かえりみち
殺人的な夏の陽射しが降り注ぐ。
住宅街を通る細道。
車が通るには難しい道幅で人の往来も少ないこの道に。
最近めっきり数が減ってしまったミンミン蝉の声が響いていた。
クマ蝉の声は無く、最近希少な独唱に耳を傾けて歩くバイトからの帰り道。
なぜだか出所不明の郷愁が沸き上がってきて、自分の中の子供が泣いてるような気がしてくる。
泣き出したくなるような気持ちに堪えながら、忘れた頃に前後からすれ違う危険な速度で駆ける自転車ライダーに気を配った。
あいつらは人通りが少なく車も通らないからと不必要にペダルを漕いでいる。
そのまま歩きなれたブロック舗装の細道を進み続けていると、なぜだか左の民家の壁から突きだしている枝が妙に気になり私は足を止めた。
するとそれを見計らったかのように枝は私の目の前で乾いた音を鳴らして脱落する。
危ないと身をすくめるが、枝はすぐ下の壁の縁に当たり先端が美しい円を描いてブロック舗装の道に叩きつけられる派手な動きをしても。
飛び散る細枝の一つも私に危害を加えようとはしない。
しかし、ちょうど前方から来る自転車ライダーの道を塞ぐ形で枝が横たわってしまった。
本当の狙いはこれだったのかと思う前に慌てた悲鳴が聞こえてくる。
「うわっ」
声を上げたのは自転車ライダーだ。
突然現れた歪で長く、太い部分は野球のバットくらいはありそうな枝を前輪で踏みつけるのを躊躇したのか、ハンドルを慌てて切り返し、私から見て右方向へと殆ど速度を落とさず曲がっていく。
「うわっわっあぁぁ~」
情けない悲鳴。
自転車が倒れたのだろう。
大きな音が壁越しに聞こえる。
私は、何か違和感を感じて躊躇したが、枝を跨ぐと彼が曲がっていった道を覗きこんだ。
「ぶふっ」
その行動と、私の位置から15歩程度離れた場所で倒れた自転車を起こそうとしていたライダーのサイクリングスーツのお尻が勢いよく破けるのは同時だった。
なんということだろう。
頑丈そうな生地だと言うのにパックリと左右に避けた生地は内着までも道連れにして、白い地肌をまだまだ日が高い世間の白日に晒している。
「ぶふっ!くっほっほっ!」
私に大ウケだ。
笑うなと言われても難しい。
決して大きかった訳じゃない笑い声が止める間も無く閑静な住宅街に浸透していった。
真っ赤な顔で振り向いてワナワナと震える自転車ライダーの様子を見るにハッキリと聞こえてしまったのだろう。
本当に申し訳ない。
声に出して謝罪しようとするが間に合わず、彼は慌てて自転車を押しながら道の奥へと走っていく。
しかし、彼は10歩ほど奥に道を進んだ曲がり角で唐突に足を止めた。
「んっ?」
トマトのように真っ赤だった彼の顔は普通の色に戻り、代わりに猫が何か知らないものを見つけて動きを止めたみたいな顔つきで曲がり角の先を見つめていた。
「動きまで猫みたいだ」
抜き足、差し足、忍び足。非常にゆっくりと慎重に、それでいて何かに引き寄せられるように確実に、自転車ライダーは曲がり角の奥へと進んでいき、ついには見えなくなってしまう。
彼の足音も自転車を押す音も聞こえなくなり、ミンミン蝉の独唱だけが耳に聞こえる。
その奇妙な様子に3分ほど呆けていた私だったが、彼が一体何を曲がり角の先で見たのか気になり、踏み込もうとしたが。
再び強烈な違和感を感じた私は慌てて踏み出した足を引っ込めた。
どんくさいことにバランスを崩して倒れそうになりその場で尻餅をついてしまう。
「あっつ……なんだこの道」
慌ててブロック舗装に着いた手。伝わってくる道の暑さに驚くも、それよりも違和感の正体に気づいて周囲の気温が下がったのかと思うほど血の気が引いた。
私が歩いていたこの道はほぼ一本道である。途中には十字路が一つあるだけで、それはまだ先。
こんな横道は今まで一度も見たことがない。
「か、えり、み、ち……?」
尻餅をついて低くなった視線が見上げた先に道路標識があった。何十年もそこに立っていたと言わんばかりに錆びだらけで元の色がわからない。
形だけ見れば、赤い菱形の中央に【止まれ】とかかれたよく見る道路標識に見えるが。
見慣れた形の中央には【かえりみち】と平仮名で書いているように見える酷く歪で不気味な文字が赤茶色の錆の上に浮かんでいた。
文字の間が不自然に空いている。
元々は違う文だったように見えた。
「帰り道で帰り道を見つけてしまった?」
「あの、大丈夫ですか?」
「うわっ!」
声をかけられて驚き、顔を上げると自転車ライダーが近くで止まって私を身を下ろしていた。
私は謎の【かえりみち】に魅せられていたようで全く気づかなかった。
曲がり角に消えた彼かと一瞬思うが、消えたのは青と黒のサイクリングスーツだったが、話しかけてきたのは黄色と黒のサイクリングスーツで明らかに別人だ。
「あ、いや、その、大丈夫です」
「良かった日射病かと思いましたよ……本当に大丈夫ですか?」
良い人そうである。
私の言葉を素直に信じ、それでも心配になって再度声をかけてくれている。
大したことないとアピールするために立ち上がって衣服の砂ぼこりを払い落とす振りをした。
着用しているベストに突っ込んでいた暑さ対策の三分の一ほど飲んでいるスポーツドリンクのペットボトルを見せる。
「あー急に枝が目の前に降ってきたんで慌てて避けようとして転んじゃったんですよ。日射病とかじゃないです」
ついでに聞かれてもいないのに小さな嘘をついて座っていた理由を説明をする。
「えぇ、怪我とか大丈夫でしたか」
「大丈夫です、ご心配お掛けしました」
お互い愛想笑いを浮かべながら「いえいえ」「どーもどーも」と繰り返した後、彼は軽く周囲を見回してこう訪ねてきた。
「あの、この道で友人を見ませんでしたか?青と黒のサイクリングスーツを着て自転車に乗っている男なんですけど」
「あぁ、その人なら……」
私は迷いなく【かえりみち】を指差した。
「そちらの道に入るのを見ましたよ」
指差した方向に道があった事に酷く驚いた様子だった黄黒の自転車ライダーは、私に礼を言うとその道をなんの疑いもなく進むと。
曲がり角に差し掛かった所で、先に入った彼の友人と全く同じ表情になった。
辺りはミンミン蝉の鳴き声が聞こえ続けている。
不審なモノを見た猫のように、自転車から降りてゆっくりと慎重に足を進める彼には、探していた友人と再会した様子は微塵も無い。
私は曲がり角の先に消えていくその背中を見ながら呟いた。
「誰も来なかったら次にあの表情になるのは私か」