1.かくして天子は敵となった
蝉時雨が賑やかな七月。
期末テストの結果は良好。赤点補習を免れたわたしに待っているのは、青春を謳歌する楽しい夏休み……などではなかった。
先月の小雨ちゃんの誕生日からすでに一か月以上は経つ。
それはつまり、現在、我が町の平穏を脅かし、天狗様たちの頭を悩ませている天子という人物の存在を知ってから、一か月経つということ。
あれより前から昼は白蓮様が、夜は真昼ちゃんのお姉ちゃんだという月夜先輩というベテラン怪獣が戦い続け、天子の捕獲を試み続けているのだが、まだ彼女は自由のままだった。
全く進展がないわけではない。長期間に及ぶ追跡は、天子の心身を疲労させてはいるらしい。早ければ今日明日。遅くとも夏休みに入る前には、捕まえられるというのがバタ子たちの計算だった。
そうなれば、いよいよわたしにとっても他人事ではなくなる。
一か月以上前に説明されて以来、いつ、その時が来てもいいように、バタ子による講習は連日行われていた。
せっかく赤点補習を免れても、勉強漬けなのは変わらない。
今日もわたしは小雨ちゃんと共に、天狗たちのお屋敷の会議室に押し込まれていた。
本日のお題は、天狗様たちに歯向かった天子についての説明である。
『天子は最初から敵だったわけじゃないの。怪獣の力をうまく制御して、この町の平和を天狗様たちと守ろうとしてくれていた。実際、彼女の活躍で守られた人間はたくさんいるわ。この町を恐怖で支配しようとする輩と積極的に戦って、天狗様たちにたくさんの勝利をもたらしてくれた。あの頃の彼女は怪獣なんかじゃなかった。吉兆をもたらす聖獣のような存在だった』
現在、バタ子が壁に映し出しているスライドは、バタ子のカメラが記録したその頃の画像なのだろうか。わたしもよく知る天狗たちや、おりんやカザンといった見覚えのある協力者たちと一緒に、楽しそうに映る彼女の姿があった。
それなのに、一体どうして。
『状況が変わったのは数十年前の事。突然の事だった。何の前触れもなく彼女は反旗を翻し、黒百合隊長に逆らい始めたの』
「いったいどうして?」
共に聞いていた小雨ちゃんが訊ねると、小雨ちゃんはスライドを切り替える。
映し出されたのは、かなりぼやけた画像だった。まるで心霊写真のようなそれは、よくよく見つめてみると山羊の角の生えた女性のシルエットが確認できる。
一度だけ、わたしはその姿をはっきりと見たことがある。
『黒百合隊長は、透のせいだと睨んでいる』
そうだ。透。そう呼ばれていた。
怪獣としての初めての仕事をこなした直後、わたしに接触してきたのだ。その頃からバタ子は警戒していたし、結果的に藍さんに追い払われた。
彼女は一体何者なのだろう。
(知りたいか?)
レッドドラゴン様、何かご存知なのですか?
(うむ、かつてはよく知っておったぞ。それは今から数千年前、我が封じられた頃の事。相棒のメガセリオンと共に地上でやりたい放題していた頃に、我は奴と深く関わっておったのだ。透とはこの国での名。奴はこの世界のどこにでも存在し、どこにもいないともいえる。写真がはっきりせんのもそのせいだな)
そんなに昔からいるなんて。
じゃあ、具体的にどんな風に関わっていたの。
(それは……忘れちゃった)
ふむ。
物忘れドラゴンの事はさて置き、バタ子の講義は続く。
『怪獣たちには多かれ少なかれ透の接触があるものなの。黒百合隊長によれば、天子がおかしくなってしまう前も、透が何か話していたそうよ。何にせよ、それから彼女は変わってしまった。気ままに世界を放浪したと思えば、発作的に暴れ出して、町の治安を乱そうとしてくるの。それも、映画の怪獣みたいに破壊するのではなくて、町に暮らす人々の心を操って、トラブルを引き起こすのよ』
厄介な奴だ。
確かに見た目のイメージからしても納得がいく。
女狐と呼ばれるような悪女のそれ。具体的にどういう事をしているのかは、高校生のわたしには正直に言ってさっぱり分からないのだけれど、何となくのイメージでいけないお姉さんなのだということは理解できた。
わたしが一人で納得していると、隣に座っている小雨ちゃんが片手をあげた。
「質問があります」
『はいはい、何でも聞いて!』
「その天子という人が、元は味方だというのなら、説得することは出来ないの?」
確かに、それは気になる。
今は対立していても、話し合いでどうにか穏便に解決できやしないのかと。もちろん、冷静に考えれば、そんな事は天狗たちだってとっくの昔に試したのだろうと分かるのだけれど、ともかくわたしも、そして恐らく小雨ちゃんも、かつて味方だった怪獣の良心を疑いきれずにいるのかもしれない。
だが、バタ子は首を横に振るように、ふるふると身体を横に揺らした。
『それが出来たら苦労しなかったわ。でもね、もう無理なの。天子はアタシ達を憎んでしまっている。これは去年の話よ、彼女は天狗様に頼らない派閥を作ろうとしていたの。けれど、彼女に従った仲間が身も心も怪獣になってしまって、町の安全を考慮して捕獲対象になった。そのまま捕獲は実行され、天子の仲間は封印された。町の平和は守られたけれど、それ以来、天子はアタシ達を強く憎んでいる。説得なんて通じないわ』
きっぱりとバタ子は言った。何も知らない新人怪獣のわたしが、冷たいと感じてしまうまでに。けれど、そう断言できるほどの溝が、天狗たちと天子の間にあるのだろう。
『とにもかくにも、この町の平和を守るためには天子を討伐し、彼女に寄生している九尾を封印するしかない。その為に天狗様たちは日夜戦い続けているし、少しずつではあるけれど、相手にも疲れが見えてきている。今すぐにでも捕獲の報せが入ってもおかしくないような状況よ。だから、あなた達も覚悟をしておいて。この戦いで、あなた達が死ぬことはない。けれど、天狗は違う。怪獣との戦いで深手を負えば、戦えない身体になってしまうことだってある。だから、あなた達には天狗様たちの盾になってもらいたいの』
バタ子の言葉にわたしも小雨ちゃんも黙って頷いた。
もとより、その覚悟は出来ているつもりだ。傷ならば恐れることもない。怪獣相手ならば不死身なのは間違いない。となれば、克服すべきは痛みと恐怖だけ。あとは、その場の緊迫感に飲まれずに済むかどうか。
オンラインゲームすらろくにしたことのないわたしが、本当に大丈夫なのだろうかという疑問と不安はついて回る。
けれど、わたしは一人ではない。先輩もいるし、友達もいる。
(我もついておるぞ)
そうだ。頼れる相棒もいる。
だが、そこで小雨ちゃんは少しだけ不安そうな表情を見せた。
「金属性の相手……ねえ、バタ子。止めは誰が刺すの?」
『それは勿論、天狗様よ』
バタ子は即答した。だが、小雨ちゃんは呆れたように首を振った。
「それは分かっているわ。そうじゃなくて、天狗様のうちの誰が担当するのか聞きたいの」
『白蓮様よ』
「白蓮様だけ?」
小雨ちゃんの問いかけに、バタ子は機械ながら実に人間臭い溜息を吐いた。
『いいえ、資格があるのは他にもいる。例えば地属性の天狗さま、銀様もいるわ。でも今のアタシ達の状況では、白蓮様の大剣に全てがかかっていると言ってもいい。銀様の持つ武器も有効でないわけではないのだけれど、封印まで追い込めるほどのダメージを与えられるかどうかって言われると、微妙なところなの』
「微妙? どうして? 地属性は金属性にも有利なんじゃないの?」
思わず訊ねてみれば、バタ子よりも先に小雨ちゃんが教えてくれた。
「そうなんだけれど、決定打になり得ないってことよ。それに、今は天狗様の属性もすべて揃っていないの」
「揃っていないって?」
首を傾げるわたしに、バタ子はさらに教えてくれた。
『マナにはまだきちんと言っていなかったわね。四月からしばらく、あなたに金属製のハート回収をバンバンやってもらったのは、ただ修行してもらいたかったからってだけじゃないの。金属性に有利な炎属性の天狗様が育っていないからなのよ』
育っていない。
その言葉の意味を考えていると、頭の中で竜の声がした。
(当の本人はこの屋敷で今も無邪気に遊んでおるからの)
ああ、それってつまり。
「林檎ちゃん。あの子が本来の担当者ってわけね」
小雨ちゃんの言葉に、バタ子はこくりと頷いた。
『林檎に蜜柑。あの二人はもともと紅様と山吹様という頼れる天狗様だったの。けれど、過去の戦闘で怪獣によって致命的な傷を負ってしまって、一度死んで生まれ変わったの。それが十年ほど前の話。あの子たちが立派な戦士になるまでには、まだもう少し時間がかかる。だから、それまでの間は白蓮様に頼るしかないってわけ』
「でも、白蓮様は昼にしか戦えないんだっけ?」
浮かんだ疑問を口にすると、遅れて寒気を感じてしまった。思っていた以上に厳しい状況な気がするのだが、気のせいだろうか。
バタ子は表情の読めない顔をこちらに向けて、言葉をかえしてきた。
『そうよ。だから、封印できるとしたら昼の間だけ。夜はとにかく聖獣たちの封印が解かれないように防衛し続けないといけなくなる。つまり、白蓮様が動ける間が勝負ってわけ』
そして、万が一にでも白蓮様が再起不能な状態になってしまったら、わたし達の敗北が決まってしまうというわけだ。
思っていた以上に怖い。せっかく奮い立たせようとした心の尻尾が腹に巻き付いてしまいそうだった。
(安心せい。そう易々と天狗は死なんよ)
勇気づけるためだろうか、頭の中で竜はそう言った。
でも、レッドドラゴン様。林檎ちゃんと蜜柑ちゃんは一度死んでしまったのですよね。
(そう言う時もあるが、あの白蓮ってやつは別格だ。強さも冷酷さも他の天狗とは段違いと見た。だから、そう怖がるな)
力強いその言葉にわたしはとりあえず納得した。
怪獣が言うくらいなのだからそうなのだろう。そう自分に言い聞かせながら、こみ上げてくる不安や恐怖を全て殴り飛ばそうとした。
しかし、綱渡りを強要されているかのような緊張感ばかりは、いつまで経っても薄れる気配すらなかった。