明日が入試な受験生の「いつも通り」
2月24日
多くの人にとって特別でも何でもない2024年の土曜日。少し特別なことがあるとすれば,今年は昨日の祝日からちょうど土日が重なって3連休になっている。親が運転を苦にしない程度の距離で旅行している家族や,日々の苦痛をいったん脳内から抹殺し趣味に徹夜で没頭する社会人たちがいるかもしれない。そんな大人たちにとって昔々の記憶である今日のことは,とうに忘れているだろう。
コン,コン,
「ひかる,まだ起きてるの?」
「最後,学校からもらったプリント目には通しときたくて...」
「明日は朝から頭働かせないといけないんだから,早く寝なさいよ。」
そんなことわかってる!声には出さず,心で叫んでしまっている。
母は気遣いいっぱいのゆっくりなスピードで,あまり音を立てずドアを閉めて出て行った。ここ1ヶ月ほどは色々なことに不安になったりイライラしたりして,小さく不快なことにも過敏に反応してしまう。今もプリントを確認し終えて寝るつもりでいるが,まったく眠れる気がしない。
2か月前までならスマホで動画を見たりゲームをしていたりする22時の今の時間,人生大一番の勝負を翌日に控えた僕は暗記科目である理科・社会の直前振り返りプリントに目を通している。
国公立大学入試 前期日程
世の多くの人たちは三連休最終日として明日を過ごすだろうが,僕たちには関係ない。明日が入試であるという事実がすべてである。僕も去年は大学入試の関係で部活動が休みになるからとはしゃいでいつもと同じ日常をすごしていたが,今年は違う。
なぜもっと勉強してこなかったのだ,という後悔は1ヶ月前に置いてきたばかりだが,とにかく明日がいつも通りの自分で何も起きず何も不運に巻き込まれずに終わることを祈っている。入試の前日まで来ると,もうあとはいつも通りの自分を出すだけだと開き直っている自分がいる。
「何も起きず,何も不運に巻き込まれず,いつも通りでいいんだ。」
ここ一週間ほどの,心を落ち着かせる呪文みたいなものだ。
相変わらず心臓はバクバク鳴っているし,忘れ物はないか試験会場までの道は大丈夫かなど不安なことは尽きない。どれだけ心に暗示をかけたとしても,たまに膝は勝手に震え始めるし,何もかも嫌になって叫びたくもなる。
お母さんは毎晩はちみつ入りのホットミルクで落ち着かせてくれたし,お父さんは志望大学の相談にいつも乗ってくれて遠い大学のオープンキャンパスにも休みを作ってついてきてくれた。親友とは一緒に第一志望の合格取ろうなって勉強を教えあった。僕が遠い大学を志望してほとんど同じ大学を志望する生徒が同じ高校にいないなか,学校の対策講座で同じ志望校であることを知ったキッカケに仲良くなった,証子ちゃんとも一緒に合格の約束をしている。
色んなプレッシャーが前日であるというのに,前日であるからか思い出される。
「いつも通りでいいんよ。なにもなくいつも通り,いつも通り。」
いつもどお...
コン,コン,
「なに!?ちょっと集中させてよ」
5分ほど前に来たばかりのかあさんに向けて,少し声を荒げてしまった。
「もっと,お母さんには優しくしておかないと後悔するよ?」
お母さんじゃない...
聞いたこともない声で,ドアのそばに立つ同い年くらいの女の子が少し笑いをこらえるように挨拶してきた。こっちは何が面白いのわからない。ここで君は誰?みたいなテンプレートの言葉は,ほんとに知らない人間が急に目の前に現れたときは出てこないことに気づく。
とにかく,かたまってしまった。
「なかなかのイケメンさんやん。からだ細いしひげ見えないし。」
え,知らんけど...。
「明日,大事な大事な試験なんでしょ?ごめんね,おつかい頼まれて来ちゃった。」
初対面でも,突然自分の部屋に現れても,ここまでなれなれしく接してきたら少し緊張も和らいだ。たぶん...いや,絶対それだけが原因ではない。
髪を後ろで束ねて上下ジャージ姿のラフな恰好で,口調もなれなれしさのなかに親しみもあった。大きな目だけど少し垂れていて,身長は150㎝くらいと小さくかなり自分的にタイプだとあとあと思ってしまうような容姿だが,なんだか落ち着けるのはそういう雰囲気を出している女の子だからだろう。
少し落ち着いてきたところで,テンプレートに追いつく。
「君は誰?おつかいって?」
「私はね~,,,とにかく遠いところから来たの」
ん?またまた,わからない。顔は日本人顔だし日本語も流暢だが,前もって決めていた文句を離しているようにも聞こえる.
「このままじゃ絶対,明日の試験でひかる君は失敗するから,話して来てって言われたの。」
...は?
相手を思いやるなら,試験前日の受験生に対して一番言ってはいけない類の言葉だぞ。なぜ僕の名前を知っているのかという疑問よりも,先にイライラが来てしまった。滑る,や,落ちるよりも直接的すぎるだろ。なにより...
「誰がそんなこと言ってんの?」
「んーー。ひかる君をとてもよく知る人...かな?」
なんだそれは。怪しすぎるだろ。
「ごめん。僕は今,めちゃめちゃ忙しいんよ。君が“大事な試験”って言ってたけど,明日は本当に人生が決まる一日なんだ。」
少しイライラしてきて,帰ってもらおうかと思った。どこにかは知らないが。
「でも,寝られないんでしょ?勉強中,脚も揺らしてガタガタだったじゃん。」
...事実として合って入るけど,この初対面の女相手に納得したくない,説明できないプライドが自分を黙らせる。
「明日,忘れ物をしないか。緊張でパニックにならないか。不安なんでしょ?」
「・・・証子ちゃんと同じ大学行きたいんでしょ??」
「なんで...」
なんで知ってんの?と驚きと少しの怖さで最後まで言葉が出てこなかった。
この場からとりあえず逃げて,外で作戦を考えようかとダッシュすようとしたとき
「20分ちょうだい!!20分だけ。20分経ったらここから出ていくから。」
すこし焦った様子で,訴えてきた。どうしても話したいことがあるらしい。いつもなら10分くらい話を聞こうかという気にもなるが
「え...,無理よ。明日受験だし,20分だって10分だって無駄にしたくない。今君と話したほうが,明日の試験失敗するよ。」
少し止めていた脚を再びドアに向かって動かす。
「待って待って!私と話すことで,ほんとに明日変われるから。10分だよ。」
詐欺師か何かかこの子は.そんなのは信じられないし,脚を止める気もない。
「やらない後悔よりやる後悔。...でしょ?」
え?なんでそれを?また,言葉は出ない。
やらない後悔よりやる後悔,ってのは,僕が高校生になっていつも意識している言葉だ。僕にとってレベルの高い今の志望校に出願したのも,この言葉の後押しがある。結構,きついところを女の子につかれた。
今,この言葉を裏切ってしまうと“いつも通りの自分”でなくなる気がした。いつも通りの自分から外れると,明日の試験が余計失敗してしまうと感じた。
「わかった。話聞くよ」
「ありがと!いいおまじないの言葉だね。」
女の子はわかっていたように柔らかく微笑んでいるが,おもしろくない。別に勝負をしていたわけではないのに負けた気がするというやつだ。
「でも20分経ったら,絶対に追い出すから。」
「オーケーオーケー。では...」
これまでの余裕ある柔らかい笑顔から,ほんの少しだけ真剣になった気がした。なにか彼女なりに勝負を仕掛けてくるのか。そんな中二病チックな妄想をしながら彼女の反応を見る。
「まずはじめに...」
彼女が話し出したとき,相手のペースに操られっぱなしなのがなにか気に食わず一言だけ言った。
「名前は?」
「え?......千代。言ってなかった?」
「言ってない。言ってない。君は,僕をよく知る人から名前とか僕の現状を詳しく教えてもらってるらしいけど。今んところ,君についての情報は見た目以外ゼロだよ。」
千代という名前なのか。僕が生きる現代にはあまり見かけない,すこし古風な感じが良い。
心の中でふむふむ名付け親にグータッチしていると。
「そんなことはいいから,アルバム見せて。20分しかないんでしょ?」
「アルバム?卒業式とかでもらうやつ?」
「違う違う!お母さんが,幼いころからのひかる君の写真を現像してまとめているやつ。2冊目から全部ね!」
千代は僕の母さんと仲が良いのか?
そこまで知っているなんて。
生まれたときから,小学校,中学校,高校となにかイベントがあるごとに撮られる写真が収められたアルバムがある。運動会や卒業式みたいなあるあるの写真たちだけでなく,部活の試合で負けたときや高校入試に落ちたときに笑えと無理やり撮られた写真もある。なぜだかは当たりまえに日常になってしまって聞いたことがない。
勉強机の隣にある本棚の一番下から3冊取り出した。アルバムは現在4冊あり,生まれてから小学校入学前まで,小学校,中学校,高校と時期で分かれている。2冊目からすべてということは,小学校入学以降すべての時期のアルバムを指す。
「まずはひかる君の小学生時代が写ったアルバムを見てみましょ。さぞ,かわいいんでしょ。」
「なんでそんな自慢げなんだよ。」
千代のイジりをかわし,小学生時代のアルバムを開く。小学校入学式に校門の前で両親と撮った写真から,そのアルバムは始まっていた。
「ほら,やっぱりかわいい!もう,純粋!って顔に書いてある。えっと今は・・・」
「今の顔見て黙るなよ。」
少しひねくれた部分も今の自分にはあるかもしれないが,人間みな6歳のころに比べたら純粋なんてどこかにおいてきただろ。中学校とかに...
「ひかる君,見て見て!『記念!鳥の糞がランドセルに着陸』だって」
「あ~これね。近所の友だちと一緒に登校してて,運悪く俺だけ当たったんだよ。そのあと,めちゃめちゃ馬鹿にされたの覚えてる。そんなのまで残ってんのか。」
なかなか懐かしい写真だ。馬鹿にされつつみんなで大笑いしたことを覚えてる。こんな思い出,アルバムを見返すまでは思い出す機会もなかったから,心のなかでそっと母さんに感謝を伝える。
「こっちは,『電車遅延で英検センターに電話!』だって」
「そうそう。いずれ英検は有利だからって,小学生ではじめて英検を受けに行こうとしたやつだよ。メチャ焦ったわ。どうにかなったからいいけど...。」
千代はそんなことを話しに来たのか?一応,千代もやりたいことがあるのだろうと,遠回しに牽制してみる。
「こんなこと話してたらすぐに20分経つよ?大丈夫?」
「お!優しいじゃん,ひかる君。大丈夫。大丈夫。」
なんかまた手の上で転がされた気分だ。なんか悔しかった気分が抑えられず,直接聞いてみる。
「僕は大丈夫だけど,なんでアルバムなんか見てんの?」
「ひかる君は,アンラッキーなことが多々ある少年だったんだなぁと。それを確認したかった。」
どういうことだ?人の不運を確かめに来たのか千代は。千代の考えが読めず,軌道修正はあきらめて流れを千代に任せる。あくまでも戦略的乗っかりだ。
「今もこんなアンラッキーなことあるの?」
「うん,たまにね。登校中の狭い道で犬にほえられたのにビクっとして反対側の壁にぶつかったり,傘持って行ってないのに雨降ったり...」
「二つめのは,ひかる君が天気予報見ないからでしょ!」
「それはごもっとも。」
「まあでも,相変わらずアンラッキー青年なんだね」
「そうらしい。」
こうして千代に強制的に思い出を振りかえされて,改めてたまにちっちゃな不運に合ってたな~と感じる。学校でネタになるものも多いからお得だけども。
「次は,ひかる君の中学生時代を見て見よう!!」
千代は床に広がるラグに座るのに疲れたのか,ベッドに腰掛ける。
「おいおい,そんな簡単に他人のベッド座っていいのかよ。」
「いいの,いいの。気にしない!」
気にするのはこっち側なんだが...そんな言葉もでないほど,千代の性格がなんとなくわかってきた。細かいことは気にしないタイプなのだろう。かわいいから許す,そう心でつぶやき讃える相手はすかさず僕を刺してくる。
「中学校のころのひかる君,自分かっこいいって思ってた人でしょ!顔に書いてる『俺,強い』って」
「おいおい。イジりが強いって。」
確かに中学入学当初,二つの小学校の卒業生たちが統合するのもあり,気合が入っていた。小学生時代に,ある程度,やんちゃやれる方だと自負していたし,相手小学校に負けたくなかったという少年心もある。そんな心ももうそろそろ,消えるんだけど。千代がページをめくり続けて手を止める。
「ひかる君,中1の7月からだいぶ雰囲気変わってるね。この部活の写真とか。」
「なんか,疲れたんだよね。頑張ることが。」
これまで明るくグイグイ来ていた千代も,ここではゆっくり待ってくれた。
「中学最初の体育祭で大失敗したんよ。足の速さには小学校から自信があって,中学でも見せつけてやろうかなってやる気だった。」
千代が静かにうなずきながら聞いてくれて,だれかわからない千代だからなのか,だれにも話したことないことも話しはじめてしまう。
「中学校でもみんなに力を見せたいなって思って,クラス対抗リレー立候補したんよ。同じ小学校の友だちに応援もされて,リレー選手になれた。それもアンカーにね。」
「かっこいいじゃん」
「そう思うやろ?自分も選ばれたことが嬉しかったし,誇ってた。でも,当日全然ダメやった。中身は全然そんな芯が強いような人間じゃなかったのに,当日は接戦のなか2位でバトンを受け取って...こけたね。緊張で空回りしてたんやと思う。バトン受け取るとき怖かったし。そのあとは,結果が最下位だったこと以外あんま覚えてない。」
「それで,こんなに自信無いような感じになったの?」
明るさが少し落ち着いたからといって、グイグイ来る姿勢は貫いてくるらしい。こんな人間、友達のなかでも少ないので逆に気持ちいい。
「それだけじゃないけど,それがはじまりやった。それまでは何も怖くなかったのに,失敗が怖くなって,なにを頑張ってもうまくいく気がしなくて...。盛大な中学デビューの失敗よ。」
「それからの中学は?」
「そのまま、ただただ雰囲気に流されつつ過ごしたね。それが何も考えずに楽だったし。何も考えず、何も挑戦しないから緊張することもない。男友達に乗せられてバレンタインチョコの数競ったこともあったね。ゼロやったけども」
話しながら冗談も言って笑えるくらいのエピソードにはなっている。
小学校の不運さもあったけど、思い出を振りかえるとなかなかにネガティブな側面もある小中学校時代らしい。当時は、ああ俺の中学時代終わったなって思ったけど、冗談言えるくらいの自分に戻って来られたのはありがたい。
「それからひかる君はずっとそんな感じなの?今はそんな風には見えないけど」
「時間が解決した部分もあるけれど、高校で春日と出会ったのが一番大きいと思う。斉藤春日って、入試勉強とか一緒にしてる男友達ね。」
ここからは僕にとって楽しい記憶しかない。中学でもみんないい人だったが、高校ではほんと出会いに恵まれたと思っている。
「じゃあ最後、高校時代のひかる君を見ましょ!」
棚から出したアルバムの3冊目を開く。始まりは高校入学式での写真。
「なんかひかる君と両親の服、ちょっと崩れてない?なんか顔も疲れているし。」
「電車遅延して、ダッシュで入学式向かったらこうなった。」
「不運はここでも継続中というわけね。やるじゃない!」
「なにが!」
アルバムのページをめくっていき、千代が手を止めたと思ったらイジりたいんだろうなって顔でまたこっちを見てきた。ついには、僕のベッドにうつ伏せで寝ころびながら。
「ひかる君とてもいい顔してるじゃん!これ文化祭?」
僕にとって大切な思い出の写真を、千代は指さす。春日と同じクラスになって初めての文化祭の写真だ。
「そそ。僕たちは演劇をやったんよ。春日はその主役。」
「春日君うまかったんだね。元気そうな雰囲気だしてるし。」
「元気なのは間違いないけど、演劇は散々にミスしてたよ。でも、楽しそうやった。緊張しててミスもみんなの予想通りって感じやったんやけど、止まらずに楽しくやってた。」
「それ、周りに怒られない?」
当然の反応だ。練習からなかなか上達しない春日に対して、周りはやんややんや言っていた。でも、成功させようと努力していたのはみんな知っていたし、何よりセリフを間違えていたり忘れていたりしても何とかアドリブでカバーしてストーリーを繋げていた。
「最初はもちろん、文化祭のクラス委員とかはじめ怒ってた。でも、春日は絶対ミスと分かっても止まらなかったし、周りのみんなも春日のアドリブにどう返して軌道修正しようかってなってたよ。」
さすがに、ストーリーの方向性を無視したアドリブ修正をしたときには怒られていたけれど...
「クラスメイトに恵まれたのはあったけど、春日見てると失敗で周りの目をメチャ気にしてる自分が少しどうでもよくなったんよ。だいたいの失敗は取り返せるかもって。」
今日一番、意地悪い顔で千代が聞いてきた
「明日の受験は?」
「それはまた別だろ。失敗しても取り返しづらいし。」
千代は、ちょっと期待外れのようなため息をつく。
でも、それはそうだ。受験はまた別の別。失敗してもう一度国公立を目指すとしたら1年間は、また日常が勉強の日々になる。春日との第一志望受かろうな!って決意も、証子ちゃんとの一緒の大学に行く約束も一年以上遅れることになる。
「千代は、このままじゃ入試に失敗するかもしれないって僕に、高校時代を思い出させようとしたの?」
それがもし本当だったら、あまりにも安易すぎる。
高校時代に春日と会って失敗が少し怖くなくなったのは事実だし、やらない後悔よりやる後悔って決めて、いろいろ小さな挑戦をしてきたのも確かだ。でも、それらの挑戦と明日の受験はくらべものにならない。
千代は黙っている。
千代が部屋に入ってくる前の、受験への焦りや不安が急によみがえってきた。時計を見ると、もう少しで20分が経過する。
「もうすぐで20分!明日は大切な日なんだよ。ごめん、用が済んだなら帰ってほしい。」
自分で言いつつ、なかなか冷たいことを言ってしまっているかもしれない。親しみがあってここまで話してしまったけれど、まったく知らない他人なんだから許されるはずだ。
少し大きな声になってしまいながら、千代を追い出そうと説得する。
「いつも通りの自分の日常に戻らせほしい。過去も思い出せて、いろんな経験あって今の自分がいることはなんとなくわかったよ。それは千代のおかげかもしれない。」
最悪な自分だとは思う。20分の時間を事前に千代に許しながら、今ではその20分が惜しいように思えて、焦りと不安が込みあがってくる。
「明日はいつも通りの自分でいることが大事なんだ。何も起きない、トラブルもない日常の自分でなら、自分の90%くらいの結果は出すことができる。もともとの能力的に余裕のない自分にとって、それが一番大事なんだ。だからいつも通りの自分に戻らせてくれ!」
「いつも通りって?」
黙っていた千代が、ゆっくりと大きな目で僕を見つめて尋ねてきた。
「いつも通りはいつも通りだろ。朝は寝坊せずに起きて、忘れ物をせずに家を出て、遅刻せずに会場に着く。そして何度も模試でシミュレーションしきたように、落ち着いて試験を受けきる。」
「でも、ひかる君のこれまでは不運続きだったし、緊張で大失敗した時もあったよ。」
...え?千代は、脅しに来ているのか?
「そんな縁起の悪いこと言うなよ。それじゃあ、明日なにか大失敗するみたいじゃないか。」
最悪なことを聞かされてしまった。このちょっとした発言は、受験前日の人間にとってとても重く、忘れたくても絶対に忘れられない。それをわかっていないんだ、千代は。
早く帰ってほしい。手をつかんで無理やりにでも手をつかもうとした瞬間、
「違う!」
僕の手を強く払い、千代は大きく息を吸う。
千代のいままでで一番の声の大きさと、1階からの「早く寝なさい!」って母の声で身体は固まってしまった。
「なにが起こったとしても、きっとそれは初めてのことじゃない。何も起きない、トラブルのなにもない日常が“いつも通り”なんて嘘だよ。」
「不運が重なることも、緊張で実力が発揮できないことも万が一であるかもしれない。そんなことこれまでたくさんあった人生なんだから。でも、それが不運になったからって緊張して手が動かないからって、そんな失敗よりも“いつも通り”じゃないからってパニックになって固まっちゃう方がよっぽど失敗だと私は思う。」
「その万が一が起きて、どうしようもなくなることもあるんだよ?」
「そのとき、どうしようもなくしてしまってるのはひかる君なんじゃない?これまでいろんなトラブルにあってきて、それがいつも通りだから、そのときそのときで解決したんでしょ。遅延したときは周りの人に頼ったし、緊張することも高校三年間の長い時間は使ったけどその緊張状態のなかでなりに頑張ることをしてきたはずだよ。」
「全部、全部、何が起きたってひかる君のいつも通りなんだ。だから、大丈夫。」
その言葉なのか、その優しくゆっくりな声なのか、支えてくれるような笑顔なのかわからない。
ただ僕のなかのイライラは消えていた。
「何が起きたって、僕のいつも通りか...。冷静にやばいこと言ってんな、千代。」
ちょっと意地悪をしてみたくなる心の余裕は戻ってきたらしい。一番のイレギュラーの元凶を問い詰める。
「今、ここに千代がいることはいつも通りじゃないんじゃない?」
こんな問い詰めでは、千代はノーダメージらしい。
「確かに、今はそれはそうかも。ひかる君の顔も優しくなったし、きっと明日の試験も大丈夫だね。おつかい終了ってことで、私は帰ります!」
「すごいマイペースだな~。でも、ありがと。ちょっとは楽になれたかも。試験終わったら、また会いに来てよ。連絡先も交換する?」
少し寂しそうに、でも初めに来た時のように笑顔と張り切った表情で答える。
「そんなの持ってないの!でも、絶対にまた会いに来る。それは“お互いの”約束ね!」
「お互いってなんだよ!絶対会いに来いよ。じゃ!」
千代はドアを出ていった。
さあ、明日は試験なんだ。忘れ物の確認だけでもしておこう。トラブルが起きるに越したことはないのだから。でも、今だからこれだけはしておこう
1階にそろりそろりと降りて、一緒にテレビを見る両親の間に黙って座った。
「どうしたの?ひかる。気持ち悪いくらいの笑顔よ」
「かあさん、息子に気持ち悪いって相変わらず過ぎるって!」
母さんと父さんの反応を軽く流して、スマホの内カメで三人の写真を撮る。
「これ、僕のアルバムの『試験前日記念』ね!」
これも、僕のいつも通り。
**************
「ただいま~パパ!ママ!」
明るい元気な声が部屋中に響き渡る。
「高校生のパパ怖かったよ~~。急に怒るししゃべるの時々早くなるし」
「しかたないよ。高校生男子はみんな、そんな感じかもしれないよ。ママ似の蘭ちゃんの前だったらなおさら?」
「また、蘭が調子乗っちゃうから駄目だよママ。若いころのパパは、なかなかイケメンだったんじゃない?蘭」
「パパとママの子供として私が生まれるように、仕事してきたよ!私ももうする受験だから日本史勉強してて、ちょっと複雑な名前でパパ救ってきたよ。」
「千代だろ!忘れたことないから。」