2.守りたいものを守るために
小雨ちゃんを見送ってからしばらく。なんとなく真っすぐ帰る気になれなくて、夕日が沈んでしまった山の向こうをわたしはずっと見つめていた。考えることは本当に些細なことだ。それなのに、なぜか憂鬱だった。
(どうした、相棒。何か気がかりなことでもあるのか?)
なんでもないんです。ただ、胸騒ぎがして。
(胸騒ぎか……。どうも、そなたの心は単純なようでややこしい。寄生している我ですら読み解けそうにない)
そうでしょうね。わたしだって分からないくらいだもの。
(ふうむ、我には難しいようだ。特に年頃の女子の気持ちってやつはな)
本当に、難しい。わたしの気持ちも、そして小雨ちゃんの気持ちも、だ。
小雨ちゃんは本当に楽しめていたのだろうか。さっきまで一緒だったのに、なんだか遠い世界の人のように思えてしまっている。別れ際の言葉だって妙に引っかかった。
どうしてだろう。
好きだよって言ってくれたのに、嬉しかったはずなのに、どうして不安な気持ちになってしまうのだろう。
来年も、再来年も、その何年先であろうと、これからもずっと一緒にいようってそう約束しているはずなのに、どうして不安が消えないのだろう。
(マナ……)
寄り添うような竜の声が聞こえてきたちょうどその時、生暖かい風が背後から吹いてきた。自然の風ではない。真っ先にそう気づくことが出来た。振り返ってみれば、そこには思っていた通りの人物がいた。
翼を失った山羊角の女──透である。
「久しぶりだな」
相変わらず、淡々とした口調で彼女は声をかけてきた。話してはならない。その忠告を胸にとどめ、わたしは唇を閉ざした。だが、透は気にしていないようだ。一方的に会話を続けようとする。
「ずっと見ていたよ。立派なものだ。天狗たちの言いなりにならず、助けたいものを助けた。その姿に他の怪獣たちも感銘を受けている。素晴らしいことだよ、マナ。君ならいつかこの町の神にだってなれるだろう。本来あるべき姿に」
本来あるべき姿。
そんな言葉なんてまともに受け取ってはいけない。
透の理想とするものと、わたしが理想とするものが重なっているようには思えない。彼女についていくよりも、天狗たちに協力していた方がいいはずだ。……そのはずだ。
(我はそなたに従おう)
竜の声が聞こえてくる。
わたしは何も答えずに、ただ心を落ち着かせようともがいていた。
「天狗の顔色をまだ窺うのか。犬神を……月夜を救うことのできた君が」
透は言った。
「その必要はないのだとよく分かったはずだ。ただ素直に従っていれば、守れなかったはずだ。君の大切な人たちの心、そして命を」
その点では、反論できなかった。
どうして、わたしは天狗に逆らう形で月夜を救えたのだろうか。思い出してみれば、やはり、透の言葉が頭に残っていたからだと認めざるを得ない。
天狗たちのやり方に全く疑問を抱いていなかったら、あのように動くことが出来ていただろうか。非常な現実をそれでも覆せるのだという自信や希望がなかったら、あのように動けただろうか。
「天狗たちに従えば、君はまた困難に直面する。葛藤を抱き、君自身の心もやがて潰れてしまうだろう。それならばいっそ、君は君の信じる空を飛ぶのだ。それがあるべき姿。あるがままの姿のはず。君はその力を君自身のために使うべきだ。天狗たちのためではない」
話してはいけない。
その忠告を忘れたわけではない。
でも、わたしは透を見つめ、気づけば口を開いていた。
「あなたの忠告が役に立ったのは認めます。でも、天狗さんたちと敵対する気にはなれません」
「なぜだい? 天狗が怖いのか?」
「そうかもしれません。でも、それだけじゃありません。わたしはきっと、天狗さんたちにも納得してほしいんです。分かってくれようとしている人もいる。何も誰かと敵対しなくたって、求める理想にたどり着けるはずだって……そう思うんです」
甘い考えだろうか。そうかもしれない。
何せ、わたしはまだ十六歳。酸いも甘いも噛み分けられるほどの経験なんてない。この一年は信じられないくらい激動の年だったけれども、天狗たちだって、透だって、そんなわたしとは比べ物にならないほど長く生きて、長くこの世界を見つめてきたはずだ。
それでも、だからと言って、はじめから決めつけることなんて出来なかった。そんなことは無理だと言って払い除けようとする大人たちの意見を鵜呑みになんて出来ない。自分の目で、確かめなくては。
「そうか。君には君の理想があるということだね。残念なことだが、それならば仕方ない。しかし、これだけは告げておこう。君は間もなく、これまでにない困難と向き合うことになる。その時こそ、運命の分かれ道だ。私は何度でも言っておくよ。完全に目覚めつつある偉大な竜が、いつまでも天狗なんかの言いなりになる必要はないのだと」
言いたいことだけ言ってしまうと、透は西風に紛れるように消えてしまった。
彼女の声の余韻を前に何とも言えない心境で立ち尽くしていたその時、入れ替わるようにパッと私のそばに別の者が出現した。
バタ子だ。
『よかった。やっぱりここにいたのね』
「どうしたの、バタ子?」
表情の読めない蝶々の姿ながら、その声には揺らぐ感情のようなものが感じ取れた。ただならぬ様子に不穏を感じる私に対し、バタ子は切羽詰まった声で告げた。
『今すぐ来て。大変なの』




