第1話
「その縁談、絶対にお断りです!」
伯爵家の書斎に、ロザリンドの叫びが響き渡った。
ロザリンドの父である伯爵は眉を下げ、弱り切った表情で愛娘を見つめている。
「でもね、ロザリィ。その縁談の相手は王弟殿下なんだよ?」
「王弟殿下だからこそ、お断りなんです! いいですか、お父様。我が国の王弟殿下といえば、その身分にあぐらをかいているポンコツですよ? あんなろくでなしの夫を持つくらいなら、修道院に行った方がましです!」
「それは困るよ、ロザリィ。君はこの伯爵家の一人娘なんだから……」
そう、ロザリンドは一人娘。
いずれ婿をとってこの伯爵家を継いでいかなければならないことくらい、ロザリンドも分かっている。
でも、その結婚相手が悪い噂の絶えない王弟殿下というのは、いくらなんでも納得できなかった。
王弟殿下は二十五歳。ずっと女遊びに夢中だった男が急に結婚だなんて。しかもロザリンドとはろくに会話もしたことがないというのに。
怪しい。怪しすぎる。
「とにかく、王弟殿下と結婚なんて絶対に嫌です。お断りしてください!」
腰に手を当てて、ふんっと鼻息荒く言い放つ。その勢いで、自慢の長い紅髪がふわりと揺れた。
父は意見を変えようとしない娘に、遠慮がちに言ってくる。
「でも、ロザリィももう十七歳だ。そろそろ結婚を考えてもいい年齢だよ?」
「それはそうですけど」
「君に想い人がいるというのなら、しかたがないけれど。そうじゃないなら、一度王弟殿下と会ってみるのもいいんじゃないかな? ほら、ロザリィは美人で可愛らしいからきっと愛してもらえるよ」
ダメだ。どうやら父は王弟殿下との縁談を前向きに考えているらしい。
(どうしよう、このままじゃ王弟殿下との見合いをセッティングされてしまう……)
そうなったら、なし崩しに結婚させられてしまいそうだ。
あの王弟殿下のことだ。結婚後もどうせ女遊びを繰り返し、厄介ごとを巻き起こすのだろう。
そんなの嫌だ。面倒臭い。絶対にお断りだ。
何が何でも父にこの縁談を断ってもらわなくてはならないと、ぐるぐる考え込んでいたロザリンドだったけれど。
ここで、はっと目を見開く。
「お父様。私に想い人がいたら、王弟殿下との縁談は断ってくださるのですか?」
「え? うん。ロザリィは大切な一人娘だからね。好きな人がいるなら、その気持ちは大事にしてあげたいと思っているよ」
ロザリンドはぐっと拳を握り、勝利を確信した。
「あの、お父様。実は私、ある男性に片想いをしているんです!」
「な、なんだって? 可愛いロザリィの心を奪ったのは、一体誰だというんだい?」
「それは……」
誰の名前を出そうか。
とりあえず、恋愛や結婚に興味のなさそうな男性がいいだろう。
そう考えてパッと思いついたのは、ロザリンドの家庭教師である無愛想な青年の顔だった。
「えっと、ガーライル先生です!」
「なっ! それは本当かい?」
「はい。私、ガーライル先生のことが大好きなんです。だから、王弟殿下とは結婚したくありません」
「そうか……そうだったのか……」
父はロザリンドを優しい目で見つめ、うんうんと頷いた。
「そういうことなら、しかたないね。分かった、王弟殿下との縁談はお断りしよう」
「ありがとうございます、お父様!」
ロザリンドはパッと顔を輝かせ、父に抱き着いた。
これでよし。
王家からの縁談を断るなんてすごく大変だろうけど、こう見えて父は意外と有能な策士だと言われているし、きっと何とかしてくれるはずだ。
(ああ、よかった。結婚なんてまだ早いと思ってたし、本当にほっとしちゃった)
好きな人がいると嘘をついてしまったことは、少し心苦しい。
けれど、それも折を見て「気持ちが冷めた」とでも言っておけばいい。
それで万事解決。何もなかったことにできる。
ロザリンドは自分の考えた完璧な計画に、満足げに笑みをこぼした。
けれど、次の日。
屋敷にやって来た家庭教師のガーライルと顔を合わせた瞬間、ロザリンドは自分の計画が甘かったことを痛感してしまう。
「ロザリンド嬢。君が俺に懸想していると耳にしたんだが」
「ひょっ?」
「俺は今まで君の気持ちに全く気付いていなかった。すまない。これからは君の想いに応えられるよう、俺も努力しようと思う」
いつも無愛想で感情の見えない青年は、真面目な顔でそう宣言した。
「せ、先生? あの、私の気持ちって……?」
「君の父である伯爵から聞かせてもらった。俺のことが好きで好きでたまらなくて、結婚するなら俺とじゃないと嫌なんだろう?」
「えええええっ?」
なんか勝手に話が盛られている。
いつ、誰が、どこでそんなことを言った。
勉強部屋として割り当てられた一室。
机を挟んで向かい合わせに座っているロザリンドとガーライル。
何とも言えない珍妙な空気が二人の間に流れる。
「俺も君との仲を深めるにやぶさかでないと思っていた」
「やぶさか? 先生、言葉の意味が分かりません」
「……つまり、俺も君と仲良くなりたいと思っていたということだ」
(いやいやいや、待って待って。あなた、そういうキャラでしたっけ?)
ガーライルが家庭教師としてこの屋敷に来るようになって、一年が経つ。
けれど、勉強以外の雑談だって一度もしたことがないし、ましてや恋愛的な雰囲気になることなんて天地がひっくり返ってもなさそうだったのに。
これは一体どういうことだ。
混乱するロザリンドに、ガーライルが真面目な顔を崩すことなく言ってくる。
「まずは君を愛称で呼ぶことにしようか。……いいね、ロザリィ?」
耳に心地よい低音で愛称を呼ばれ、ロザリンドは思わずガーライルを凝視してしまった。
ガーライルはロザリンドより五つ年上の二十二歳。
少しクセのある黒髪が、切れ長の青い瞳をわずかに隠している。けれど、よく見れば、その瞳がロザリンドをまっすぐに見つめていることが分かる。
思わずどきりと心臓が跳ね、慌てて目線を逸らして彼の服装を観察してしまう。
清潔感のあるブラウスに濃いグレーのウエストコート。胸元を飾る白いクラバットは青色のピンで留められている。
家庭教師らしい落ち着きのある衣装は、大人っぽい彼によく似合っていた。
そういえば、彼が本やノートを指さす時の、その長い指や大きな手のひらが男らしくていいなと何度か見惚れてしまったことがある。立ち姿も、姿勢が良いので凛々しく見えるなと思っていたのだ。
(……ん? 先生って、実はかっこいい?)
いつも真面目な顔で無愛想にしているから、気付いていなかったけれど。
改めて考えてみると、普通に美青年な気がしてきた。
美青年がロザリンドのことを愛称で呼んだ。その新事実に気付いたとたん、ロザリンドの顔が一気に熱くなる。
「せせせ、先生! あの、お、お手洗いが私を呼んでいます! 行ってきていいですかっ?」
「ん、ああ。行ってくるといい」
ロザリンドはぺこりと頭を下げると、ドレスの裾を翻してその場から逃げ出した。
廊下の窓から初夏の生温い風が吹き、ロザリンドの頬を撫でていく。
(ど、どうしよう。これはまずいことになったかもしれない……!)