ルートミヤコ13:もう一人の自分
ポキポキポキと、気怠そうに骨を鳴らす音がする。
今しがた起きた、美月の冷水を掛けるような珍事。歴史の始まり。もしくは終わり。それの作った異質な空気を常温に戻すというか、あるいは弛緩させるような気の抜けた音。
ミレイとミヤコとジュンの三人が見やれば、そこには登場以降ずっと沈黙を守っていたシスターズの一人――神条桃花が、ストレッチをするように肩甲骨を伸ばしていた。
「さて。うちはそろそろお暇させてもらおかな。京太郎を呼んでこなあかんので」
彼女はまるで茶店から腰をあげるような軽々しさで言った。その口調と内容に、そんな無茶なと言いかけて、しかし絶句するように口をつぐんでしまったのはジュンである。
桜咲くメイド喫茶『ルーチェ』。科学療法の側面が強いこの仮想世界に踏み入れる条件は、現実では解決困難な悩みを持つことであり、立ち去る条件はその解決である。野次馬根性で入ることが出来なければ、野暮用で抜けることも出来ない。
それ故ここに招かれた以上、神条桃花もまた相応の悩みを持つはずであり、脱出の条件はやはりその解決となる。
それは桃花自身も承知しているはずなのに、いったい彼女はどういうつもりなのだろうか。
だというのに。
「……どうして?」
揺れるジュンの瞳の先で、伸びをしている神条桃花。その周囲は虹色の泡に包まれていた。つまり彼女はルーチェからの脱出を容認されているのだ。
ミヤコ、ミレイ、ジュン。三人の視線の気付いたのだろう、ポニーテールの少女はちらりと目を向ける。
「ん? あ~、これね。単純な話。どうもウチの悩みはルーチェに匙を投げられたっぽいわ」
それは信じられない言葉だった。
魔法を持ち出してでも解決した先輩と後輩の恋愛。世界を壊しかけてでも祝福した姉妹喧嘩。己を複製してでも吐露させた自分の本姓。桃花は、『そんなルーチェでも自分の悩みは無理だと言われた』と、そう言ったのだ。そしてその言葉を裏付けるように、今彼女はここから消えようとしている。
「待って桃花ちゃん! お願いだから話して!」
ジュンは宙空から転げるように地へ降り立ち、今まさに消えようとする彼女に駆け寄る。その表情は悲痛で必死で、まるですがりつくような惨めささえ漂っていた。
事実、ジュンはいまの桃花を容認できなかった。この世界に解決できない悩みなど、絶対にあってはならない。不老を願えど不死を願えど、それが誰かの救いになるなら、せめてこの世界だけはその希望をくみとらなくちゃならない。さもなくば、『世界』には絶対解決できない不幸があると証明されてしまう。
――そんなのダメ。
ジュンは駆け寄った。
解決できない不幸などない。解消できない悩みなどない。そんな絵空事を実現するために仮想世界は用意されたのだ。吐き出せないものを吐き出し、出来ないことをしてのけ、収まるものを収めるための、これはそういうお伽話じゃないか。
現実で無理なら理想でやればいい。
科学でダメなら魔法でやればいい。
そういう無茶を通してでも、この世界はそれを解決する。ここはそういう最後の救いでなくちゃならない。
――だから、桃花ちゃん。お願い。
「貴方の悩みを聞かせて!」
ジュンの指先が褐色の肩に触れるかというとき、神条桃花はこれまで一人にしかけ向けたことのない目でジュンを見た。
あ――、と。彼女は呪縛を受けたように動けなくなる。
ジュンはこの目を知っている。
それは扉越しに泣いている子供の目。微笑では繕い切れない、感情の裏から滲み出る穏やかな絶望。望んだところで絶対に手に入らないと知っている、貧窮の底で見上げた家庭の団欒。それを前に『うらやましいな』と静かに絶望する、孤児の目だ。
今ジュンは、それを真っ直ぐに向けられて動けなくなった。
そのとき目に写っていた彼女の瞳が、己の記憶にぴたりと被さったから。
ミヤコ。
そう、ミヤコ。
欠陥品だった己が、望みに望んでようやく手にすることが出来た我が子。一人前の母になれた証明。命を捨てても愛したいと誓えた、己以上の存在証明。あるときそれが我が子でないと知った。あるときその子の気持ちが壊れてしまったと知った。それが他でもない、他のだれでもない己のせいで。
覚えている。
その時私は、確かこんな瞳をしていなかったか。こんな目をして笑ていなかったか。
――こんなの、まるで私じゃない。
固まってしまったジュン。その内心を見透かしたのだろうか、桃花は悲しそうに笑った。
「それではジュンさん、ご機嫌よう。いつかまたお会いすることがあるかもしれませんね」
ただ京太郎にしか掛けたことのない口調で囁くと、桃花は幻のように消えてしまった。途端に、ジュンはその場で泣き崩れた。