■21.希望も、絶望も、どこにでもやってくる。(前)
在韓邦人の集合場所のひとつになっている仁川港新国際旅客ターミナルの待合室は、這う這うの体で押し寄せた避難民で溢れ、廊下の両端には多くの人々が座りこんでいた。
「なんでこんなことになっちゃったんだ……」
廊下の一角に座りこむ老夫婦は、力なくため息をついた。
うとうとはしたものの、この夜一睡もしていなかった。
年甲斐もなく神経が昂っているな、と禿げ上がった夫は冗談交じりに言ったが、妻は力なくうなずくだけだった。落ち着いた花柄のオーバーブラウスは、疲弊しきっている。
この数日でふたりは、いろんなものを見てきた。
まるで異世界だった。ロケット弾か爆弾か、よくわからないものが少し離れた建物に突っ込んで爆発したり、かなり近くで銃声が立て続けに鳴り響いたりする場面に直面した。韓国語を勉強して20年にもなる妻が周囲に聞いたところ、どうやら北朝鮮の兵士がソウル市内やソウル市近郊に潜んでおり、断続的に攻撃を仕掛けているらしかった。
「ごめんなさい」
すっかり疲れ果てた彼女は、掠れるような声で言った。
「またその話か。気にする必要ないって言っただろ。誰にも予想できないわけだし……」
齢66歳の男は何度も彼女の謝罪を聞いている。
確かに韓国旅行を提案してきたのは彼女であったが、戦争などという事態を予想できるはずがない。
そしてここから先、どうなるかも想像できなかった。
本当に成り行きでなんとか仁川港に辿り着いたものの、男はここから避難できるのか懐疑的であった。
民間船が近寄るはずがないし、噂だと韓国軍の旗色はかなり悪いらしい。
だから韓国政府が手配した船舶や韓国海軍の軍艦が救助に来てくれるはずはなかった。
「なんか、食べますう?」
老夫婦の隣で壁にもたれかかってぐっすり眠っていた大学生の小グループが、唐突に話しかけてきた。聞けば単位をだいたい取り終えた大学4年生らしく、早めの卒業旅行だという。リュックからはハングルが大書されたお菓子がたくさん出てきた。
「この韓国版? のかっぱえびせんなら食べられるんじゃないんすかね」
ふたりは顔を見合わせて、「いや、食欲がなくて……」と丁重に断った。
本当に食欲がないのもあるが、先が見えないだけに彼らの分の食べ物をもらうのは悪い気がしたのだ。
だがそれをきっかけにして、大学生の小グループと話ができた。
「いや、自衛隊は昨日か一昨日くらいに日本を出たらしいすね。なんか韓国の空港にも自衛隊の飛行機が来てるみたいですし? たぶん自衛隊の船がこっちにも来ると思いますよ」
還暦を過ぎた男が驚いたのは、彼らが自衛隊の来援を信じていることであった。
「どうかな、自衛隊は……」
「?」
「ほら、数年前。アフガンとか。海外で日本人を助けるのには及び腰な感じだし……」
「アフガン……」
大学生たちはあまりピンときていないようだった。
その代わりに、彼らはSNSで“バズってる”画像をスマホに映して見せてくれた。
飛び立つ輸送機や、遠方から撮影された自衛隊員の姿。その手には、どっしりと重そうなライフルが握られていた。自衛隊の軍艦に乗せられる戦車を映した写真もあった。どうやら遠方から撮影されたらしい。
「まるでスパイだなあ」
夫の方は舌を巻いた。
老夫婦もスマホを使っていないわけではないが、LINEと先の感染症流行の際にインストールしたZoomを使うだけで、他のSNSやネットを使うことはない。
ふたりからすればスマホは簡単に孫の顔を見たり、子どもたちや友人と連絡を取り合ったりできるコミュニケーションツールであって、情報収集の手段ではなかったのだ。
そうこうしている間に夜が明け――。
「あれ!」
ひとりの女性が叫び、続いて人々がどよめいた。
ガラスの向こう側――彼らは朝日を浴びてどこまでも白く、そして温かく光る海面に、純白の船体をみた。
そこに描かれているのはカラフルなロボットや恐竜、子ども、雪だるま、動物たち。
ウォータージェット推進で海翔ける最高速度約35ノットの双胴船。
――戦場には不釣り合いな彼女の名は、『ナッチャンWorld』。
献身の顕現。
世界中の仲間たちをその身に描いた彼女は、誰かが助けを求めていれば世界中のどこへだって行けるのだ。
高速輸送船『ナッチャンWorld』は仁川港南端の新国際旅客ターミナル近くの埠頭に辿り着くと、船体後部に備えられた無骨なランプウェイを展開した。船内からランプウェイ上、最初に姿を現したのは陸上自衛隊陸上総隊中央即応連隊所属の96式装輪装甲車であった。車体上部に据えつけられている装備は12.7mm重機関銃であり、射撃手を防護するための装甲板が追加されているところが通常の96式装輪装甲車とは異なっている。過去に海外派遣されたこともある、いわゆる96式装輪装甲車Ⅱ型である。
(こんな日が来るとはな)
というのが96式装輪装甲車の車長席から上半身を乗り出し、周囲を視察する車長の偽らざる感想だった。
輸送船『ナッチャンWorld』はただ避難に成功した在韓邦人を収容するためだけに、この仁川に寄港したわけではない。彼女は次々と96式装輪装甲車や73式トラック、軽装甲機動車等の自衛隊車輛を吐き出した。自身を守るため、避難民を守るため、そして万が一、仁川港の周辺で足止めをくって動けない避難民がいれば、救出に向かうための車両部隊であった。
「HENTAIども、よく来たな」
韓国海軍第2艦隊仁川海域防御司令部・仁川基地防護大隊と、韓国海兵隊第8旅団第83大隊の幹部がふたり連れだって、自衛隊員らを迎えた。
前者は字面のとおり、仁川市一帯の海軍施設や仁川港、仁川国際空港等の防御を担当する部隊である。また仁川海域防御司令部の下には第27戦隊という水上部隊もあり、現在も仁川港周辺に12.7mm重機関銃を備えた警備艇を浮かべ、自爆ボートへの警戒にあたっていた。
後者の海兵第8旅団は通称“白虎旅団”。上級部隊は西海岸の防衛を担当する韓国海兵隊第2師団であり、その中でも第8旅団は仁川港の警備に割り当てられた部隊だった。
「HENTAIって褒められてんのか、けなされてんのか……」
仁川港に降り立った自衛隊員らは、すでに先行していた防衛省職員から情報を得ていたものの、現地で警備体制を敷いている両部隊の幹部から直接話を聞くことが出来た。
「夜が明けた」
韓国海兵隊第8旅団第83大隊の幹部は新国際旅客ターミナルの管理室に自衛隊側の幹部――先遣中隊長の轟学武三等陸佐と数名の尉官を招き、缶コーヒーを勧めながら、うんざりしたような口ぶりで言った。
「そしていま主要都市の電力供給は不安定。北韓の連中が発電所や送電網を攻撃した。日本兵の諸君、これがどういうことかわかるか?」
「夜間動けなかった避難民が一斉にこの仁川港に殺到する、ということか」
轟三佐は韓国語が堪能な部下に通訳してもらい、すぐに状況を把握した。
第83大隊の幹部、岡田斉賢少佐曰く、都市部にはすでに朝鮮人民軍の偵察兵らが浸透しており、安全な場所はないのだという。韓国兵の恰好をした北朝鮮兵が遊撃戦を繰り広げ、発電所や交通機関といった重要施設は断続的に攻撃を受けているらしい。土地勘がない在韓邦人は勿論のこと、現地の市民さえも常に危険に晒されている状況なのであった。
「正直言って、我々韓国兵だけで阻止するのは難しい」
「北朝鮮兵を、か?」
「違う。逃げてくる日本人とともに安全な場所を嗅ぎつけて大量にやってくるであろう市民を、だ」
岡田少佐は忌々しげに言ってから「あーいや、違う」と言葉を続けた。
「別にあんたらに恨み節を吐いているつもりはない。むしろあんたらが仁川港へ突入したおかげで、海上優勢がこちら側に戻った。すぐに韓国海軍第2艦隊司令部も船舶による市民の避難を検討し始めるだろう。そういう点で俺はあんたらに感謝している。……が、仕事が増えた」
「勿論、我々も必要な警備と邦人の乗船整理はする。そのためにライオットシールドや、万が一のための非殺傷武器も持ってきている」
「結構だ。ライオットシールドよりも自動小銃の方が役に立つと思うが……。こちらとしては自衛隊員のすべてをこの仁川港の警備にあててもらいたい。北韓の連中が紛れ込む可能性だってある。全員総がかりで身体調査をやっても捌ききれるかわからない。持ってきたあの車輛を使って、外に出ようとは考えるな」
轟三佐やその部下たちは岡田少佐が何を言いたいのか――自衛隊への批判なのか、それとも現状に対する愚痴なのか、その意図するところを図りかねていたが、ようやく理解した。これは忠告、ということか。
「申し訳ない」
轟三佐は頭を下げた。
「申し訳ないが、それは出来ない」
「任務だからか?」
「助けを求めている人々を見捨てることは出来ない。これは災害でも、戦争でも同じだ。自衛隊の存在意義、根幹にかかわることだ」
岡田少佐はちっ、と乾いた舌打ちをしてから「正しいな」と言った。
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次回更新は9月26日(日)を予定しております。




