32 秘湯なんてなかった
「いった……落ちた……翼があるのにまた落ちた………」
「うぇー……なんかここ、美味しそうな匂いします」
リリーとトルカはばしゃんと大きな水音を立てて順に落下した。
落ちた先は温泉なのか生暖かい水たまりだ。
暗闇の中ぬるりとした感覚に目を凝らした。
「ひっ………これ……血!?」
赤い液体が手のひらを濡らしリリーは短く悲鳴を上げる。
「これ……トマトです!」
「何だトマトか………そんな事ある!?」
続いてヴィントとラーニッシュも降ってくる。
「何だこれ!?」
「トマトです」
「何だトマトか」
「トマト……!?」
全員で連呼していると急に照明がついて辺りが明るくなる。
「うーん……トマト?」
明るくなって見ると血とは明らかに違う、暖色系の鮮やかな赤。トマトだ。
首を傾げるリリーに辺りに浮いているものを真剣な顔で掴んでは確認して離し、掴んで確認しては離し…を続けていたトルカが叫んだ。
「たまねぎ……じゃがいも……その他野菜と魚介類……これは……立派なブイヤベースです!」
「……ブイヤベース……」
いまいちピンときていないヴィントとラーニッシュにあっ、スープのことです、とリリーが注釈を入れる。
スープのことです!?いったい何を説明しているんだ。
灰色の壁は温泉の壁ではなく、スープの鍋なのだろうか……?
「イキガイイ、ノガ、キタネ」
壁の向こうから声が聞こえたかと思うと巨大な黒い岩が動いた。
「え……ええっ!?」
混乱を極めるリリーの叫び声を聞いて灰色の髪の老婆はにっこりと目を細めて笑った。
老婆……ただし身長は洞窟内ぎりぎりで巨体を極め、黒い岩だと思っていたのは老婆の背中だったようだ。
「……入り口に武器を手放し下に落ちる幻覚系の魔法をかけたな?」
老婆を睨みつけるヴィントの横でラーニッシュがぺろっとスープを舐めた。
「舐めた!?嘘でしょ!?」
「おなか壊しますよ!?王様ぺっです!ぺっしてください!」
「何だこれめちゃくちゃ美味いぞ」
……全然締まらない。
下から強い熱気を感じ、辺りが熱を帯びて揺らめいて見える。
「に、煮られてます……!?」
「何勝手に人を具材にしてる!出せ!」
「うう……熱い……」
リリーは手のひらを握ったり開いたりしてみるが魔力の流れを全く感じない。
燃料装置の駆動音だと思っていた低い音は魔法そのものを制御するものなのかもしれない。
低い音が頭の中に響き渡って魔法を阻害する力を感じる。
「お前たち飛べないのか?」
「………魔法でシュッとしまうと、こう、パッと出すにも魔法がいる感じでして……」
困った顔でリリーが説明するとラーニッシュはだああ!と喚いた。
すると老婆から何かを投げつけられ、ラーニッシュはトルカをヴィントはリリーを庇ったが全員に硬いものが当たる。
「これは……」
半透明の白い塊。これは。
「塩です!」
「味付け整えられてる!?」
トルカの的確な指摘にリリーは半泣きで叫んだ。
「お前は何者だ」
「ゲンチミン、ダヨォ…オイシイモノガ、ダイスキナ、ネ………」
ヴィントの問いにヒヒヒと笑いながら答える巨大な老婆はなかなか迫力がある。
「やってきた獲物を煮込んで食べる丁寧な暮らしをする現地民がいるか!」
ラーニッシュの突っ込みにリリーは考える。丁寧な暮らし……確かに老婆のサイズからいって頭から獲物を丸呑みしててもおかしくはない。
……というか、考えている場合ではない!
「あ、あつい……本当に……」
「ぼくたち煮えちゃいますよお」
湯気が増す鍋の中はだんだんと温度が高くなり4人も息が荒い。
「あっ!」
ふいにリリーは叫んだ。
「何か思いついたか!?」
「これは……あれですね、エビとかカニみたいに、殻ごと煮込んで出汁をとるから食べる時に殻を外すんですね……だから私たち、服を着たまま……」
「錯乱するなー!」
今にも泣き出しそうなリリーの両肩を掴んでラーニッシュが揺する。
トルカは鍋肌を思いっきり殴りつけた。
「いたーい!熱い!けどこれ、武器も魔法もない以上素手でいくしかないですよね?」
「……4人で飲み干したらいいんじゃないか?」
トルカの案もラーニッシュの案も正気の沙汰ではない。
「この量!絶対無理ですって!」
リリーは言いながら鍋を蹴りつけた。熱い。
ガンゴン鈍い音を鳴り響かせながら鍋を攻撃していると、
「エェイウルサイネ、オトナシクスルンダヨ!」
老婆は声を張り上げると巨大なレードルで鍋をかき混ぜた。
引き起こされる大波に飲まれそうになるも、リリーは必死でレードルに飛びついて登りかかった。
波に乗って鍋の縁まで上がったヴィントに向かって老婆はレードルを振り回し、リリーをヴィントにぶつけて鍋の縁から内側に落とす。もうめちゃくちゃだ。
「お前の目的は何だ!」
老婆に叫ぶヴィントはリリーに囁く。
「適当に話しかけて気を引くんだ」
老婆の死角でラーニッシュが鍋の縁に上がる事に成功して更に上まで登りかかっている。
「これ、あの、その、えーと!入り口の灰色のうさぎさんはお仲間ですか!?」
気を引くように言われても咄嗟に出てこない。
「ケムクジャラハマズイカラネェ……」
「私たちにもそれなりに生えてますけど!?」
「ドラゴンヲタベタ、ヤツハマズイ、シカシエタチシキガトテモヨカッタ……ニンゲン、ウマイ」
「ドラゴン……?」
来る途中の壁画には赤いドラゴンが描かれていた。
まさか食べてしまったのだろうか?
「ウウウウ…………」
老婆は唸り声をあげて体を屈める。
「な、何か……大きくなってません……?」
巨体が更に膨らんだかと思うと土壁に背中が擦れる程肥大化している。
「ウウウウ……チカラ…………」
呻きながら老婆は闇雲に手を伸ばし、リリーとヴィントを纏めて掴みかける。
すかさずトルカが老婆の指に取りつき反対側に逸らした。
苦痛の叫び声と共に緩まる手のひらから二人とも逃げ出した。




