ルートミヤコ14(ファイナル):本音(ねがい)
母が泣いている。
全ての悩みと不幸を解消する理想郷の中で、極彩色の花が揺れる地に両手をついて、花の蜜が香る空気をいっぱいに吸いながら、泣いている。
今しがた静かに立ち去った神条桃花という少女。彼女がその原因であるらしいことは、ミレイにも何となく分かった。けれども、どうしてそれが原因になるのかは分からなかった。彼女は去り際、『ルーチェでは私の悩みが解決できない』という趣旨のことを言い残していたが、それを聞いて母は取り乱したように思えた。でも、一体それの何が、彼女の心をここまで傷つけたと言うのだろうか。
――いったい母は何を見て、何を聞いて、何を感じたのだろう。
痛ましく、惨めにも思えるその姿に、ミレイの心はじくと痛んだ。
「……桃姉の目は、お母さんと同じ目をしていました。マストビー」
隣でミヤコが、初めてミレイに口を聞いた。
ミレイは振り返りそうになったが、彼女はこらえる。ぎゅっと拳を作ってその衝動に耐えた。そうした理由は分からない。けれども、まだ妹の顔を見るわけにはいかないと、そう思ったのだ。
けれども。
「どういうことなのか、説明して欲しい。どうして母はあそこまで泣いているんだ」
ミレイは彼女を無視する訳にはいかないと、そうも思った。本当に今更という気もする。この程度のことが、何年とできなかったなんて。とにかく二人は、そうして久しぶりに言葉を交わした。
ミヤコもミレイの反応に驚いた様子だった。誰にとなく呟いた体を装い、独白のように聞き逃してもらうつもりだった。なのに、彼女は己を無視せず耳を傾けてくれた。これまでのように『私なんて存在しない』というような扱いをせずに。
嬉しいか、と言われたら素直にそうだと答えるのは難しい。けれども嫌かと聞かれたら、それだけは違うと自信を持って言える。そんな感情だった。
ミヤコは了承するよう頷いた。それから少しだけ目を閉じて、先までここにいた姉たちに感謝する。
ミユキ。
ミキ。
ミヅキ。
アヤ。
ヨードー。
マリサ。
トウカ。
ミカ
ここまで皆のお膳立てがあれば、非常識な出来事が連続すれば、この程度の非日常なんてなんでもない。そう思えた。
だから――こうしてまたミレイと話をすることができた。
――ありがとう、姉さんたち。
ミヤコは目を開け、ミレイに自分の秘密を、あのときの真実を語り始めた。
*
それは誰にも話したことのない、ミヤコの苦しみ。死ぬまで告白するつもりのなかった事件の真相だ。
ミヤコの母――ジュン。
ミヤコは彼女のことが大好きだった。
優しくて、温かくて、柔らかくて、いつもいい匂いがして、そして寂しがりの自分がどれだけ甘えても、嫌な顔一つせず、どこまでも甘やかしてくれる母が、ミヤコは本当に好きだった。
朝から晩まで、いつもベッタリと一緒にいる二人には、過保護なんていう言葉では到底追いつかない。それは二人を良く知るミレイや兄の京一、そして父でさえ心配になるほどだった。
もう絶対に、ジュンはミヤコ離れができないし、ミヤコは母離れができないな。
口癖のように家族は言っていた。
しかしもちろん、ミヤコはジュンに怒られたことだってある。
けど、それもジュンが腹を立てて怒ったことは一度もない。そうしないと自分が後々に不幸な目にあってしまうから仕方なく。身を切るような思いで、というものばかりだった。ミヤコはどれだけ思い返しても、それ以外の理由で母が怒ったことはなかったように思う。愛情には人一倍敏感なミヤコである。そんな彼女がそう思うのだから、きっとジュンの愛は真実なのだろう。ミヤコはずっとそう信じていた。
けれども、そんな彼女だからこそ感じるものがあった。
母の、ジュンの、自分に向ける瞳。
自愛に満ちた母のなかで、どういうわけかその目だけが異物のように感じられていた。たとえばそれは快晴の空で淀む黒い雲。真っ白なシーツに染みた赤の滲み。澄んだ水槽のなかでぴくりとも動かない熱帯魚。虹色の花壇に咲いた一輪の黒い花。全てが自愛に満ちた母のなかで、その瞳だけが、どうしてかそんな風に感じられたのだ。
――ねぇ、ミィちゃん。ミィちゃんはお母さんのことが好き?
運命のその日、ジュンはミヤコにそう尋ねた。
それはこれまで二人の間で何百回何千回と繰り返されてきた愛情確認。ただ『大好きですマストビー』と笑って終わるだけの、退屈の域にまで達した平凡なやりとり。これはそういうもののはずだった。なのにどうしてか、ミヤコはその日、そのとき、その瞬間、そのありふれた答えが返せなかった。
彼女の髪を撫でる母の手が、微かに震えている。
いつもよりも少し、声が上ずっている。
向けてくる笑顔が強張って見える。
いつもと様子の違った母。
雰囲気の変わった接し方。
背中に回された腕は抱き締めるというよりすがりつくよう。
ミヤコはそれらを、敏感に感じとってしまったのだ。
ミヤコは不安になった。なんだか変。なにか今日は違う。いつものお母さんじゃない。私の知っている、あのお母さんじゃない。抱き締める母の腕のなかで、彼女は固くなった。
しかし、ミヤコの不安の正体はそれではなかった。
いつもと様子の違うこと、雰囲気の違うこと、それには確かに違和感がある。でも不安になるほどのことでもない。それは「大丈夫お母さん?」と気遣えばすむ程度の違和でしかなかった。
なら不安の正体は何なのか。
ミヤコはそれを直感することはできたが、しかし理解することはできなかった。
このとき感じた母の違和感。
それが逆に、なぜかこれまで感じていた母の『目』の違和感を、綺麗に消失させている――それが、不安の正体だった。
黒く淀んだ雲に相応しくなった、雨降前の曇り空。赤の滲みが目立たなくなるほど、血に汚れてしまったシーツ。熱帯魚が窒息してもおかしくないほど、暗く濁った水槽の水。黒い一輪の花が埋没するほど、どす黒く濁った葬礼の花壇。いつも己に向けられていた違和感が、こんな風に消えていたのだ。
そう。
彼女の見慣れたあの瞳は、
今の『この表情』にこそ相応しいものだったのだ。
それが、不安の正体。
ねぇ、母さん。
もしかして、
これまでずっと、こんな風に私を見ていたの? メイビー?
これまで愛情として感じていた何かが、ミヤコの中で挿げ替わった。
カチカチカチと、歯の震える音がした。ミヤコは急に母というものが分からなくなった気がした。見失ってしまったような気がした。
ミヤコは思った。いったい私は、なにを錯覚していたのだろうと。母は一体、どんな気持ちで私を抱き締めていたのだろうと。母は一体何を考えて、私の髪を撫でていたのだろうと。母は何を思って、好きだと言っていたのだろうと。
そんなミヤコの変化が伝わったのだろうか。まるでドミノが崩れてしまうかのように、ジュンにも動揺の波が広がった。それはミヤコが見たことのない表情で、感じたことのない感情で、もっといえば見知らぬ他人としか思えないほどの変化だった。
だから、ミヤコは言ってしまったのだろう。
この日にだけは、
この時にだけは、
この母にだけは、
言ってはいけない言葉を。
――本当に、いまの『お母さん』は『ミヤコのお母さん』ですか? メイビー?
早乙女家の崩壊は、こんな些細な事から始まってしまった。不幸にもその日、そのとき、その瞬間は、早乙女ジュンが現実逃避から立ち直る契機として、己の口からミヤコへ真実を告げようと決意した瞬間でもあった。
*
その直後に起きたことはミヤコも忘却してしまった。
思い出そうとすると頭が割れそうに痛くなる。ただ時折フラッシュバックするのは、何かをしきりにわめく母の姿。腕に爪を立てるほど抱き締めてきて、決して自分を離そうとしない壊れた何か。断片的に、私と『それ』を引き離そうとする父、兄、ミレイの姿が見える。三人は泣いているような、怒っているような、でも、彼女にはよくわからない。ただ自分の迂闊な一言が、これまでギリギリのバランスで維持されてきた大切なモノを木っ端微塵にした。そんな自覚だけがずっとミヤコの中に残っている。
でも、今なら分かる。
*
ぼろぼろと、ミヤコの目から涙が溢れてきた。
「私は……」
私は――私はお母さんにとって『悪魔の人形』だったんです。
私のことが愛しくなれば愛しくなるほど、お母さんは突きつけられていたんです
――これが娘の持つ愛おしさだ。
――欠陥品のお前には、絶対に手の届かない存在だ。
――腕の中の愛くるしい『それ』こそが、お前の手に入れ損ねた宝物だ。
「……私は、お母さんのあの『目』の意味が、それで分かったんです」
お母さんはあのとき壊れたんじゃない。私を愛し始めたときから、とっくに私が壊していたんです。それでもその壊れていく痛みを埋めるためには、私という偽物に愛情を注ぐしかない。それでまた心が壊れていき、またそれを補うために私へ愛情を注ぐ。
だからお母さんは、どれだけ壊れても、私を愛し続けるしかなかったんです。
そして私はそれに気付かないままで、ただ愛される喜びしか感じられなかった。なにも知らずに、ただ悪魔のように可愛い人形であり続けた。いったいそれがどれだけ残酷なことかを自覚できないまま。
「そして最後の最後に、私はそれこそ悪魔としか思えないようなことを言って、お母さんを木っ端微塵に壊してしまったんです」
――本当にいまのお母さんはミヤコのお母さんですか? メイビー?
「桃姉の目は、あのときのお母さんの目です。だからお母さんは……」
それきり、ミヤコの声は言葉にならなかった。
*
ミヤコはそこから逃げ出したのだという。早乙女家からではなく、彼女の現実から。誰よりも好きだった母を、他でもない自分が壊してしまったという事実から。
そしてミヤコは早乙女家を呪った。
ミレイを呪った。
京一を呪った。
父を呪った。
母を呪った。
これまでの思い出と記憶と、過去の全てを、忌まわしきものとして否定した。さらに掌を返すように、これまで一片の愛情を受けたことのない後宮家に、己の在処と愛情と、未来を求めることをミヤコは選んだ。
まさに母を破壊するに相応しい悪魔の人形。
彼女を壊した私はそういうモノになくちゃならない。間違っても不幸な犠牲者になってはならない。でなくては彼女たちが報われない。それこそ早乙女家は、いま憎むべき敵を失ってしまえば本当に崩壊してしまう。だからミヤコは、この道を選んだ。
なのに。
そんな、自分であるべきなのに。
ミヤコを迎えてくれた、後宮京太郎は。
八雲マリサは。
園田美雪は。
園田美月は。
園田美花は。
神条桃花は。
神条美樹は。
みんなは。
自分をこんなにまで愛してくれた。
誰よりも不幸にならなくちゃいけないのに、誰よりも憎まれなくちゃいけないのに、自分は誰よりも愛されてしまった。誰よりも幸せになってしまった。
そしてミヤコは、許されないことにそのことが嬉しかった。
早乙女家の不幸をよそに、今の自分はこの上なく幸福なのだと知ってしまった。今更どんな顔して、自分は悪魔の人形を演じられるだろうか。
だから。もう二度と過去に戻ることはできない。
早乙女ミヤコはもうしんだ。
悪魔の人形もしんだ。
ここにいるのは、後宮ミヤコだ。
ミレイがミヤコからの話で理解したのは、そういう内容だった。
*
「ふざけるな……」
ぽつりと、零すようにミレイは言った。今や傍らに伏せって、泣きじゃくるミヤコ。それを見下ろすミレイの拳は震えていた。目には溢れるほどの涙が膜を張っていた。
「ふざけるな……ミヤコ!!」
これまで冷静だったミレイはとうとう感情を決壊させた。隣で泣き崩れているミヤコを強引に引き起こし、彼女の両肩を掴んで真正面を向かせる。
ここにきて初めて、姉妹は視線を交差させた。ミレイはその瞬間までミヤコの頬を打つつもりだった。泣いている妹を、怒りと悲しみに任せて、力の限りブッ叩いてやるつもりだった。それから倒れ伏したミヤコに対して、あらゆる呪いをぶちまけてやろうと思っていた。どうしてあのとき母に『大好きです』と言ってやらなかったのか。どうして『愛している』と答えてやらなかったのか。あの一瞬さえいつも通りしていれば、早乙女家は幸せな家族を続けられた。私は今まで通りミヤコと一緒に遊んだり、一緒に兄をからかったり、髪型の相談をしたり、恋話もしたり、父と喧嘩したときは結託したり、母を仲良く取り合ったり、夕飯の献立を考えたり、これからもそういう当たり前で、大切な日常を続けていくことができていた。でなくても、あの後に『いかないで』と泣く母をおいてミヤコが逃げなければ、私も兄も父も、いくらでも家庭を元に戻す努力を喜んですることができた。なのにどうして逃げ出した。どうしてもっと私を信じてくれなかった。どうしてもっと兄を信じてくれなかった。どうしてもっと父を信じてくれなかった。どうしてもっと母を信じてくれなかった。
ミヤコ。
私は絶対に、お前だけは許さない。
引っ叩いてから、そんな罵倒をぶつけてやるつもりだった。
なのに。
ミヤコの、妹の、
『表情』を見たら、できなくなった。
ミヤコは泣いていなかった。
「お姉ちゃん。私もう、どんな表情したらいいのか……分からないよ」
ミヤコは笑っていた。
目からボロボロと涙を零して、ひっくと小さな嗚咽までしているのに、彼女は花のように笑っていた。ミレイは今まで、人がこんな風に笑うのを見たことがない。もちろんミヤコが、こんな顔をするのなんて見たこと無いし、想像だにしなかった。
だからだろうか。
あるいはそうではなく、久しぶりに『大好きだった妹』の、その壊れた姿を見てしまったからか。理由は分からない。
けれどもミレイは、気付けばミヤコを抱きしめていた。そして全身に彼女の温もりと匂いを感じた瞬間、もう止まらなくなった。
「お願いだミヤコ!! お願いだから! お願いだからお姉ちゃんのところに帰ってきて!!」
決して言うまいとしていた本音を、ミレイはここでぶちまけてしまった。
ついにこの物語も残り2話です。
どうか最後までお付き合いくださいませ^^