■75.本土決戦。(後)
中国人民解放軍北部戦区の将兵らが混沌に足を突っ込みかけている一方、中国人民解放軍東部戦区を中核とする陸海空軍もまた死地へ赴こうとしていた。
台湾本島強襲上陸作戦の発動である。
002型航空母艦と003型航空母艦が台湾本島南西沖に到着したことで、揚陸部隊の頭上を守る算段がついたため、中国人民解放軍東部戦区共同作戦司令部と中国共産党中央軍事委員会参謀部は、孤中一擲(乾坤一擲)の大勝負に出た。
上陸地点は台湾本島南西部――台南市から高雄市にかけての臨海部に定められた。
当初は台湾本島の政経の中枢を担う台北都市圏の早期攻略を目指し、台湾本島北部への上陸が計画されていたが、琉球弧の切断を諦めた以上、日米をはじめとする連合軍の強力な妨害が予想されたため、北部上陸は没案となり、代わりに台南市・高雄市に白羽の矢が立った。
台南市・高雄市はビーチングが可能な海水浴場が多く、また高雄港をはじめとした港湾施設が揃っている。
この地域を確保することができれば、台湾本島上陸後に必要な物資を揚陸するのには困らない。
最終的に作戦発動を裁可する立場にある華鉄一国家主席は、まったくもって躊躇することがなかった。当然といえば当然である。彼の最終目標は中台両岸統一であり、そのために此度の軍事行動を起こしたのだから。
しかしながら、孫徳荘国防部部長や外交部部長を務める馬樹南ら一部の党高官は動揺した。心のどこかで彼が思いとどまるのではないか、と期待していたからかもしれない。
前述のとおり孫徳荘国防部部長は、琉球弧・同周辺海域でアメリカ軍の足止めが出来ない時点で、敗北を予感していた。
そして馬樹南外交部部長は、といえばこの状況から軍事力による逆転勝利はありえないと感じ始めていた。
(和泉の小僧を見誤ったな――)
華鉄一国家主席が決断を下した直後、馬樹南外交部部長の心中に一抹の後悔が生まれていた。
文化大革命による徴農から戻った後に日本語を学び、アジア外交の専門家として活躍し、00年代には数年間、駐日中国大使を務めた彼は、日本を知っているが故に見当を外していた。
彼は戦争が勃発すれば日本国内は大混乱に陥り、対日工作の下で世論は分裂し、アメリカの足を引っ張ることになるだろうと思っていた。
それに加えて、なにせ事態の対応と収拾にあたるのが、あの和泉だ。
「和泉は父の総一郎や、対中包囲網を意識していた古川誠恵には遠く及ばない」と彼は常々広言しており、大・和泉から小・和泉に受け継がれたのは、フランス大統領に「イギリス料理はうまいよな?」と言ってのけたことから知られる変人ぶりだけだと思っていたから、戦争という国難を乗り切る力はないとみていた。
ところが、現実はどうだ。
(日本政府が屈服せずに覚悟ある決断を下したために、琉球弧を絶つことは出来なかった。和泉のせいで――いや、古川誠恵から始まり、神野義春・木下正と継承されてきた“戦略”を絶てなかったせいで、そのためにいま、我々は極めて不利な状況に立たされている)
北京市朝陽区にある外交部庁舎に戻った馬樹南外交部部長はもう一度、対日世論工作を自ら見直した。
が、もはや無駄というものだった。
台湾本島強襲上陸作戦はまず、003型航空母艦から発艦したJ-35艦上機による航空偵察から始まった。高度なステルス性能を有するJ-35は、容易にその任務を果たした。特に彼らが重視したのは、高雄港やその周辺に台湾海軍のミサイル艇・ミサイル艦が待機していないかどうかである。
続けて巡航ミサイルで武装したH-6爆撃機が台湾本島西海岸を乱打していく。
「浮足立つな」
再編された中華民国陸軍第8軍団司令部の黄宗志陸軍少将は、左右に対して冷静を保つように声をかけたが、この段階で新たに命令を下す必要はなかった。
台湾本島南西部を防衛する第8軍団約1万8000名は、すでに必要な布陣を固めている。
第117歩兵旅団・第203歩兵旅団が海岸線の監視にあたり、第333機械化歩兵旅団と第564装甲旅団がその後背で備えるような恰好だ。
緒戦の空爆で車輌をはじめとする重装備や兵員が損耗しているものの士気は保たれており、さらにアメリカ陸軍第1騎兵師団の一部が到着したことで備えは万全となっていた。
中国人民解放軍の攻撃による奇襲効果はもはやない。
この台湾本島南西部のみならず、この島に拠る中華民国陸軍・アメリカ陸軍の諸隊は決戦の秋を待ち望んでいた。




