4.初めての大仕事を終えて
まだ、体が震えている。太陽は空高く昇っているのに、真夜中の暗闇が続いているかのようだった。それでも時間はわたしの心に味方をする。この一晩で味わった、あらゆる衝撃も少しずつ薄れてはきていた。
天子。九尾の狐のハートを宿した彼女は、もうこの世の何処にもいない。
止めを刺したのは朝日と共に復活した白蓮様だ。
青龍の破壊を目論む天子と、それを阻止しようと戦い続けたわたし達。天子の動きを止めて青龍から積極的に引き離そうとする月夜先輩を、小雨ちゃんや銀様と一緒に必死になって援護し続けた一晩の戦いも、月夜先輩と交代する形で白蓮様がやってきた数分後には終わってしまった。
白蓮様の持つあの大剣が、天子の心臓に突き刺さった瞬間。
あの光景は今も目に焼き付いて離れない。巨大な狐の形をしていた天子の動きがいったん止まり、ぼろぼろと岩肌が崩れるようにその身体が崩壊していき、後に残ったのはこれまで何度か目にしてきた美しくもごく普通の人間としての天子の姿。
それも、白蓮様が大剣を引き抜くと、塵となって消えてしまった。
そうして戦いは終わったのだ。
「大丈夫?」
訊ねてきたのは小雨ちゃんだ。
眺めの丘より共に朝日を見つめながら、彼女はわたしに囁いてきた。
「わたしも初めて見た日はそんな感じだった。今も変わらない。悪夢でも見ていたかのような気分で、なんだか胸が重たいの」
「うん……ちょうどそんな同じかも」
小声で同意し、わたしはそのまま黙してしまった。
消え去ってしまう前、天子は言葉を遺した。恨みつらみのこもったその目で、力強く白蓮様を睨みつけ、絞り出すように発した声は今も耳にこびりついていた。
──呪ってやる。
ひと言だけだったが刃のように鋭いその言葉がわたしにはとても恐ろしかった。
しかし、天狗たちは非常に冷静だった。白蓮様の眼差しもまた同じくらいの憎しみに満ちていたし、他の天狗たちの様子も様々だった。静かに見守る者もいれば、再び抵抗しないかと身構える者もいた。そして、同情するように手を合わせる者もいた。けれど、誰一人として彼女の眼差しに怯える者はいなかった。
機械蝶々も、聖獣も、そして他の怪獣たちも同じだった。
いつかはわたしや小雨ちゃんも天子のようになってしまうのだろうか。
(未来の事は何も分からぬ。取り越し苦労は心身に良くないぞ。千年後も友と暮らしていたいのならば、肝に銘じておくのだ)
レッドドラゴン様の静かなお説教が頭に響く。わたしはただそれに耳を傾けながら、黙って朝日を浴びる町の景色を見つめていた。
ここで何を思おうと、決着はついたのだ。バタ子たちから依頼されていた仕事は無事に終わり、今日からはまた新しい日々が始まる。この町の脅威となっていた化け狐がいなくなったと考えるならば、それはやっぱり喜ばしいことなのだろう。
「前にメガセリオンが言っていたの」
小雨ちゃんがふと口を開いた。
「完全に怪獣になってしまったら、本当に人間の価値観を忘れてしまうのですって。本来の怪獣たちが持っていた価値観に引っ張られて、人間社会の当たり前を平気で無視するようになる。そうなったら、私たちは完全に人類の敵になってしまう」
その時が、わたし達の終わりの時だ。
天子はすでにそう成りかけていた。始めは天狗たちへの不満と反発、そして怒りだっただろうけれど、敵対しているうちに身も心も怪獣になってしまっていたのだろう。
彼女はおめでたい瑞獣ではなく不吉な化け狐として囚われ、化け狐として成敗された。
そんな彼女の姿を散々見てきた上で、はっきりと感じたことがある。
ああはなりたくない。
ならないにはどうしたらいいのか。
(そう思い悩むな、相棒)
レッドドラゴン様はそう言った。
そう言ったきり、黙り込んでしまった。
代わりに小雨ちゃんがわたしを見つめ、長いその黒髪を風になびかせながら言った。
「天狗たちがあのまま天子を野放しにしていたら、この町の人間たちがたくさん死ぬことになっていたかもしれないわ。だから、これは仕方のない事。わたし達がまだ人間であるという事の証明にもなるはず」
「まだ人間である証明……」
小雨ちゃんの言葉を繰り返し、わたしは共に戦った味方たちのことを思い出した。
青龍を壊されないように必死に守り続けた味方たち。常に標的にされていた竜子の恐怖は計り知れない。怪獣の攻撃で聖獣は死なないと聞いてはいたが、壊されるということは無事であるということではない。封印を嫌う怪獣たちは、聖獣のハートを……つまり聖獣となった人間の心臓を無理やり抜き取って結界を破るという。
そしてさらに狂った怪獣は、抜き取った心臓を食べてしまうことがあるという。実際にそうやって結界を破られて、逃げられそうになって、やむなく聖獣のハート共々その怪獣を討伐したことがあったらしい。
もちろん、囚われた聖獣は無事ではない。天狗の武器は聖獣にも止めを刺し、その後、聖獣は四人に減ってしまった。それが真昼ちゃんの前に白虎だった人の最期なのだと。
真昼ちゃんはその事を教えられたうえで志願したという。全ては怪獣になった姉の為。姉の戦いを傍で見守り、援護するため。
この町の平和は彼女らの姉妹愛のおかげで守られている。
では、わたしは。わたしはどうしてこの町を守りたいのだろう。
それは人間だから。わたしがまだ怪獣になりきっていないから、愛着のあるこの町を守り、これまでのように暮らしたいと願うのではないか。
「そっか、証明か」
わたしはそう言って、小雨ちゃんを見つめた。
「ねえ、小雨ちゃん。小雨ちゃんはまだ怪獣になんてなりたくないよね?」
「当然よ。わたしだってまだまだ生き足りないもの。まずは大人と認められる年齢まで生きて、子供の頃には分からないようなこの世の楽しみをもっと色々と知らないと。せっかく生まれてきたのに、勿体ないじゃない」
つんと澄ました猫のように語る彼女を見つめ、わたしはほっとして笑った。
「そっか、そうだよね。わたし達、まだまだ生き足りないよね。怪獣になるにはまだ早いし、わたしもそうだな。大人になって堂々とお酒とか飲んでみたい。大人の同伴なしに色んな場所に行って、知らないことをいっぱい知りたいな」
そして、少しだけ小声で付け加えた。
「その時は、小雨ちゃんと一緒が良いな」
横目でそっと窺うと、小雨ちゃんは猫のような目をこちらに向けていた。
「当然よ」
短いがはっきりとしたその答えに、安堵の溜息が漏れてしまった。
怪獣がどうして怪獣になってしまうのか。それがいつの事になるのか。わたしにはさっぱり分からない。レッドドラゴン様の言葉を信じるならば、あれこれ考えすぎるというのも良くない事なのだろうか。ストレスというものが心身に悪いのはよく知られているけれど、怪獣のハートにとっても同じなのかもしれない。
しかし、もしそうであるならば、小雨ちゃんと二人で歩む怪獣の道は奇跡的なまでに恵まれているのかもしれない。
一人ならば思い悩んで道に迷ってしまいそうであっても、二人ならばお互いに気を付け合って、明るい抜け道を捜せるかもしれないから。
そう思うと少しは気が楽になる。
天子の末路が未来のわたしなのだとしても、それは途方もなく先のこと。この世に生き飽きるほど先の話なのだと信じることが出来そうだった。
(それで良いのだ。そなたはまだ若い。今はただ若さゆえの経験を噛みしめ、すぐ目の前にある事柄に笑って泣いて暮らせばいい)
レッドドラゴン様の言葉を胸に、わたしは心の中で肯いた。
夏休みは目の前だ。怪獣になって迎える初めての夏。大きな敵もなく、平和の戻ったこの状態で、小雨ちゃんたちと共に過ごす夏。
親しい友と一緒にこれから作る思い出の日々に少しだけ期待するくらいには、わたしの心にも余裕が戻っていた。