4.山羊の角を持つ者
初仕事を無事に終え、心霊スポットともおさらばできる事もあり、わたしの足取りもだいぶ軽かった。
今後の事を考えると憂鬱になりそうだが、今は忘れよう。とにかく宝石を藍さんに届ければ、今日のところは解放してもらえる。
そうとなれば、バタ子との雑談タイムすら時間が惜しかった。
『んもう、マナったらせっかちさん。もうちょっとゆっくりしようよ』
「ゆっくりするにしても、藍さんのところに戻ってからにしよう」
『あら、いいの? せっかく管理者の方から許可を頂いているのに。本当に見れちゃうかもしれないのに~』
「それが嫌だからだよっ!」
軽く言い争いながら玄関まで急ぎ、命からがら外に出てみれば、すでにもう暗くなりかけていた。一刻も早くここから離れたい。
『まあまあ、落ち着いて。アタシが一緒なんだからさ』
こちらがイラっと来るくらい軽い口調でバタ子はそう言った。
だが、その苛立ちも、すぐさま鎮火されてしまった。想定外の第三者の声によって。
「そうだ。そんなに急ぐことない」
急に聞こえてきたその女性の声に、わたしもバタ子も固まってしまった。数秒遅れで慌てて辺りを見渡してみれば、道端にさり気なくその声の主は立っていた。
一見すれば普通の女性に見える。だが、よくよく見てみると得も言われぬ独特な気配をまとっている。ひょっとして天狗の一人なのだろうか。そう思うような、言葉にならないオーラを感じる姿だった。それでいて、藍さんを思い出せば印象が薄い。色々な意味で不思議な女性だった。
「誰……?」
頭に浮かんだ疑問をそのまま口に出した直後、バタ子が慌てた様子でわたしの前へと飛び出した。
『何をしに来たの、透!』
その瞬間、謎の女性の姿に異変が生じた。さっきまでただの人間と変わらない姿をしていたのに、突然、その頭に立派な山羊の角が生えたのだ。
透。その名前を何となくわたしは頭の中に入れた。
あまり友好的な相手ではないことが、バタ子の口調一つで理解できた。
何だか嫌な感じだ。果たして、わたしは笑顔で帰ることが出来るだろうか。このまま穏便に事が運べばいいのだけれど。
「そう喚くな。私は争いに来たのではない。マナ、といったね。おめでとう、君は偉大な存在に選ばれた。その力をどう使うかは君次第。天狗様に協力するも、そっぽを向くも、君自身が決めていい。君は自由だ。それを忘れるな」
『マナに話しかけないで』
そう言って、バタ子は威嚇する。目の光をカチカチとさせるも、脅しにすらなっていない。一方でわたしの方も、すっかり困惑してしまっていた。
この透という女性がバタ子の敵であるならば、わたしにとってもきっといい存在ではないだろう。しかし、だからと言って武器を出してそれを構えるという度胸がなかった。
何故だか知らないけれど、この透という女性にむやみに歯向かわない方がいいような、そんな気がしてしまったのだ。
「その機械蝶々の言葉に耳を傾けるかどうかも君次第。そして、私の言葉に耳を傾けるかどうかも君次第だ、マナ」
『ああ、もう! こうなったら通報しちゃうんだから。もしもし、もしもし、誰か聞こえる?』
バタ子が騒ぐのも気にせずに、透はわたし達へと近寄ってきた。
逃げることも、睨むことも出来ず、わたしはただ茫然としたまま彼女を見つめていた。綺麗な人だ。やっぱり雰囲気は藍さんに似ている。この人も天狗なのではないだろうか。そう思う雰囲気だ。
「いいかい、マナ。君は今や誇り高き怪獣。その心臓に宿るレッドドラゴンのハートには、人間一人ひとりの命とは比べ物にならないほど偉大な力が宿っている。君がその気ならば、この大地の支配者にだってなれるだろう。何が君にとっての幸せなのか、君はどう生きるべきなのか。よくよく考えるべきだ」
──わたしの幸せ?
透の言葉を心の中で反芻しながら、わたしはそっと胸元に触れた。心なしか、鼓動が早まっている気がする。透に反応しているのだろうか。炎のように熱かった。
わたしの幸せって、なんだろう。
そんな疑問に心が囚われ始めたちょうどその時、風を切る音がした。透が慌てて距離を取り、わたしの目の前に人影が割り込んでくる。長髪を風になびかせ現れたその人物。青白い槍を構え、興奮気味に青い翼を広げている。
わたしを庇うように立ちはだかるその人物は、藍さんだった。
「くだらないお話はそこまでにして」
藍さんは透にそう言った。
「でないと、少々痛い目に遭ってもらう」
淡々とした声だが、敵意は十分感じられた。
対する透はさほど表情も変えず、ただ薄っすらと笑いながら返答した。
「ずいぶんと物騒な事を言う。だが、いいだろう。ここまでにしておくよ。私はただ、新しいレッドドラゴンに挨拶したかったのだ。その目覚めを喜びたかっただけだ」
透はそう言って、わたしをじっと見つめてきた。
いやきっと、彼女が見ているのはわたしではないのだろう。正確にはわたしの中に眠り、いつか乗っ取るという赤い竜のハートを見つめているのかもしれない。
「覚えておくがいい、マナ。私は透。場合によっては、君の最大の理解者ともなり得る存在だ。それを忘れるな」
そう言い残し、透は突如消え失せてしまった。
気配が消えたのを察すると、藍さんは黙って武器を手放した。直後、青い翼も消え、人間と変わらぬ姿に戻る。
そして、透の消えた場所を見つめたまま呟いた。
「困ったものね。さっそく嗅ぎつけてくるなんて」
そんな彼女の背中に、わたしは恐る恐る訊ねてみた、
「あの……今の人は?」
「悪鬼とか、悪魔とか、そういうものよ。とにかくあれの言う事をまともに聞いては駄目。話しかけられた時は……すぐに逃げなさい」
そう言って振り向く藍さんの目は非常に怖かった。
忘れてはいない。この人はわたしを殺す力を持っているという。雷獣に貫かれても死ななかったわたしの身体を、いつだって滅ぼせる人というわけだ。
そんな相手に少しでも反抗しようなんて思えるだろうか。そんなはずもない。
わたしに出来ることは、大人しく頷くことだけだった。
「素直な返事ね。それでいいわ。とにかく、お疲れ様。初めての仕事が上手く行ったようで何よりよ」
藍さんの言葉を受けて、わたしは我に返り、ポケットに入れていた雷獣のハートを差し出した。藍さんはそれを黙って受け取ると、ぐっと握り締めた。直後、彼女が再び手を開くと、そこにはもう何もなかった。
「消えちゃった……」
思わず呟くと、藍さんは静かに頷いた。
「ありがとう、マナ。雷獣は無事に封印できた。これでしばらくは誰も雷獣に寄生されることはないわ」
「しばらくは……なんですね?」
少しばかり引っかかって訊ねてみると、バタ子が口を挟んだ。
『まあ、だいたい百年くらいは安心していいかな。だいたいそのくらいでハートの目が覚めて、宿主を求めてさまよい出しちゃうの』
百年か。思っていたよりもは長い。
ともあれ、無事に終わって本当によかった。
「でも、ハートはこれだけじゃない。これからも、あなたの炎の力を借りながら、ハートを回収してもらうことになるわ。協力できる?」
藍さんに真っすぐ訊ねられ、わたしは迷うことなく頷いた。
命が惜しいから、というのも正直なところある。だが、それだけではない。これをすることで、人々の役に立てるのならば、迷う理由なんてなかった。
少なくとも今日のお仕事で、雷獣に寄生されて困る人はしばらく現れなずに済んだのだから、誇らしいといえば誇らしい。
「わたしに出来る事なら、ぜひ!」
それが皆の為になるのなら。
迷いのない言葉から、それが紛れもない本心であると通じたのだろう。藍さんは少しだけほっとしたように目を細め、黙って頷いた。
こうして、わたしの初仕事は終わった。
本当の本当に新人怪獣にも安心のとても簡単なお仕事だったかと問われれば、素直に頷ける内容ではなかった。
それでも、傷一つないことや、すでにもう痛みの記憶も薄れている今となっては、いつの間にかわたしは誰かの役に立ち、そして報酬として金一封を受け取ったということだけが、印象として残ることになった。
ちなみに気になる封筒の中身は、現金三万円だった。それが安いのか、高いのか、考えるとまたキリがない。不死身の人間が身体を張るに相応しい金額がいくらなのかなんて、参考になるデータも探しようがない。
ただ、わたしは無事に帰った自宅でお札をまじまじと見つめ、ぼんやりと呟いた。
「まあ、悪くはないかも」
人々を陥れる怪獣として恐れられ、天狗たちに討伐される道か。その力を人々のために使い、それなりに社会の役に立ち続ける道か。選ぶならばやっぱり後者だった。
どちらにしたって寄生したというハートを取り除く術は分からないのだ。なるようになる。なるようにしかならない。そう思うことで、わたしはとりあえず自分を納得させることにしたのだった。




