり重なった。佐久間はさらなる改良をした薬を夏芽に投与し、また夏芽もそれを望んだ。これから実証実験に入ると行ったときに侵入者の知らせが入った。
カナタ達の事だ。そして時間は冒頭に巻き戻る……
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