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エッセイ

死の恐怖と断見

作者: 七宝

 勤勉なキリシタンや仏教徒の方は不快に思う内容がかもしれません。ご注意ください。また、筆者の不安を吐き出しているだけなので、生産性はありません。日記みたいなものです。

 私は『死』というものが怖い。周りの人間より強くそう感じているはずだ。昼夜問わず基本的に恐怖しているからだ。


 こういったことを『タナトフォビア』とか『死恐怖症』と言ったりするが、自分以外でそういう人間に出会ったことがない。


 私は常に恐怖しているので、どんな時でも怯えているが、ここまでの人間は他にいるのだろうか。冒頭で『死』が怖いと言ったが、具体的には『自分の死』が怖い。他人の死が怖くないわけではないが、自分の死は段違いに怖い。


 死ぬということはどういうことか。死ぬまでにはどんなことが起こるのか。死んだらどうなるのか。これらを考えたことがないという人間は恐らくいないだろう。だが、毎日怯えている訳でもない。


 親や友達に『死』は怖くないかと聞くと高確率で


「中学生くらいの時は寝る時によくそういうこと考えてたなぁ」


 と返ってくる。おいおい、超人か? それとも私が中学生なのか? 私は全然中学生ではないのに、めちゃめちゃに怖い。そこで自分がタナトフォビアだと気がついたのだ。


 もしあなたもタナトフォビアだとしたら、怖いと思う理由はなんだろうか。死ぬ時にどんな痛みを感じるか、この先の世を見届けることが出来ない、愛する人と会えなくなってしまう、など様々な理由があるだろう。


 私は正直これらはそこまで怖くはない。愛する人と会えなくなることはとても悲しいが、その人たちがこれからも生きていってくれると思えば、そこまで恐怖は感じない。遺された人の気持ちを考えない自分本位な考え方だが、今回はあくまで自分にとっての話なので、ご容赦願いたい。


 あなた方は両親に『死んだらどうなるか』ということを聞いたことがあるだろうか。恐らくほとんどの人が聞いたことがあると答えるだろう。どんな答えが返ってきただろうか。


 私の場合、母には天国に行けると言われ、父には全部消えると言われた。母は仏教に熱心な人間だったため、そういう考えを持っているのだろうが、え、天国なんだ。となった記憶がある。極楽ではないのかと。


 父は現実主義者だった。仏教でいえば断滅論者(だんめつろんじゃ)というものになる。これは断見(だんけん)(死んだら無になる)という考え方をする人のことをいい、仏教においては間違いだとされている。


 私は完全に父の考え方と同じだった。天国や地獄なんてあるわけがないと思っている。つまり、私は人は死ぬと無になると思っているのだ。だから死ぬのが怖い。


 私は常に怖い怖い言っているのだが、そう言っているとよく宗教を勧められる。知り合いにキリスト教徒はいないので、キリスト教を勧めてくるのは家に訪問してくるエホバの証人しかいない。暇な時は話を聞いたりするが、どうも自分には合わないと思ってしまう。


 仏教はわりとみんなに勧められる。仏教を学べば死んだらどうなるか分かるよ、死ぬことが怖くなくなるよ、阿頼耶識がどうのこうの、むしろ幸福だよ、と言うのです。心が弱っている人ほど信じてしまうのではないか。


 私は基本的に人を信じないので勧誘には乗らないのだが、正直自分が弱っている時にそうやって言われたら(すが)りたくなると思う。恐らく弱っていて信じやすい人が入信するのだろうが、私はそれをとても羨ましく思う。


 人を信じられる心というのは素晴らしいもので、私にはないものだ。そういった人たちは仏教の教えを聞いて、死の恐怖を克服して生きていくのだろう。私もそうでありたかった。断滅論者なんてむなしすぎる。


 私は仏教が好きだ。しかし私は本当に完全な無宗教で、1ミリも信じていない。でも好きだ。用語がカッコイイからだ。用語を学ぶために仏教の知識を入れることはあったが、信じるには至らない。これは勝手に自分で調べているからだろう。正式なところで教えを受ければ自分が疑っているものも理解することが出来るかもしれない。


 私は、死んだあとは無ではない、という仏教の考え方は完全にウソだと思っている。信者たちは死ぬ瞬間まで騙されたまま生きていくのだと思っている。だが、それが羨ましい。(何回それ言う)


 彼らが教えを本気にしているかしていないかは分からないが、それのおかげで強く生きられる人がいるわけだ。宗教はその手段なのだろう。マジで羨ましい。(最後にします)


 記憶喪失になれば心がピュアになって入信出来るかもしれないと思い、壁に頭を打ち付けたこともあった。しかし、記憶喪失になることはなかった。というか、そこまでやると下手したら死んでしまうかもしれないのでやめた。


 宗教以外で死を克服できる方法を知りたい。現状私が思いついていることは『サイボーグになる』ということだけだ。あれ、でもこれって、死なのでは⋯⋯? じゃあ1つも思いついてないです。すみません。


 普段はうんことしっこときんたましか言葉を発さない私だが、それが死の恐怖の克服に効果的な気がしている。ふざけている時は不思議と怖くない気がするのだ。


 口笛を吹いてみてほしい。その状態で将来の不安を感じることは出来るだろうか。死の恐怖を感じることは出来るだろうか。私は出来ない。口笛を吹くと楽しい。え? 口笛が吹けないって? それは知らん。


 そういうわけで、今は私は徹底的にふざけることにしている。現実でもここでもどんな時でも何をするときでも。ふざけてさえいれば、その間は不安が消えるのだから。

 すみません、嘘です。私がいつもふざけているのは、私がそういう人間だからです。理由があってふざけてるとか、そんな悲しい背景が⋯⋯! とかではないです。非情冷血サイボーグが人を殺して回るのと同じくらい自然なことです。

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― 新着の感想 ―
[一言] 死ぬのが怖いと思ったのは小学生までで、しかも「怖い」と思うと同時に「誰も経験したことがない世界に死んだら行くのか!逆にちょっと楽しみ!!」となってしまい、そのまま大人になってしまいました………
[良い点] 私は自分の作品で何度か書いてますが、死にとり憑かれてるんですよね。 例えば、車にひかれそうになるとか、死にそうな目にあえば怖いんですが、この怖い 「痛い目にあうのが嫌」な怖いなんですよ。…
[一言] お釈迦様も、タナトフォビアだった様ですよ。それもかなり重度の。それを克服する為に頑張って考えたのが根本仏教だって、家の庭に不法侵入して来た猫が言ってます。猫大長老様の部下だと思います。何とか…
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