真夜中のラジオ体操
「おやすみ、和美」
「おやすみなさい、あなた」
コーヒーの香りが漂うリビングのソファで、僕は和美とくちづけを交わした。彼女は僕の頬をなでると、満足そうに微笑んでリビングを去っていった。唇にわずかなぬくもりを残して。
波江田和美。彼女と出会ったのは駅前の喫茶店だった。
僕がイヤホンでラジオを聴いていると、少し離れた席にも同じようにラジオを聴く女性が座っていた。その女性は番組の出演者がジョークを言うと、僕と同じタイミングで笑顔になる。彼女もそんな僕に気づいた。それをきっかけに話を弾ませて、たびたび待ち合わせるようになって……いつしかイヤホンの片方を共有する仲になっていた。
婚姻届は来週の二月十三日に提出する予定だ。その日は世界ラジオデーと呼ばれている。ラジオをきっかけに知り合った僕達にはふさわしい記念日と言えよう。和美も最近は特に機嫌が良く、当日を楽しみにしているのが伝わる。
だというのに和美は、今日も夜を一緒に過ごしてくれない。彼女の仕事は朝が早いから仕方ないのだが、僕を起こしては悪いからと同じベッドにも寝てくれない。
僕は寂しくなった唇をコーヒーカップで温めてから、テーブルの上のラジオをソファの肘かけに置いた。
こんなときはラジオに限る。たとえ一人きりでも、番組の出演者やリスナー達が、自分と同じ時間を過ごしているのだと実感させてくれるから。
ラジオのスイッチを押すと、ザァァァァァァ……という耳ざわりなノイズが耳の中をかきむしってくる。僕はこの音が嫌いだ。逆に和美は落ち着くらしい。
今日は贔屓の番組がない。そんな日は適当に気になった番組を聴くことにしている。周波数を合わせる作業に入った。ダイヤルを微調整し、ノイズまじりの音質をクリアにしていく。
聴こえてきたのは、低音で物静かな男の声。どうやらホラー系の番組らしく、ちょうどリスナーから送られた怖い話を読むコーナーが始まるらしい。
冬に聴くホラーも乙なものだ。僕はソファに身をゆだねて、男の語りに耳をかたむけた――
●●●
これは私が交番のお巡りさんをしていた頃の話です。
その日の私は、深夜の住宅地を自転車で警らしていました。町はすっかり寝静まり、道端のセミを踏んだときの断末魔がいやに響いたのをよく覚えています。
そろそろ交番に戻ろうかというとき、公園の向こう側に意外な人物を発見しました。電灯に照らされたのは一瞬でしたが、「く」の字に曲がった姿勢が特徴的でした。近所の団地に住むおばあさんで間違いありません。
名前は吉岡さん。愛想の良い人なのですが、足腰が弱いらしく、いつも腰を曲げて歩いています。いつだったか、彼女の手を引いて横断歩道を渡ったこともありました。
そんな体の弱いご婦人が、深夜の町を歩いている……。私は認知症を疑いました。
認知症は記憶力が著しく低下する症状で、近所を歩いても迷子になることがあるそうです。また、時間間隔が狂って突発的に外出することもあるのだとか。実際、交番にはその手の捜索要請がよく届きます。
しかし、今回に限っては見当違いだとわかりました。
なぜなら彼女は、暗い夜道を迷う素振りもなく、木々で囲われた敷地に足を踏み入れたのですから。
そこにあるのは、町内会で使われる小さな集会所です。
吉岡さんの後をつけると、集会所の玄関ドア付近で姿が消えました。
果たして、集会所では何が行われているのか。警察官の使命……というより好奇心に突き動かされた私は、敷地の中へ入りました。
土に残った足跡からして、複数人がいる模様。私は集会所の裏手に回り、室外機にそっと乗って、小窓から内部をのぞきます。
室内は真っ暗でした。物音もありません。室外機も稼働していないので、集会所は蒸し風呂になっているはずです。
吉岡さんたちはサウナ大会でも開いているのか。冗談まじりで考えていると、雲間から月がのぞいたのでしょう、室内にかすかな光が差します。
私は腰を抜かしそうになりました。
室内には十数人の人影がずらりと並んでいたのです。
驚愕しているのも束の間、
ザァァァァァァ……
と、豪雨に似た響きが室内で鳴り始めました。
ノイズです。交番でこっそりラジオを聴くことがあるのでピンときました。おそらく何者かがラジオのダイヤルを回し、目当ての周波数に調整しているのでしょう。
それにしても、どうしてこんな時間に、こんな場所で。いますぐ問いただすか、事が起きるまで様子を見るか。私は思いあぐねていました。
そうしている間に、
ザァァァァァァ……
というノイズが、
ジャアァァァァ……
という響きに変化しました。テレビの砂嵐よりもザラザラした音質で、聞いているとなぜだか妙な焦りが湧きます。
正直なところ、この時点で私は逃げ腰でした。そのときです。
人影たちが、一斉に両腕を上げました。
さらに、上げた腕を左右へ半円を描くように下ろします。これを何度か繰り返しました。
私が息をのむ間にも、彼らの動きが別のパターンに次々と変わっていきます。
頭部を上下左右に振る……。
跳躍しながら四肢を左右に開く……。
上体を前に折り曲げ、後ろにそらす……。
謎の動きを眺めているうち、私は気づきました。
これはラジオ体操ではないか、と。
ラジオの前で皆が同じ挙動を取るというのは、ラジオ体操を置いて他にありません。しかし一つの謎が解けると、さらなる謎が浮かびます。
なぜ深夜に、ノイズを聞きながら、ラジオ体操をしているのか。
頭が混乱して動けずにいる私と、それに気づかずラジオ体操を行う人影達。はたから見れば異常な光景でしょう。
しかし本当の異常事態は、ほどなくして起こります。
人影の一人が、跳躍する寸前にピタっと動かなくなりました。
また一人、動きが止まりました。腰に手を当て、上体を大きくそらしたまま。
少しして、また一人。今度は腿上げの途中で。
そうしてまた一人、また一人と動かなくなっていきます。
最初に静止した人影が、小刻みに震え始めました。二人目と三人目もです。遅れて四人目も続きます。
不安定な姿勢で動きを止めれば、震えがくるのは当然のこと。何とも間抜けな光景に見えます。しかし私は叫びたくて仕方ありませんでした。
なぜなら彼らの震えが、痙攣に変わったのですから。
まるで体内に何かがいて、外に出ようと藻掻いているかのように。
恐ろしい妄想に駆り立てられたとき、汗が室外機に落ちたらしく、わずかに音を立てました。
直後、一番手前の人影が、ぐりんと頭部を回します。
目があった途端、私は室外機から足を踏み外し、地面に尻もちをつきました。
逃げないと。そう思って顔を上げると、月明かりに照らされた視界に、悪夢の光景が広がっていました。
集会所の壁面に浮かぶ、無数の茶色い斑点。
すべてがセミの幼虫でした。
おびただしい数の幼虫が、集会所の壁を埋め尽くさんと張りついていたのです。
私は自分の声とは思えない悲鳴を発して逃げ出しました。地面から這い出てくる幼虫の群れを踏みつけながら。
それから一週間、私は体調不良で職務を休むことになります。
その間は毎晩同じ悪夢にうなされました。
自分のお腹から、ジャアァァァァ……というノイズが聞こえる夢です。だんだんお腹の中がかゆくなってきます。かきむしっても治まりません。
もう耐えられない。
そう思った瞬間、お腹が裂けてセミの幼虫が大量にあふれてくる……そんな内容です。
このままでは悪夢に殺されてしまう。
私は病み上がりの体に鞭を打って、吉岡さんを訪ねることにしました。あの日見た光景が、何かの勘違いであってほしいと願いながら。
セミの声が薄れた日暮れ前に団地へ向かうと、吉岡さんはいつものように腰を曲げ、老婦人と団地の前でおしゃべりをしていました。
老婦人が私に手招きしました。私服でも私が警察官だと気づいたのでしょう。私は緊張しながら世間話に加わることになりました。
それに対して吉岡さんの反応は……いつもと変わりませんでした。私の仕事ぶりを労ってくれたり、時折つぼみがほころんだような笑顔を見せてくれます。
するといつしか、私の中にわだかまる悪感情は霧散していました。集会所での一件はきっと、お年寄りの趣味が高じた何らかの活動なのだろう。大したことではない。そう納得できるほどに。
日が沈んだ頃、老婦人が別れのあいさつをして去っていきました。私も吉岡さんにあいさつをし、軽い足取りで家路に向かいます。
その背中に、
「お巡りさん」
と、吉岡さんの声がかかります。
振り向いて、血の気が引きました。
吉岡さんが、あんなに曲がっていた体を直立させています。
そして、人差し指を唇に当てていたのです。
無表情で。
その顔はあの夜、集会所で目が合った人影のものでした。
後ずさった私の視界に、信じられない光景が映ります。
団地の五階、そのベランダに佇む男が、指を口元に当てています。二階にもいました。三階にも二人。
脱兎のごとく私は逃走しました。目的地は自宅よりも安全な交番です。その間、遊歩道を歩く人が、公園で遊ぶ子供の一人が、タバコ屋のおばあさんが、吉岡さん達と同じ姿勢を取ってこちらを見つめていました。
私は脇目も振らずに横断歩道を駆けます。しかし、その途中で足が動かなくなりました。
横断歩道の先にある交番。そのデスクに座る警察官が、じっと私を見ていたからです。生気のない目で、人差し指を唇に当てながら。
後日、私は警察官を辞職しました。いまは家業を継いでいます。一応は、無事です。
それにしても、彼らは集会所で何をしていたのか。
結論から言えば、彼らは羽化をしたかったのではないか、と考えています。
集会所で彼らが痙攣したとき、私はあの体の中に何かがいると感じました。その何かが出てきやすいよう、ラジオ体操で外側の体をほぐしていたのではないでしょうか。
突拍子もない話なのは承知の上で続けます。集会所の壁面を覆っていたセミの幼虫とは『羽化』が共通点になります。それに、ラジオのノイズとセミの鳴き声は、音の質がどことなく似ていると思いませんか。耳ざわりな点が特に。
彼らとセミ、そしてラジオとの間には、何かしらの繋がりがあるのかもしれません。しかし、それを探られたくはないようです。
彼らは、いまも私を見張っています。
あるときは洋服屋のレジに立つ店員が。
あるときは通り過ぎる電車の車窓から。
あるときは旅行先で撮った写真の中に。
私が気を抜いた頃、彼らは姿を現すのです。
他言無用を表現するかのごとく、人差し指を唇に当てて。
では、なぜ私はその禁をやぶり、この番組に体験談を送ったのか。
やはり、元来の好奇心なのでしょう。恐怖よりも興味が先立ってしまうのです。
ということで、一ヶ月ごとにレポを送りたいと思います。私の身に何が起きるのか、はたまた何も起きないのか。楽しみにしてくだされば幸いです。
それでは。
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『えー、いかがだったでしょうか。ラジオネーム【冬のヒグラシ】さんからいただきました、[不気味なラジオ体操]というお話でした。実はこの話、前にも読んだんですよ。覚えてるリスナーさんもいらっしゃいますよね。で、当時はレポをお待ちしていますと締めくくったんですが、半年経っても音沙汰がなく……。もしかしたら、冬のヒグラシさんに何かあったんじゃないかと思って――』
パーソナリティの男が話し終わる前に、僕はラジオを切った。冬だというのに全身がしっとり汗ばんでいる。胸の奥がざわつく。まるでノイズが響いているかのように。
ここまで話に聴き入ってしまったのは、怖かったからではない。
思い当たる節があるからだ。
僕は寝つきがとても良く、布団に入ればすぐ眠れるし、朝まで目が覚めることもない。けれど、たまには深夜に目覚めることもある。その日は酒の飲み過ぎでトイレが近かった。
用を足して和美の部屋を通り過ぎる際、ふと彼女の寝顔を見たいと思った。朝が早い彼女を起こさないよう、細心の注意を払ってドアを開けたのだが、
「入ってこないで!」
和美の怒鳴り声が真っ暗な部屋から飛んだ。その声にまじって妙な音を聞いた記憶がある。それこそ先の話にあった、
ジャアァァァァ……
とでもいうような不快音だ。ベッドに戻ってからも寒気と鳥肌が止まらなかった。
あんなに怒った和美は初めてで、今日まで何も聞けずじまいだった。けれど、いまは気になって仕方ない。
あの音は、何だったのか……。
乾いた喉を冷めたコーヒーで湿らせる。
落ち着きのない手はテレビのリモコンをつかんだ。
電源ボタンに指をかける。
その指がかたまった。
黒い画面には、僕と、ソファと、真後ろに和美が映っていた。
無表情で、人差し指を唇に当てながら。