ルートミヤコ3:早乙女ジュン
このような形が極めて不本意だったのは園田美雪もまた同様だった。だからこの土壇場に臨んでもなお、他の道はないものかと彼女の心は揺れたが、しかしその明晰な頭脳が既に『皆無』という結論を冷徹に下していたので、心に反して身体は淀みなく動いた。
無限に続く青空とその下で広がる花畑という、楽園とも言うべきその地に降り立った彼女の、その見た目こそ黒猫のように愛らしく柔らかで、そして艶めかしい出で立ちだったが、その手が握る抜き身の童子切安綱の冷たく鋭い事、それは見る者の心胆を例外なく震えあがらせる代物だった。
しかし彼女がその愛刀で紡ぐ神技とも称される『月下美人』は、周知の通り抜刀術である為に刃を繰り出すには例の朱塗りの鞘が不可欠である。しかしながら今、ミユキはそれを手にしておらず、その青白く光る刃を横に流すように構えていた。
「お、お姉様……。本当に……するんですか?」
と、花が自らを萎れさせるように悲しげな声を出したのは、ミユキの後で力が抜けたように座っているミヤコが、涙と共に零した声だった。ルーチェのエクレールのコスチュームに身を包んでいる彼女の座り込んだ様は、さながら地面に咲いた大きな花の様に美しく、しかし涙に濡れて儚げだった。
「ミヤコ」
振りむかぬまま、ミユキが名を呼んだ。
「私がお前の事を好きだと言った回数は自分でも覚えていない。何度そう思い、何度それを口にし、何度それを表現してお前を抱き締めた事か。けれども私はたったの一度として、それが真実のものだと伝えられた気がしなかった」
ミユキの眼前に、花畑と空の作る地平線に、それを埋めるほどの膨大な数量で以て、黒色の『ある存在』が、津波の様に広がって行く。
「けれども今回のことで、私がミヤコの事を思う気持ちを一欠片ぐらいは伝えられるかもしれないと、そう考えると。これは決して悪い事だとは思わない。……そうだろ?」
ミユキが切れ長の目を横に流すと、その先に。メイド長であるアヤが、ヴィクトリアンスタイルのエプロンドレスを揺らしながら中空から現れ、音も無く足を地に着けた。そして答える。
「そうね。まぁアタシとしてはそもそも出番少なかったからこれ単体でも嬉しいんだけど、でもやっぱりこうやってヒロイックなヒロインよろしく命懸けで好きな子を守って見たいよね?」
彼女はそして振り返り、オットリとした笑みをミヤコに浮かべた。その陽光の様に優しく力強い笑みはミヤコの心を照らし、そして暖かく包み込んだ。
「アヤお姉ちゃんに任せなさいよミヤコちゃん。いつも背伸びして一生懸命に可愛い子しなくてもね、ミヤコちゃんはただそれだけでも可愛いのよ?」
「アヤお姉ちゃん……」
ボロボロと、ミヤコの頬を涙が伝った。
「しかしアヤ」
ミユキの声。
「ここで刺さされば現実と同様に痛み、ここで打たれれば現実と同様に苦しみ、ここで血を吐けば現実と同様に意識が遠のく。いくらここが非現実だとは言え、この世界は限りなく現実に近い世界だ。……戦えるのか?」
埋め尽くしてくる『その黒い存在』から目を離さずミユキは言った。徐々に徐々にそれが近付いてくるに連れ、その姿が明らかになってくる。人型だ。ミユキは切っ先を向けて構える。
「戦えるのか、ですってユキたん?」
アヤはそう言って腕を正面に伸ばし、ぎゅっと握り拳を作った。そして解放するように掌を開くと、そこに青白い炎が吹き荒れて宿った。その様に思わずミユキが目をやって、アヤが視線を返す。
「ふふふ。こちとら演劇って言う非現実・仮想世界に明けて暮れてをもう十年以上やってるのよ? だからこんなのこそがむしろアタシの日常なわけよ。そ~んな大大先輩に対して、まぁユキたんったらオマセなことありゃしないわね」
そしてニっと笑ってから目線を正面に戻す。掌で揺らめく炎が勢いを増し、手を包むような球形にまで膨れると、ゆっくりと漂うようにユラユラと手を離れた。そしてそれは彼女の掌の先0.5m程のところで静止してから、突然前後から押しつぶされるようにして円形の大きな平板となった。続けてその青い炎の平面を後ろから突き破るようにして、鋭い先端を覗かせて出て来たのは、否妻を伴った豪奢な槍だった。
「……上々ね」
現れたその不可思議な槍の刃が出切ると、アヤは柄を掴んで一気に中空の青炎より引き抜いた。火花がスパーク。しかし彼女は臆さず一振りしてそれを払い、さらに頭上に掲げ、名を告げる。
「ガンゴニール!」
演劇で鍛えたその肺活量はまさに裂帛の様な掛け声を放ち、アヤはそのまま片足をあげてから身を捻り、
「今は全然出番ない弟シキ直伝!」
とか言いつつ彼女は距離200mというところに迫ったその大群に向け、鮮やかなフォームで投擲。槍はその身に螺旋の炎と稲妻を絡み付かせて凄まじい勢いで飛翔した。世界を引きちぎるような突風と眩い光が閃く。轟くような螺旋型の衝撃波数度。
三人が思わず身構えるころ、槍は既に黒い人型の波へ消えていた。
「……」
しかし。如何な槍が凄まじいとは言え所詮は一本。あの埋め尽くすかのような大群を前にどれ程のものというのか。ミユキは驚きの中でもそれが悔やまれるとばかりに表情がやや暗い。しかし対して、これを投げた本人であるアヤは自信を込めた、しかし彼女には珍しい戦闘的な笑みを浮かべて
「北欧神話によると、この神槍は狙ったものに投げたら絶対外れないらしいわよ」
そう言った。しかし例えアヤの言ったそのことが真実であったとしても、しかししかしこの人数である。一人をくじいたところでラチはあかない。依然戦局は圧倒的にこちらが不利である。そんなミユキの思いを読み取ったか、アヤは頷く。
「ふふふ。アタシが狙ったのは個人じゃなくてね、この群れ全体なの。さていったい結末はどうなるこ――」
ザン!
と。
彼女のセリフに割って入ったその音は、
視界一杯に青い密林が
瞬く間にそびえ立つ音だった。
さながら、青の壁一色。
何が起きたのか?
一瞬理解が不能だった。
「……」
しかししばらくして
理解が追いついた。
アヤは呟きを漏らした。
「…………うそ」
と。
ただ一言にせよ。
本人がそう言った。
否だったのだ。
断じて否だったのだ。
青くはあったが
それは決して密林では無かったのだ。
密林の様な密度と量で大地に突き立った
無数の青い槍だったのだ。
「…………」
アヤが投擲した、そのガンゴニールという名の槍は一本である。
しかし今、黒い人型を一人残らず刺し抜き、地を穿っているソレは無数だった。
ザン!
と。
再び音がして。
青い密林は地に飲み込まれるようにして消失し、
同時に黒い人型による屍の山が後に残された。
唖然としているアヤの前にしかし、再び青い炎が吹き荒れ、球形となって顕現した。次にそのまま先刻をなぞるかの様に炎は潰されたように平板となって、その中から、再び。
一本のガンゴニールが帰還の刃を覗かせた。
北欧神話の主神オーディンと共に伝えられた通り、この神槍ガンゴニールは投げた主の元に帰って来たのである。
「…………」
三人は絶句した。
アヤはおもむろに、再び。火花を散らす槍を引き抜き、その豪奢な文様をマジマジと見つめた。
やがて無表情に顔を、ミユキに向ける。ミユキは硬直していた。だからアヤは後ろを向く。後ろのミヤコも、硬直していた。
しばし思案する。
結論。
「もしかしてアタシが最強!?!?!?!?」
「そんなバカな!?!?!?」
ちょっと二人の友情に亀裂が入ったりしたが、しかしその数百倍の歓喜が二人を満たしたので抱きあった。ミヤコもそれに飛びついて三つ巴の抱擁になった。
それは遡ること一週間前の事である。
園田美雪は早乙女京の――否――後宮京の性格と生い立ちを考えれば、このような暴力に訴える方法ではなく平和的に話し合って、穏便に、円満に解決できればそれが最善だと思っていたので、だからその日、彼女は部活終了後にキョウタロウやミヤコに黙って単身教職員室を訪れ、ミヤコの母親を名乗る早乙女ジュンに話を着けに行ったのだった。
時刻は午後8時。
夜の校舎に入り、廊下を歩く。
照明は全て落とされているので、中は墨でも塗ったかのように暗い。
窓を通して見える、淡い月光に照らされたグランドの方がまだ明るいぐらいだった。
下足箱より吹いてくる風が階段や廊下を抜けて低く鳴る。
なんだかゾっとしない。
曲がり角を折れると、一室から明りが漏れている。
職員室だ。
どうやら早乙女ジュンは、園田美雪の話を聞くつもりはあるらしい。
ミユキはそのままそこへ進む。
「失礼致します」
扉を開けて中に入った。ガランとして、明りばかりが日中の様についたその部屋は、時間帯に不似合いでかえって薄気味悪かった。そしてそこで少女の様な天真爛漫な笑みを一人浮かべ、身の丈に合わぬ椅子に腰かけてミユキを迎えたジュンもまた同様、ミユキはどこか異質なズレを感じた。
「遅くまで生徒会の仕事ご苦労様ですね。え~っと確か柔道部に関する部費申請の件でしたね。専用の用紙が手前の棚に――」
と笑っている彼女に、ミユキは何かを無言で投げてよこした。カチャンと、それが彼女の机の上で音を立てる。
ジュンはそのやや乱暴な振る舞いに大きな目をパチクリとさせてから、その黒い小型の精密機器に目をやり
「あれあれ? これは何でしょうかね生徒会長さん?」
ミユキは目を眇めた。
「トボケないで下さい先生。貴方がヌイグルミに仕込んだものでしょうその盗聴機は?」
「?? 盗聴機? 一体何の話ですか? もしかして園田さんストーカーにでもあったんですか?」
言ってから目線をミユキに戻し
「もしそういう相談を先生にしにきたのであれば出来るだけ力になりやがりますよ?」
ミユキはそうして無垢な目を向け続けるジュンの瞳の奥に、ミヤコが時々浮かべる色を見て取って冷笑した。
「残念ですがストーカー被害には誰も遭いませんでしたね」
「残念? 残念? ん~、それはむしろ喜ばしいことじゃないんですか?」
ミユキはその問いには答えず、
「被害に遭うのは当初、八雲マリサの予定だったみたいですが、先にトウカがあのヌイグルミを手にできたのは幸いでした」
「ヌイグルミ? あれれ? 先生には話が見えないですよ?」
しかしさらにミユキは言う。
「それよりもですね、もしも私がこのストーカー被害について相談するとしたら、それは先生よりも警察の方が妥当だと思いませんか?」
「それは人によりけりじゃないでしょうかね~? デリケートな子なら警察そのものが怖くなって先生に話したりする子もいますし?」
「私や八雲がそのような生徒に見えますか先生?」
「さ~、人は見かけによりませんから」
ミユキがその言葉をどうとったのか、フフフ、と笑った。
「なぜ私がわざわざこの時間に人目を忍び、先に先生にこの話を持ちかけて来たのか。分りますよね?」
しかしジュンは相変わらずキョトンとした表情のまま、しかし考える様に天井を仰ぎながら
「ん~? そうですねぇ。まぁ八雲さんはファンクラブまであるぐらい人気のある生徒ですからストーカー被害に遭っても不思議はないですねぇ。それにそんな事が表沙汰になってしまったら彼女自身が精神的に傷付く可能性がありますし~、ん~それを危惧した園田さんが先に先生の元に相談に来たとしても~。不思議はないと先生は思いますねぇ」
そう言ってから、ニコリと笑った。
ただしその目は
「……マストビーってかい?」
腐敗した様に瞳が濁った、愛らしくもおぞましい笑みだった。
普通の思春期の学生が目にしたらそれこそトラウマになりかねない程の、濃密な狂気を内包したその笑みに、しかしミユキは毛ほども動じなかった。ただし冷静に理解する。
――ミヤコはこれにやられたのか。
と。
ジュンがその目を細めて頬を釣り上げ、狂気の濃さを増し、さらに足を組んで手摺に顎肘をついた。
「思ったより賢しいじゃん生徒会長?」
神経を逆なでするような声音が彼女の口から漏れた。化けの皮が剥がれたのだ。
「どうどうと銃刀法違反やってるからテッキリもう少しオツム緩いと思ってたんだからすっごい意外よ私? でもでもだからなに? だからなんなのかな? 盗聴を取り締まる刑法がないのはアンタぐらい賢かったら知ってるでしょ? あれを取り締まるには盗聴装置を設置しているところを現行犯で捕まえて、器物破損か家宅侵入で罪に問うしかないわけ。だからそうやって鬼の首取ったような顔してね、そんな意味のないガラクタを先生に持ってこられても、先生ひたすらに困るんどころかウザイんだけど~?」
と、黒塗りの向日葵の様な美醜の混濁した笑み。
今のジュンの表情は誰の目にも悪魔に見えた事だろう。
ただし
「確かに困るでしょうね早乙女先生」
この園田美雪を除いて。
「私が逆の立場ならそれ以上迂闊な事は言えませんが? まだその態度を貫きますか?」
そう言って、彼女はその長い黒髪をサラサラと流して余裕の笑みを浮かべた。ジュンが目を眇める。
「ん~?? その無根拠な自信はどっから湧いてるのかなぁ?」
「さぁ? ただ盗聴機を発見するのはいつでも盗聴機の専門家だと相場が決まっているもので」
そう言ってから彼女は、スーっと、今まで後手に隠し持っていたソレをジュンの前に見せた。そしてそれが何かを理解した時、彼女がやや一瞬動揺したように瞳を揺らした。
「録音機ですよ先生」
ミユキに言われ、ジュンは舌打ちした。彼女がここを訪れてからまだ自分は決定的な事は何も話していないが、しかし明らかに普段とは違う態度と声音で話していたので、これがもし露見すればジュンは学園で大層動き辛くなる。
「取引をしませんか?」
ミユキが小首を傾げた。
「私もこれが一切法的効力のないものだとは分っています。どうどうと銃刀法違反はやってるかもしれませんがその程度の知恵はありますので。けれどもこれに法的効力がなくとも武器になる事もまた分っているつもりです」
「武器? ふん、ふふふふ。そんな御粗末な記録に一体全体どんな攻撃能力があるって言うのかしら? 貴方こそ迂闊な事言えないわよね? 例えば何をしにここに来たのかとか聞いちゃっても良いのかしら?」
「それは先生が仰ったとおりですよ? 私は柔道部の主将として部費申請に関する書類を提出しに来ただけですが?」
「そう。ならそこに用紙があるからどうぞご自由に?」
「いいえもうこちらで準備しているので一度目を通して下さい」
そうして園田美雪はカバンを開けて、書類を笑顔で差し出した。ジュンはこれには何かあると警戒しつつも、それを平静を装って受け取って目を通す。
みるみるうちに、眉間に皺が寄った。
「…………何ですかコレは?」
顔が紅潮し、薄らと青筋までが額に浮いた。
「おい……。これのどこが、部費申請なんですか?」
最早怒りを隠そうともしないジュンの顔に、しかし依然ミユキは表情を変えずに言う。
「だから、部費申請に『関する』書類ですよ。申請時には部員全員の氏名記入が必要ですよね? 私含めて今は三人ばかりしかいませんが、そのうちの一人が戸籍を『早乙女京』と誤って登録されていたので『後宮京』に修正するための戸籍作成書類です」
空中を紙がビラビラと音を立てて舞った。
ジュンがそれを思い切りミユキに投げ返したのだ。
が、もちろんそれは空気抵抗によって彼女には届かず、二人の間の足元に散乱した。
「ハァ……ハァ……」
ジュンは肩で息をしていた。明らかに興奮し、取り乱している。
「返答は?」
再び首を傾げるミユキ。
「……見て、分らない?」
ジュンが憤怒を押し殺して言う。
「……あるいは、イエスに見えてんの?」
しかしミユキはそれに答えず、また圧されることもなく背を向け、扉に手をかけた。
「もしもその書類に納得いかないのなら先生、今投げ返した書類の中に入っている『特別優待券』を手にして貴方が喉から手が出るほど欲しい場所に来て下さい」
それがルーチェであることはジュンには良く分かった。そして同時に、この園田美雪が本気でミヤコを早乙女から切り離そうとしていることも、そしてミヤコが本当に後宮の人間であると嗅ぎつけた事も、ジュンには分った。
――――ふざけるなよ。
それは、させてはならない。
ミヤコは絶対に渡さない。
アレは私のものだ。
私だけのものだ。
「今日は……帰りなさい」
額に玉の様な汗を浮かべているジュンの言葉をどう取ったか、ミユキはただ一言、こう残して退室した。
「この件は私以外、まだ『裏』のトウカしか知りません」
扉の閉まる音。
静寂。
彼女の残した言葉の意味は分らなかったが、しかし、今はそんな事はどうでも良い。
「ハァ……。ハァ……」
目を閉じて深呼吸する。
視界にノイズ。
「……っぐ!」
椅子から崩れ、床に手を着いた。
大丈夫。
大丈夫だ。
放っておけば収まる。
いつものあれだ。
そっとしておけば、最後には消える。
視界にノイズ。
「……っぐ!」
大丈夫。
所詮これはただの記憶。
過去の出来事。
過ぎ去った出来事。
「怖くない」
ノイズのように、あの忌まわしい光景が蘇る。
「怖くないから」
自分に言い聞かせる。記憶が視界を浸食する恐怖に耐えるよう、震える体を落ち着かせるよう、言い聞かせる。
「怖く、ないから」
記憶が、再生される。
フラフラと歩く薄暗い廊下。
亡霊の様に揺れる自分。
幽鬼の様に漂う自分。
点滴の管を強引に抜いて、血が止まらない左腕。
――――どうして。どうして。
無意味な自問。
――――どうして。どうして。
止まらぬ嗚咽。
止まらぬ出血。
割れるように痛い頭。揺れる視界。
――――私の、。
酷く息が苦しい。朦朧とする。
――――私の、。
崩れそうになって壁に手をついたら、それが大きく振動して揺れた。壁ではない。
「はぁ…・はぁ……」
霞む目で見れば、しかし辛うじて分った。プラスチックの窓ガラスだった。
「……はぁ。……はぁ」
呼吸が乱れる。
意識がぶれる。
まだ薬がきいているのか。
と。
窓の奥に、二人の赤子が寝かされていた。
並んで健やかに、小さく、健気に、胸を動かしていた。
「ああ……」
それがあまりに可愛くて、
「ああ……」
それがあまりに愛おしくて、
「……ああううっ」
あまりに悔しくて、
あまりにも悲しくて、
齧りつく様に、
喰らいつく様に、
窓に張り付いて、
その寝顔を見ていた。
「ひっぐぅうう……うううう」
堪え切れずに、絞り出すように惨めな嗚咽が、自分の喉から漏れてきて、ズルズルとその場に崩れた。
どうして自分ばかりが、こうなるのか。
どうして自分ばかりが、こんな目にあうのか。
どうして自分ばかりが、こんなにも欠陥なのか。
女として欠陥なのか。
「ううううう……ううううう」
今回もまた、自分の中で。
育まれていた、希望が、消えた。
耐え抜いた痛みも
堪え抜いた不安も、
注ぎこんだ愛情も、
保ちづけた夢も、
みんなみんな、最後の最後に、
流れて消えた。
自分を真っ赤に染めて、
消えて行った。
「ひっぐぅうううう……」
何もかもを呪った。呪い抜いた人生だった。この世の全てを呪い、憎み、恨んだ。あらゆる不幸が、あらゆる災厄が、全てに振りまかれたら良いと思った。世界を作った神を殺してやろうと思った。自分を作った神も、引き裂いてやろうと思った。
「うぅうううう……うううう」
壊しうる全てを壊し、傷つけうる全てを傷つけ、何もかもを無茶苦茶に、滅茶苦茶と化してやろうと、数え切れないぐらい思った。けれども。
そんな自分が唯一、一度だけ、
あるいは、もしかしたら、
許せてしまうかもと。
そう思った事があった。
「ごめんなさい……本当に」
その人は抱いてくれた。
優しく愛してくれた。
欠陥があると知っても、受け入れてくれた。
「本当に……ごめんなさい」
だから応えたかった。
その人に。
その人の愛に。
その人の愛が確かなものだと、
――証明したかった。
自分の出来る、最大限で。
最高の、形で。
その為にだから、
あれだけ憎み抜いて、
これだけ呪い抜いた、
この世界と、
この自分とを作った神に、
神様に、
一度だけお願いした。
お腹を撫でながら。
――生まれてくる子が女の子なら、早乙女京にします。
――生まれてくる子が男の子なら、早乙女京一にします。
一生大切にします。
だからお願いです。
子供を下さい。
神様はそして、願いを叶えてくれた。
自分に、新たな命を宿してくれた。
それで全てが、報われた。
自分の全てが、世界の全てが、許してしまえた。一杯に感謝した。
でも、
いつも。
いつもいつも。
最後の最後に、神様は。
――やっぱり裏切った。
夢は夢に過ぎず、
希望は希望に過ぎず、
硬質な現実しか、
残酷な当たり前しか、
自分には残されなかった。
「……」
あるいはしかし、今度もまた、それらを呪えれば良かったのかもしれない。
憎めたら良かったのかもしれない。
でも
「…………もう、いいですか」
疲れたのだ。
無理なのだ。
これ以上はもう、
生きられない命を
作ることが出来ない。
「……いいですか」
茫洋と呟いて、病衣の袖に隠し持っていた――――果物ナイフを取り出して、手首に当てる。
「……メイビー?」
と、最後に口癖を呟いて、自分と自分以外の全てと決別しようとグイ――
声。
手が止まった。
どうしようもなく、心に響いた、今の音。もう一度だけ、もう一度。
えっと。
あれは――
「メイビー?」
呟くと。
「!」
また、聞こえた。
後ろだ。
ヨロヨロと立ち上がった。
そしてそこに目をやると、さっきに見えた、二人の――双子の赤ちゃん。
一人が、天使の様な愛らしさで、自分に。
微笑んでいた。
そこで、決壊した。
目から、信じられぬぐらいの涙が、決壊したように。溢れて、茫然とした。
名前が、
そのベッドの
頭元に記されていた
京、だった。
「……メイビー?」
天使が、また笑った。
笑った。
私に笑った。
私に笑ってくれた。
涙が、ボロボロと。
私は、そして。
天使の導きにあった。
それに従い、私は。傍の扉を開けた。
中に入って、私の天使。
抱きあげた。
なんて柔らかい。
なんて暖かい。
なんて温かい。
なんて。
なんて。
「……なんて」
言葉が出なかった。必要がなくて。あまりに陳腐で。あまりに語彙が足りなくて。だからただ泣いた。ただ泣いた。そしたら自分の涙が天使を濡らして、濡れた天使は心なしか悲しそうな――いけない!
「め、メイビー?」
また、天使が笑ってくれた。私に笑ってくれた。私に、私の天使が。
そう。
そうだった。
この子だ。
早乙女京は、この子じゃないか。
私は何を悲しんでいたのだろう。
私は何を憎んでいたのだろう。
「変な私ですね」
――後宮京
目ざわり何かが天使の右手に着いていたから、果物ナイフでそれを切った。
「ナイフ?」
ナイフ。どうして私は、こんな物騒なものを持っていたのだろうか? ――と、天使がぐずりだした。
「よしよしよし。良い子ですよ。ミヤコちゃん。メイビー? メイビー?」
天使がまた笑ってくれた。
私の心に幸せが咲いた。
「うふふふ。マストビー? 良い子ですね~?」
と、
いけないいけない。天使がこんな牢屋みたいなところにいたら。
「お外に行きましょうかミヤコちゃん? メイビー?」
そうして私は、私のミヤコを抱いて、その日のうちに、外の世界へ、希望の世界へと出て行った。
私の天使と一緒に。
「あはははははははははははははははは!!!!!」
この楽園めいた仮想世界に木霊す愉快にして不快な笑い声に、抱きあっていたミユキとアヤとミヤコは離れた。三人で周囲を見渡す。声はどこからした?
「たかが雑兵数万蹴散らした程度でそこまでハシャげるなんで流石は桜花学園の選りすぐりですね~!?!? 揃いも揃って目出た過ぎて私もうブチ切れ寸前ですよ本当にねぇ!!」
正体がどこにもない。まるで世界そのものが発しているかのように地が揺れ空気が振動し、その声は身体全体に響いてくる。ミユキとアヤは背中合わせになり、そしてその間にミヤコを挟んで庇うようにしつつも周囲に目をやる。
「このルーチェを使った特別優待というから一体全体どんなどんな趣向があるのかと期待してみれば、たかがメイド二人でお出迎えとかお客さん舐め腐ってないぃ??? ……て言うかそれ以前にさぁ……」
――母親なめんな?
その言葉が発せられた直後だった。
ガンゴニールにより刺し穿たれた無数の『黒の人型』達、それらによる屍の山が互いの輪郭を曖昧にし、まるで暖められたアイスクリームのようにどろどろと溶解し始め、泡をゴポゴポと吹きながら一体となっていた。
膨大な量となるその真っ黒な粘性液体は、さながら魔界より溢れた汚濁の海の様に広がり、じわじわとその闇色の裾を伸ばし、広げ、四方八方を侵食して行った。猛毒を孕んでいるのか、それに飲み込まれた草花は見る間見る間にしなだれて枯れ、最後は紫色の煙と共に蒸発していく。肉の腐ったような異様な臭気が三人のもとにも漂い、ミユキもアヤもミヤコも鼻口を抑えた。一体何なのだこれは? これもアヤのガンゴニール同様、早乙女ジュンの想像の産物と言うのだろうか。
低速ながらも確実に迫ってくる死の黒海の裾、花も草も触れるそばから酸に漬けられた様な音を発して腐り溶けて行く。
「一旦退くぞ!」
三人は後退を余儀なくされるも、しかし。それを見越していたとばかりにその黒海の両端は既に三人の遥か後方に回り込んでおり、下がろうと向きを変えたその三人の目線の先で、黒海が自身の左端と右端とを繋げ、溶けあった。
――――取り囲まれた。
「さ~~~てどうするのかなぁ今度はぁ!?」
早乙女ジュンの声。
「アヤちゃんだっけぇ?? さっさとその槍でも投げちゃえば~?? 私が保証してあげるけど絶対絶対当るわよこの海にぃ? けどまぁそれが何って感じな訳だけどさぁ?」
黒い鞭が放たれた、と思ってミユキが猛烈な速度で迫って来たそれをヤスツナで横薙ぎに一閃。するとしかし鞭を受けた途端に刃がドロリと溶けて愕然とし、切断したはずの鞭の先端が自身の右腕を打った時に焼けるような痛み。
「――――っ!!」
「お姉様!?」
突然膝をおって呻いたミユキにミヤコがすがりついた。そしてその原因であろう右上腕のその傷を見た時、彼女の顔が青ざめた。白い肩のすぐ下、そこがまるで強酸か熱油でも浴びせられたように皮膚が焦げ、赤く爛れていたのだ。しかしミユキはその痛みよりも、自分が絶対の信頼を置いていた愛刀が、童子切の二つ名を持つこの剣が、こうもあっさりと崩れた事に大きなショックを受けた。煙を今もあげ、燃え尽きた蝋燭の様に刃が溶け崩れている。岩山さえバターのように切り裂くこのヤスツナが――信じられない。見つめるミユキの瞳は揺れた。が、しかし。
「……」
今や柄しか残らぬその刀を、しかしミユキは握り締め、痛みを噛み殺すように奥歯をギリっと鳴らして立ち上がる。
そして
「大事ないさ、ミヤコ」
そう微笑んでからその目を、再び外へ。あの黒色へ。
正体は分っている。
黒い鞭に見えたのは、今や自分達を完全に取り囲んでいるこの腐った黒海より放たれた、一筋の飛沫に過ぎないのだ。
「お気に召したかしら~~~!? 私のキス~~!?」
ジュンの声。
「召そうと召すまいと味見が済んだ以上は今からお腹一杯食べてもらいますからねぇ~!?!?」
周囲の黒い死の海が、まるで上空から引っ張りあげられるようにぐんぐんとその高さをあげ、そびえ立ち、三人に暗い影を落とし始める。水柱一つで名刀の刃さえ溶かすこの得体の知れない液体が、もしもこの量で一挙に雪崩れ込んで来たら自分達はどうなる事か。アヤの頬に一筋の汗――。想像したくも無い。
「まだまだまだまだこんな程度で音はあげないでね~~!? ミユキちゃんにアヤちゃん~!? 母親から娘を取り上げるだけの覚悟がその程度だったなんて言われたら~~私例えここで100万回アンタらの顔にブっかけてやったところで腹の虫収まんね~からさぁ!?!?!? あはははははははははははははは!!」
狂い切った様な笑い声が汚濁の海から響いてきた。
カチカチカチと、歯の鳴る音がして、アヤが目をやると、ミヤコが震えていた。
「ミヤコちゃん……」
恐怖のあまり蝋燭の様に白くなった顔の、その目の焦点が合っていない――という表現は正しいのか。今やこの世界のどこを見渡しても、合わせる焦点など黒い粘液の壁しかありはしないのだから。そしてそんな彼女を再び守るようにして、背中合わせになるアヤとミユキ。二人の顔にはしかし焦燥の色が濃い。何か打開策はないか。背中合わせの二人は必死に考える。一縷の望みとしては、アヤが今手にしているその神槍をこの世界に生成したのと同じようにして、今度は防御用の何かをこの世界に生みだす事である。それこそ神の槍でさえこの世界が顕現を許すのなら、あるいは神の盾も許されるかも知れない。
「さ~て、果報は寝て待てなのかなぁ?」
呑気なセリフをアヤが言った。
「いや、先に自白しちゃうけどさぁ。さっきの槍ってイメージ掴むまで一ヵ月もかかったのよ。それも朝から晩まで超本気でやって。人知れず死ぬ気でやってね。だからその、……それ一本で時間的に手一杯だったわけ。はは」
笑ってから、ガクっと肩を落とす。
「……だから実はさっきのがアタシの切り札で、つまり。アタシにはこの槍しかもう使えるものがないのよね」
まさに一縷の望みさえ絶たれた、言葉通りの絶望である。
「ダメもとで投げて見ないか? さっきのような奇跡があるかもしれないぞ?」
ミユキが本当に気休めのようなことを言って流し目するも、しかしアヤは応じず「えへへ」と苦笑。
「これも白状しちゃうけどね。さっきアタシがあの雑兵数万だっけ? あれを槍で串刺しにしたとき自分でも驚いてたけど、実はあれイメージ通りなのよね。……ガンゴニールは敵の数が多いとき、それに応じて数を増やして対処するって言う、すご~く現実味のあるイメージ。その通りのね。でも……」
彼女はメガネの奥の目を左右に動かし、今尚せりあがって断崖の様にそびえていく死の黒壁を見やりながら
「こんなのを穿つイメージはちょっと厳しいかな。液体を刺し殺すって、どういうものなのよ?」
正直にそう言った。そして口には出さなかったが、アヤにとってもミユキの童子切安綱がヤラれたことは精神的にかなりショックだったのだ。これまで幾度も学園と学園生を完全完璧に守り抜いてきた神器が、わずか一発の攻撃も受け切れずに破壊され、そしてそれどころその使い手の心さえも折られた、そのさっきの信じられぬ光景に。
彼女はまた苦笑。
「だから、アタシにはもう切り札ないんだ……」
その消沈したかに見えた様子にミユキが
「アヤ、そう簡単に諦め」
「たらイヤよー!?!?!?!?!?!?!?」
唐突に吹きあがる紫煙に黒煙。蒸発音。異臭。
黒壁が一瞬にして三人を飲み込んだのだ。
そこに逃げる暇など一切なく、おろか叫ぶ間もなく、瞬きする時間さえあったのかも怪しい。事実として三人は今、強毒強酸の海に没していた。三人が三人とも全身にそれらを被っていた。アヤにもそれは防げなかったし、ミユキにもそれは防げなかった。ミヤコは言うべくもない――ミヤコの絶叫。
「あははははははははははははは!!」
をしかし、ジュンの笑い声が塗りつぶした。
「まずは一回目ですよおまえら~~!!! 残り99万9千9百99回残ってるから遠慮なんていらねーですよ~~!?!? あ~~もちろん私は自分の娘には手出ししてませんけれど二人にはもちろん容赦しちゃいね~~~からきっと目の前にはドロドロに溶け腐った」
爆ぜった。
四方八方に黒い汚濁が。
紫色の飛沫が。
腐敗が。
死臭が。
全てが。
木端微塵の、粉微塵に。
ちょうどまるで、中に爆薬でも仕込まれていたかのように、三人を飲み込んだそれが、爆音を伴って四散したのだ。
それもまた、飲み込んだ時と同様に一瞬の出来事。
光が再びそこに降り注ぎ、そして至極当然の結果として、それが露わになる。
大地に放射状の亀裂を生むほどの力で踏みしめられたその軸足は、今や長いドレススカートに隠されて。
その強力大力を伝える腰や背中は、今や緩やかなフリルの衣装に包まれて。
正拳の型に突き出された拳は、今やパーティーグローブに彩られて。
「空手に先手なしって、御存じ?」
実に優雅な声でそう言ってから白煙をあげる拳を納め、そして薔薇の飾りのついたハットの下、大きくカールされた赤毛のツインテールをサラっと払い。
「快感よね。迎撃って」
彼女はコバルトブルーの瞳を妖しく細めた。
モノクロで整えられたルーチェのコスチュームにあって、唯一艶やかな赤をあしらったカクテルドレスをコスチュームに持つ、真紅の破壊神。
ルーチェネーム『フィナンシェ』
本名は八雲マリサ。
そしてしかし今は何よりも。
「そんな感じの登場でまぁ、『姉さん』としては及第点かしらね? ミヤコちゃん?」
彼女は自分に腰にすがりついてワンワン泣いているミヤコの頭を撫でつつ、100万ドルの笑顔でそう言った。そして一方では
「お前は本当に人が悪いよアヤ。何が『アタシの切り札はもうない』だ?」
「うふふふ。別にウソは言ってないわよ? アタシの切り札がないなら他の皆の切り札を切ったら良いって、そんなカッチョイイセリフを言いかけたんだからさっきはね?」
とミユキとアヤが肩を並べて言い合っているその前では、つまりマリサとミヤコのすぐ後ろでは、つまりは『5人』の中央にいたのは。
「桜花祭でロミオとジュリエットが終わって、次に演劇の題目を北欧神話やギリシャ神話をテーマに選んだ理由ってこれだったんですか、アヤ先輩?」
その細腕を斜め上前方に掲げている、ミルフィーユのルーチェネームを持つ山之内陽動だった。アヤは問いに応える代わり、彼の掲げた掌の先に現れている、その直径10mは下らない巨大で半透明な橙色の円板――中に幾何学模様とギリシャ文字が描かれた壮大な魔法陣のようなそれに目をやりながら
「へ~~。ヨードーちゃんの中でイージスってそんなイメージなんだ。アタシもっとキラキラと神々しくて、それでいていかにも頑丈そうな巨大フライパンみたいなのを想像してたんだけど?」
そんなアホな、と内心マリサは突っ込んだが、しかしヨードーは割合に真剣な面持ちで、その泣き黒子のある切れ長の目をアヤに向け
「あらゆる災厄を防ぐ神の盾ですよね? その、金属盾だと熱や衝撃で曲がりそうなイメージがチラつきましたし、石盾だとヒビが入ったり割れそうな気がしましたし、というかそもそも金属も石も重くて自分には扱えないだろうなと思って、ならもう物理的な形はヤメにして概念的なものにしようと思いました」
彼の発想は、少なくとも今回の場合正しかった。
いかに神器・天下五剣・童子切と称された名刀さえも溶かす驚異的な強酸であれ、それがつまりそういう類の化学反応によって対象を破壊する以上、ヨードーの生成した『概念』という非物質は溶かし様がないからだ。
そしてそのイメージはしっかりとこの世界で機能し、あの黒海と彼女らの間に絶対不可侵の壁を築き、五人を無傷に守り抜いたのだ。
まずタイミング的には黒海が襲うほぼ直前に彼がこの世界に『接続』を完了して現れ、イージスを展開し、三人を守った。
そしてその後、ヨードーに続いてマリサも同様に『接続』して現れ、すぐさま得意技にして二つ名。『破城鎚』と畏怖される正拳でイージス諸共、内側から黒海を破壊したのだ。ちなみにミヤコはマリサが現れた瞬間に大泣きし、つまりジュンが黒海の中より聞いていた絶叫はそれである。
しかしながらあらゆる災厄を防ぐ全能の盾イージスが内側からとはいえ、マリサの一撃によって破壊された理由は如何なるものだろうか。満身の力を込めた彼女の一撃が、あまりにも強力無比だったからであろうか。否である。それは実に単純だった。まずそもそもイージスは壊されてなどいない。あくまで『概念』であるそれを壊す術は、いかに破壊神とも呼ばれるマリサでも持ち合わせていないのだ。ならばつまりどういうことか。それも至極単純。イージスはマリサに破壊されてはいないどころか、あの童子切安綱さえも溶かした死の海から逆に彼女の拳を『守護』していただけなのである。それによってマリサは、パーティーグローブに染みさえ作ることなくそれらを粉砕し得たのだ。
そんな無茶苦茶が罷り通るのだろうか。無論である。『全能』とはそういうものなのだから。
そしてそれに。
マリサの拳はイージスが払うべき『災厄』であるはずがないのだ。
イージスが守るべきものなのだ。
「残り99万9千9百99回でしたかしら?」
マリサの声。
「宜しいでしょう。残り99万9千9百99回を尽く破壊し尽くした後、記念すべき100万発目を叩きこんで差し上げますわ」
そしてついに早乙女ジュンの姿を、彼女は捉えたのだ。
「貴方のその歪んだ心にね?」
目線の先に、『彼女』はいた。