2.信じられない報せ
「いま、なんて言った……?」
天狗たちのお屋敷について程なく、説明役のバタ子を前にわたしはただただ茫然としていた。
場所はいつもの会議室。その場にいるのは、バタ子を除くとわたしと小雨ちゃんだけだった。聖獣たちは皆、別の場所にいる。天狗たちも同様だ。黒百合隊長は聖域にいる者たちと連絡を取り合うために別室に籠っていて、林檎ちゃんと蜜柑ちゃんは共に勉強部屋で大人しくしているらしい。
今日はとにかく慌ただしい。もたもたしている暇はなく、簡単に説明を終えたらすぐに現場へと向かいたいという気持ちがバタ子からよく伝わってくる。
それでも、わたしは空気を読むことが出来なかった。読めるはずもない。たった今、バタ子から聞かされた現状報告が受け止めきれずにいたのだから。
バタ子はアゲハ蝶を模した翅をニ、三回ゆっくりと動かしてから、再びその言葉をわたしに聞かせた。
『いいわ。もう一度だけ説明してあげる。今日は説明が終わり次第、裁きの結界へと向かいます。相手は古椿の霊よ』
やはり聞き間違いではなかった。
──乙女先輩……?
わたしは絶句してしまった。隣にいる小雨ちゃんがどんな表情をしているのかさえも確認できない程だった。だが、バタ子はそれ以上、待ってくれなかった。スライドを使うこともなく、ただ言葉のみで嫌に手短な説明を続けた。
『古椿の霊の宿主は、二人もよく知っての通り』
「どうして先輩が……」
ぽつりと言ったのは小雨ちゃんだ。
言葉が出ないわたしの代わりに冷静な疑問を投げかける。
それに対してバタ子は淡々とした口調で教えてくれた。
『もともと限界だったのかも……いいえ、これは単なる憶測にすぎないわね。分かっていることは、彼女はここ最近、何故か自ら心身を酷使し続けていた。これでも、黒百合隊長がどうにか制御しようとしたのよ。でも、気休めにしかならなかったのね。透が何かしたのだっていう天狗様もいるけれど、確かな事は分からないわ』
透が何かをした。
その言葉がわたしの脳裏に刺さった。
何かって何だろう。いったい、何をどうしたら、そんな恐ろしい事態が引き起こされてしまうというのだろう。
(千年先かも知れぬし、明日かも知れぬ)
竜の声が頭の中に木霊する。
分かっていたはず。確かにそうだ。これまで討伐してきた天子やオロチだって、決して他人事ではないのだと思ってきたはずだ。乙女先輩に指導してもらい、強くならねばと焦っていたのもこれを想定していたからだったはず。
でも、今になって実感したことは、やはりわたしはあの二人の事を結局は他人事のように捉えていたという事実だった。
『……乙女は天子やオロチとは違う』
バタ子は言った。
『もともと怪獣になりたいわけじゃなかったの。だから、完全に自我が歪む前に黒百合隊長に申し出て、自ら結界に囚われた。あとはなるべく苦しまない方法で終わらせるのみ。でもね、乙女はそうでも古椿は違う。本人の意思とは関係なく天狗を拒絶したがるものよ。だから、あなた達の力も借りたいの。天子の時のように、オロチの時のように、乙女の中にいる古椿の霊の討伐が終わるまで天狗様たちの盾となって欲しいの』
なんて事だろう。なんて、事だろう。
これから行われること。これから巻き込まれることの意味が、じわじわとわたしの頭に染み込んでいく。
そうして生まれるのは焦燥感だった。
待って欲しい。何がどうしてこうなってしまったのか、誰かわたしに分かりやすく説明して欲しい。
「どうにかならないの?」
わたしと同じくらい動揺した様子で小雨ちゃんはそう言った。
けれど、バタ子は無情にも思えるような真実を述べた。
『どうにもならない。少なくとも、アタシにはどうにか出来る権限はない。黒百合隊長も、白蓮様も、そう決めてしまったから。他ならぬ乙女本人の希望でもあるから、誰にも止められないでしょう。それに、いつまでも同じような気持ちでいられるわけじゃない。このまま様子を見続ければ、乙女は必ず身も心も怪獣になりきるでしょう。古椿の霊の生存欲求がもっと高まれば、乙女の人格は完全に侵食されるわ。そして、天子やオロチのような存在へと生まれ変わる事になる』
「それって、どのくらい危険な事なんですか……」
息を飲みながら、わたしはかすれ声でバタ子に訊ねた。
すると、バタ子は即答した。
『古椿の霊がその気になれば、近くにいる少なくない数の人間たちが、一瞬にして謎の死を遂げることになるでしょう。あれはね、人食い椿なの。大地を通して人々から生気を吸い取っていく怪物よ。誰がどのくらい犠牲になるかは、正確には予想もつかない。ただ、この町の人々であることは確かでしょうね』
その中にはわたしや小雨ちゃんの家族や友人も含まれているかもしれない。
そうなってからでは遅いのだ。
分かっているつもりだ。躊躇っている場合ではないのだと。けれど、分かっているはずなのに、頭の中には納得したがらない自分がいた。
本当にそれしか道はないのだろうか。
それ以外に手段はないのだろうか。
『乙女はもう聖域の中にいるわ。白蓮様たちもついさっき向かっていった。準備が出来次第、裁きは始まるでしょう。うまく行けば、今回の仕事はすぐに終わるわ。あなた達がたどり着いた時には終わっているかも。けれど、そう簡単にいかないのがこの仕事でもある。乙女だって万能の神様ではないもの。天狗様に殺意を向けられて、いつまでも自我を保てるとは思えない。だから──』
どうして。
バタ子の言葉が耳から耳へと通り過ぎていく。
どうしてこうなってしまったのだろう。
わたしの頭に浮かぶのは、そんな疑問ばかりだった。
「古椿の霊は木属性だったわね」
小雨ちゃんが冷静に訊ねた。バタ子はこくりと頷いて答える。
『ええ、だから恐らく、本能が目覚めたら、古椿の霊は聖域の北へと向かうでしょう。玄武を壊すためだけでなく、水の力を持つ天狗様の命も狙うかもしれない』
水の力を持つ天狗。
その言葉にわたしは少しだけ我に返った。
──藍さんだ。
『水の天狗様──藍は決して弱い存在ではない。それに、玄武を宿す鈴とそれを守る骨鯨の雫はそれぞれベテラン中のベテランよ。でも、さすがに属性的に有利となれば、相手が一人であっても乙女であれば苦戦するでしょう。協力者の中には属性的に有利な猫又のたまがいるけれど、同じく金属性の蜜柑は相変わらず不参加になるから、地属性の銀様が頼りになるってわけ。それに、時間も不味いわね。もうすぐ日没。白蓮様は一応向かっているけれど、間に合わない可能性の方が高い。となると、一晩の間、乙女に耐えてもらわないとならなくなるわ。彼女の本能が目覚めたら、白蓮様が再び起きるまでの間、月夜と銀様ばかりに頼ってしまうことになる』
「……人手が足りないってわけね」
小雨ちゃんは力なくそう言うと、深呼吸をした。
わたしから見て、小雨ちゃんは妙に冷静に思えた。いずれ、こうなることへの覚悟が違ったのだろうか。それならわたしだって覚悟はしてきたつもりだった。でも、その覚悟が足らなかったのだろう。
「分かったわ。すぐに行きます」
小雨ちゃんが即答する横で、わたしはただただ困惑したままだった。
その後の事は、あまり覚えていない。バタ子と小雨ちゃんの会話が頭に入ってこなかった。ただ、二人の会話の途中でわたしもまた行くかどうか問われ、黙って頷いたのは覚えている。向き合わなくてはという気持ちと、嘘であって欲しい、冗談であって欲しい、夢であって欲しい、夢ならすぐに覚めて欲しいと願っている自分がいた。
『説明は以上だけれど』
バタ子は真面目な口調で言った。
『最後にもう一つだけ。今回の仕事は、新人怪獣にとって精神的にとてもキツイ内容になると思う。特に、あなた達はここ最近、乙女の指導を直接受けていた。だから、もしかしたら天狗様やアタシたちの事が非情に思えるかもしれないわ。でも、これだけは分かって欲しいの。アタシたちだって乙女を傷つけたくはない。乙女にいなくなって欲しくない。けれど、やむを得ないことだったのだと』
バタ子の言葉が心に突き刺さる。
──やむを得ない事。
その言葉に寒気すら感じる中、残酷にも時は過ぎていく。
『今度こそ話は以上よ』
そして、バタ子の号令は下った。
『行きましょう』




