一章 序
双眼鏡を通した視線の先、おおよそ百メートルほど先。体の表面が黒く変色し、いたるところが破れた洋服を着た人物が、覚束ない足取りでこちらへ向かってくるのが見える。
それらはもう人であって人ではない。
端的に表現すれば、「ゾンビ」が最も近いだろう。
ホラー映画の人気者で、腐った肉体と単純な思考しか持っていないそれは、本能の赴くままに生者を襲い食らいつく。ゾンビに噛まれた人は、ゾンビと化してまた別の人を襲う。作品によって多少の違いはあれど、おおむねこのような特徴をもっている。
そして今、視線の先にいる存在も似たような特徴を持っているのだ。
少し前に急激に広がり、今も増え続けるそれを人々は「感染者」と呼んでいる。ナイフで刺そうが銃で撃たれようが向かって来る感染者に、人類は衰退の一途をたどっている。住むところを追われ、避難した先も追われて、活動領域をあっという間に奪われた人類は、ひたすら息を殺して隠れるしか手段がなかった。
時間と共に少しづつ対抗する術が広がっているが、ほとんどの人間は逃げることで精一杯だ。
そう考えている間にも視線の先では脇道から次々と姿を現すその感染者に、カナタは唇を噛んだ。
『すぐそこまで来てる!数が増えてるぞ、まだ向きをそらせないのか、スバル!』
雑音の混じるインカムを通し、前線で奮闘しているであろう仲間に状況を伝える。
住宅地の一画、ごく普通の戸建てが並んでいるうちの一軒の家。荒れた外見を見ただけで長い間人が住んでいない事を想像させる。そんな家の屋根の上で、目の前の道路を睨んでいる。
滅んでしまった世界に作られた都市がある。四国に四か所に分けて作られた都市はナンバーを振られて、数字で呼ばれることが多い。その都市の一つ、№4と称している場所で、都市の防衛や探索、戦闘を行う集団として作られた守備隊という組織がある。
カナタ達は、その守備隊の第十一番隊として任務に当たっていた。
そんなカナタのすぐ隣から弾けるような銃声が数回聞こえて、姿を見せた感染者が倒れていく。銃声とほぼ同じ数の感染者が倒れるのを見て、カナタは思わず感心した声を出した。
先達が自らの命と引き換えに見つけてくれた感染者の唯一の弱点。うなじの下、延髄付近を破壊されると感染者は動きを止める。カナタの隣でライフルのスコープを覗いた隊員は見事にその弱点を撃ち抜いて見せていた。
その腕前に、カナタは快哉をあげそうになったが、その隊員からは苦渋に満ちた声が聞こえてきた。
「くっ……カナタ君!もう弾が残り少ない。これ以上はもたない……。手持ちの弾薬はもうこれだけ」
カナタと同じ屋根の瓦の上に伏せて射撃をしているその隊員の少女、ゆずがそう言いながらマガジンを交換している。守備隊に支給されている装備のマガジンポーチには、もう空になっている。
カナタと同じく十一番隊所属の射撃手であるゆずは、十五歳という若さで小柄な体に似合わぬバイタリティと、類稀なる射撃センスを有している。
元々ここまでの戦闘になるとは想定していなかったので、持って来た弾薬はそう多くない。
彼女でなければとっくに撃ち尽くして、なお半分も処理できていないだろう。
正面の道路は大きい国道からの分岐であり、現在国道を感染者の集団が移動をしているのだ。
感染者の中でも、マザーと呼ばれる特殊な個体を中心とした感染者の集団は大体決まったルートを周回する習性がある。これも最近になって分かったことだ。
以前から、都市から少し離れたところにマザーと言われる特殊な個体がいることは知られていた。本来は都市から離れるようなルートを周回していたのだが……
「くっそ……なんだってこっちに向かって来るんだよ……いつもはまっすぐ西に移動していたのに……」
道路を睨み思わずカナタは呟いた。
少し前に、感染者の研究機関の喰代博士という感染者の研究をしている人が、件のマザーに普段と違う行動が見える。と、強硬に主張したため、カナタ達は「警戒」するために出動していた。「戦闘」を主任務としていないので、弾薬の類も多くは支給されていない。
「まさか都市の方に向かってくるなんて……なんとか向きを変えないと、このままじゃ都市を直撃する」
今も前線では、同じ部隊でカナタの同級生のスバルとダイゴが感染者を元のルートに誘導しようと動いているはずだ。しかし、未だルートを変えたとの報告はきていない。
「カナタ君、また来た!」
ライフルのスコープで道路を監視していたゆずがそう伝えてくる。カナタも目を向けると、大きい通りからこちらに向かって歩いて来る数体の感染者が見える。
「まずいな、このまま来られると……」
もしカナタ達が抑えきれなくなった時、感染者の群れが都市に押し寄せることになる。そうなれば待っているのは……。都市は防衛に向いていない。もし感染した人が都市の中に入ってしまうと大惨事になってしまうからだ。
戦力として考えても、感染者によって一人感染するということは、戦力がマイナス1ではすまない。こちらは一人減って感染者は一人増えるのだから、実質マイナス2になる。
カナタがそんな思考に陥っていると、突然激しい音と光が国道の方で聞こえた。
「カナタ君!」
すぐにゆずも気付いたのか声を上げる。カナタも顔を上げると国道の方向で鮮やかな色の火花が吹き上がっている。音に敏感な感染者を誘導するために、地面に置いて使う花火をいくつも持って行っていた。
ようやく上がった昼間の花火にカナタは肩の力が抜けていく。
「よかった……何とかなったのか。スバルから花火がしけって点かないって連絡が来た時にはどうしようかと思ったけど……」
どうやら、ようやく着火できたようだ。カナタは少しだけホッと息をついた。何も言わないが、伏せたままのゆずからも安堵した気配を感じる。
「ちょっと、こっちに来てるじゃない!カナタ、国道の状況は?」
場違いな花火を眺めていると、数人の人間が駆けてくる足音がして、下から声をかけられた。都市からの応援部隊が到着したようだ。下をのぞくと、ちょうどこっちを見上げる女性と目が合った。
栗色の髪を後ろで一つ結びにして、凛とした佇まいのよく知っている女性。カナタの元同級生でもある。
「ハルカ?六番隊が来たのか?他の部隊はどうしたんだよ」
「他の作戦とぶつかってて、普段より都市に残ってるのが少ないのよ。それで急遽六番隊に声がかかって。花火が上がってたけど、うまく方向変えられたの?」
ハルカがそう聞いてくるのと同時に、カナタのインカムからも声が聞こえた。
『わりい!なかなか火がつかなくてさ。最終的に焚火起こしてその中に放り込んでつけた。こっちから見える範囲は国道ルートに戻っているみたいだ。このままダイゴと誘導する。いくらかはそっちに曲がったのがいるから気をつけろ』
前線で感染者の集団を誘導しようとしているスバルから、そう連絡が入る。
おおむね作戦は思い通りになった。あとは、こっちに向かって進路を変えた感染者だけを始末すれば問題なく帰れる。
『了解、そっちも気をつけてな。』
インカムでスバル達にそう伝え、隣で伏射姿勢のままでいるゆずの背中を軽く叩いて言った。
「ならここで待ち受ける必要もないな。出て行って片付けて、さっさと帰ろうぜ」
使用しているインカムは、チャンネルを同じくする全員が同時に聞こえるタイプなので、ゆずも会話は聞こえている。
背中を叩くと、意図を察したのかゆずがライフルを肩に担ぎなおして立ち上がった。
カナタは屋根に上がる時に使ったはしごで下に降りると、スバルが言った内容をハルカにも伝えた。
「とりあえずは何とかなったって事ね。じゃ、こっちに来ている分を叩けば問題なしね」
そう言うと、止める間もなくハルカは一緒に来た六番隊の隊員に声をかけると道路の先に向かって走り出した。
「おいハルカ!気をつけろよ」
走り出したハルカにそう声をかけると、ハルカは振り返らず右手を挙げて了解の旨を伝えてきた。
「あいつ、ここまで走ってきたのに、ろくに休憩なしで行くつもりかよ」
その背中を見つめながらカナタは呆れたように言った。
そして思い返す。そういえばあいつ元陸上部だったな、と。
その背中を追うようにして、ゆずと共に国道の方に移動しながらカナタは思いを巡らせた。
世界がこんな風になってから季節が二回ほど巡った。二年前まではカナタもハルカも、前線にいるであろうスバルやダイゴも普通に高校に通っていた。
世界は平和でそのまま学校を卒業して、進学したり就職したりして……大して変化もない日常を過ごしていくんだろうと思っていた。
その当時は当たり前だと思っていた平和な世界は意外と簡単に壊れてしまった。いまや、人が住める領域はまだまだ狭く、ほとんどのエリアはゾンビのように徘徊する感染者が支配している。
ある日、突然町に現れた一人の感染者から爆発的に拡がり、いまでは生きている人達が息を潜めるようにして暮らしている。噂では同時期にいろんな場所で同じように突然感染者が現れたらしい。いまだに感染者について詳しいことは判明していない。
ここ四国に作られた四つの都市以外の所では、どれだけの人が残っているかすらも定かではない。
平和だった日常が、突然危険な非日常へと変わり果てた日の事をカナタは今でもはっきり覚えている。
道路の先を見ると、残りの感染者も対処できたのか、ハルカたち六番隊が談笑しながら歩いて戻ってきている。その隣にはダイゴやスバルの姿も見える。昔からの友人が並んで話している様子を見て、カナタは昔の事を思い出していた。
——世界が終わった日を。そして、絶対に生き残ってやると心に決めた日を‥‥。




