■24.もがいた果て。
「なぜ誰も俺の命令に従わないッ」
釜山市庁に寝泊まりする白武栄の言動を、ほとんどの人間が黙殺していた。
白武栄は日本国自衛隊やアメリカ海軍の動きを牽制するべく、海軍作戦司令部に積極的な作戦行動を求めたが、それに応えるべき参謀らは何かと理由をつけて動こうとしなかった。
彼が『世宗大王』乗組員を愚弄したという話が、すでに海軍作戦司令部中に知れ渡っていたためである。“士は己を知る者のために死す(男は自分を評価してくれる者のために死ぬ)”、という諺があるが、己を侮蔑する指導者のために命を擲って戦う将兵がいるわけもなかった。
そうしたわけで作戦参謀が
「……。ば~~~~~っかじゃねえの!?」
――と言ったかは定かではないが、中には「『文武大王』で海上自衛隊を攻撃? できませんね。我々は無能揃いなので」と白武栄の秘書に言い放つ者もいた。
さらに彼の神経を逆なでしたのは、李善夏国防部長官をはじめとする白武栄閥の政治家たちが急速に離れていったことであった。
彼ら白武栄の取り巻きは、ソウルは瞬く間に陥落するだろうという予測を開戦直後に立てて、白武栄とともに釜山へ後退したのだが、それが大誤算だった。思いのほか韓国陸軍は健闘を続け、早々に韓国空軍も作戦能力を取り戻し、いまも防衛戦を続けている。
ソウル陥落後、釜山にて先見の明を誇るつもりだった彼らは、ようやく自らが戦わずして首都を捨てた売国奴に成り下がっていることに気づき、気づくとともにもはや白武栄の政治生命が終わったことを理解した。
「白武栄はソウルに戻って戦え!」
国民の反感は強い。
釜山市庁前には連日、退役軍人や地元の保守政治家に扇動された市民が詰めかけ、シュプレヒコールを叫ぶ市民と釜山地方警察庁の機動隊の間で、複数回の衝突が起きた。
勿論、こうした行動に出る市民は全体のごくわずかにすぎないが、一方で当局に従って外出を自粛している大多数の釜山市民もまた、白武栄とその側近らの姿勢に対して批判的であった。
対する白武栄は「これは日本政府による謀略だ、日本軍の強襲上陸が近い」と結論づけ、韓国陸軍第2作戦司令部に韓国南東部に駐屯する第53師団を釜山市へ移動させるように命令した。
この白武栄の命令に、7個師団と装備品の供給・整備を任務とする支援部隊を擁し、韓国南部の防衛を担当する韓国陸軍第2作戦司令部の参謀らは、困惑しきりであった。彼らは別段“憂国派”というわけでもなかったが、さすがに自衛隊が悪意を以て釜山上陸を試みると信じることはなく、韓国陸軍本部に指示を仰いだ。
韓国陸軍第2作戦司令部の文周国情報部長などは「明らかに現実離れした大統領命令であり、北韓の謀略ではないか」と真顔で疑義を唱えたほどだった。第2作戦司令部は朝鮮人民軍の後方浸透を警戒し、所属師団の動員と配置を終えていたのだが、そこへ白武栄の「日本軍上陸に備えよ」、と命令が割りこんできた格好だ。朝鮮人民軍の奇策なのではないか、と文情報部長が疑うのも当然だった。数字の“5”と“3”を組み合わせ、朝鮮半島を形づくった部隊マークをもつ韓国陸軍第53師団を動かすのは容易だが、そうなると海岸監視や重要施設の警備に穴が空く。故に彼らは、白武栄の命令に即座に従うことはなかった。
「朝鮮半島の未来を考えないバカどもが――」
こうした出来事が重なり、釜山市庁にて寝泊まりする白武栄の精神状態はこの1、2日の間で極度に悪化した。
彼に政務が舞いこむことはない。
彼の命令に従う組織はない。
ソウルを捨てた時点で彼は、国民の信頼を背負った大統領ではなく、大統領の肩書を背負っただけの只人になっていたのだが、それに気づくことはない――いや、気づいていても、認めることはなかっただろう。
白武栄の“命令”が自身を正当化するための他者に対する罵倒へ完全に変態した頃、釜山市街に数機のUH-60Pブラックホークが進入しようとしていた。
グレーとモスグリーンの二色で塗り分けられたこのヘリ部隊――第602飛行隊は、キャビンドアから機関銃を突き出しながら、市街地直上を超低空で翔けていく。穏やかではない。そのまま釜山地方警察の制止を受けることもなく、彼らは釜山市庁北西側に広がる芝生広場と、市庁舎を挟んで反対側にある市庁駅上空にまで達した。
広場側、接地間際の位置でホバリングする機体側方から飛び降りた数十名の兵士は、芝を踏みつけて広場を横切ると、そのまま釜山市庁へ走った。自動小銃のような目立った武器は手にしていないが、自動拳銃はホルスターに収められている。
市庁舎を挟みこむように南東側、市庁駅上空に至った機体からもロープを使った屈強な男たちが次々と着地し、展開した。
彼らは第1航空特殊旅団・第1大隊の最精鋭。
ドーランが塗られた彼らの横顔に、表情はなかった。
すでに釜山地方警察庁には「大統領の移動と警護を行う」と話を通してあり、抵抗を受ける可能性はない。とはいえ、UH-60Pのエンジンとメインローターが巻き起こす轟音に“目標”が気づかぬはずがなかった。行動には迅速さが求められる。
第1航空特殊旅団の隊員らは、海軍作戦司令部の人間が漏らした白武栄が日頃過ごしている執務室の位置、白武栄の行動パターンを事前に頭を入れていた。
そのため市庁舎への侵入から白武栄の発見まで、10分とかからなかった。
「なんだ貴様ら――」
「閣下を警護いたします。お迎えにあがりました」
反射的に自身のデスクから立ち上がった白武栄は、怒声を張り上げる猶予さえ与えられなかった。
大股で彼我の間合いを一瞬で詰める隊員に対して、本能的恐怖から背を向けた白武栄は羽交い絞めにされると、続いて他の隊員に両脚を抱えこまれてしまう。そうしてみるみるうちに拘束され“生きた神輿”となった彼は、数名の隊員に担がれて執務室を後にした。
「閣下の保護に成功したか」
15分後、作戦成功の報告を受けた朴陸軍参謀総長は、わずかに表情をほころばせた。
いまこの瞬間からアメリカ軍や海外の軍事組織は釜山港やその周辺の港湾、空港を使えるようになった。つまり白武栄によって撤退に追いやられたアメリカ陸軍第8軍や、日本列島に駐屯するアメリカ海兵隊の来援が期待できる、というわけだ。
これこそソウル市陥落を見据えた、朴陸軍参謀総長の次善策であった。
……ひとりの男が釜山市庁を出た。
ただこれだけで韓国は戦略的有利を多少、取り戻すことに成功したのである。
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次回更新は10月10日(日)18:00を予定しております。




