■2.南侵前夜。(後)
華鉄一は、中国共産党中央委員会総書記と中央軍事委員会主席の兼任者である。
そして自身の信じる大義のためであれば、あらゆる犠牲を厭わないタイプの人間だった。
彼は、多種多様な民族が住まう中華人民共和国の繁栄は、明確な意思を有する強権的な党の指導でしかありえず、欧米的思想を無批判に受容することは内戦の誘発、つまり破滅を意味していると本気で考えている。
加えて欧米式民主主義や無制限の人権の保障、言論の自由――こうした概念を拒絶する以上、いつかは自由主義を掲げる国々と干戈を交えることになる、というのが彼の持論であった。
真っ黒に染めた黒髪をオールバックに固め、肉をよく食べ、地方を巡視に回り、テレビやインターネット番組によく出演し、常に精力的な指導者を演出している男は酔うとよくこう言ったものである。
「美国との戦争は必ず起こる――絶対に変えられない運命のようなものだ。我々に変えられるのは、戦争をいつ起こすか。これだけだ」
そして彼は自身の国家主席在任中に台湾や周辺の島嶼に関係する諸問題を解決し、将来の脅威を取り除くことを決意していた。
近い将来、中国公民は少子高齢化問題に直面し、経済成長は緩やかな上昇と下降を繰り返すようになるだろう。軍事力・国力が周辺国に対して相対的に強力であるいまならば、日本政府が主導して構築した包囲網を突き崩せるが、10年後、20年後、それ以降がどうなるかは分からない。
問題になるのは、やはり美国。次いで日本、韓国だ。
台湾の脆弱なる軍備を粉砕することは容易だが、西部太平洋が侵されることをよしとしない美国政府は必ず武力介入してくるはずである。陸路を朝鮮民主主義人民共和国に押さえられているために事実上の海洋国となっている韓国、石油や鉄鉱石、石炭、液化天然ガスを海外からの輸入に頼る島国の日本も、アメリカ海軍の支援に乗り出すに違いなかった。オーストラリアや欧州諸国も介入してくるかもしれない。
ではどうするか?
そこで華鉄一国家主席が考え出した答えこそ“朝鮮・台湾同時危機”。朝鮮人民軍が韓国を攻撃、ほぼ同時に中国人民解放軍が台湾を攻め落とす。
世界最強の軍事力を誇る美国といえどもその遠征能力には限界があり、さらに世論は泥沼となりそうな戦争を忌避するはず。であるから朝鮮半島から台湾に至るまで、故意に戦闘地域を拡大することで、彼らの対応能力を飽和状態か、あるいはそれに近いところまで持っていこうというのだ。
一歩間違えれば無謀の一言で終わる大戦略だが、ここ数年に亘って軍備増強に努め、量は勿論のこと、質も向上した中朝両軍なら可能だろうというのが華鉄一国家主席や中央軍事委員会の予測であった。
「閣下と直接お会いして、こうして御礼を申し上げることができたことに感激しております」
中国共産党の中枢ともいえる中華人民共和国北京市『中南海』の某所では、黒革のソファに座る華鉄一国家主席に対して、ダークスーツ姿の朝鮮民主主義人民共和国最高指導者・李恵姫が頭を下げていた。
李恵姫は、親中派の幹部を粛清した兄とは異なる。
兄が精神的重圧による持病悪化で政務を退き、その代行となった彼女は対中関係の改善を早々に試みた。
他方、華鉄一国家主席からすれば、これは渡りに船であった。日美豪印の包囲網を打破するための手駒が欲しいところだったからである。
以降、ふたりは緊密な連携をとる同盟者となった。
「こちらこそ、盟友の来訪を歓迎するよ。どうぞ座ってくれたまえ」
華鉄一国家主席は鷹揚に着席を促した。
彼にも、李恵姫にも、周囲の人間にも緊張する様子はない。
朝鮮人民軍は動員を終え、再戦の命令をいまかいまかと待っている。
中国人民解放軍は戦闘配置にこそついていないが(彼らが台湾侵攻の動きを本格化させるのは、朝鮮人民軍による南侵が始まってからだ)、戦争に必要な軍需物資の集積と分配を密かに進めていた。
裏切りや出し抜きを疑う段階ではもうない。あとは実行に移すのみである。
「朝鮮人民軍は1か月で南傀儡政権を打倒します」
李恵姫はにこやかな笑みを浮かべながら、冷徹な声色で言った。その瞳はヒトの女性のそれ、というよりは捕食獣のそれに似ている。彼女は続けて背後に立つ部下に促し、居合わせる中国共産党幹部らに1枚の紙を渡させた。
「これは?」
「南傀儡政権関係者を中心とした逮捕者リストです。朝鮮民主主義人民共和国の国内法に照らして、彼らにはすでに有罪判決が出ています。みなことごとく死刑。捕らえ次第、即座に殺すつもりです」
「素晴らしい」
華鉄一国家主席は笑って手を打った。
「我々も李女史に倣い、台湾の反動分子の逮捕者リストを作成するとしよう」
華鉄一国家主席の言葉に周囲も同調するように笑った。
笑っていないのは孫徳荘国防部部長のみである。彼は無邪気には笑えない。孫徳荘は中国人民解放軍・旧南京軍区司令官から中央軍事委員会参謀部の参謀長を務め、国防部部長へ就任した経歴の持ち主である。
(この女、すでに勝ったつもりでいるのか)
軍事の最前線を退いた現在でも鍛錬を欠かさないこの60代の男は、疑いの目を李恵姫に向けた。
国家とそれを構成する人間が死力を尽くすのが戦争だ。
前準備の段階で勝利を確信しても、どうなるかは分からない。
朝鮮人民軍も中国人民解放軍も緒戦から大部隊を投じることになるが、そのために大量の軍需物資を集積しなければならなかった。
そのため台湾は勿論だが、日本政府も有事が近いと感づいている節がある。
日本政府から防衛出動準備命令は発されていない。そのため陣地構築は行われていないが、陸海空自衛隊は転地演習の建前で対馬島や九州島へ輸送部隊を集めている。どうやら彼らは朝鮮人民軍が確実に動くと判断し、韓国国内の邦人輸送の準備を進めているらしかった。中国人民解放軍の動向に勘づいているかは不明である。
そんな孫徳荘国防部部長の懸念をよそに、歓談は進んでいく。
「李女史はどうかね。このまま北京に滞在されるおつもりか。ここならば平壌よりも安全だと思うが」
「お気遣いいただきありがとうございます。しかしながら、私が解放戦争の陣頭で指導にあたることこそ人民軍将兵、そして亡き曽祖父も望んでいることでしょう。明日には戻ります」
「では予定通り――南朝鮮と美国の連中を散々に痛めつけることを期待している」
「ええ、無礼な南の犬と海の向こうの餓狼どもを教育してさしあげます」
「期待している」
華鉄一国家主席に対して、李恵姫はもう1度うやうやしく礼をした。
開戦は6月中旬。朝鮮人民軍が奇襲攻撃を仕掛けて朝鮮半島南部を席巻するとともに、タイミングをずらして中国人民解放軍は台湾へ渡洋侵攻することになっていた。
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次回は7月11日(日)18:00更新です。
ついに新生した朝鮮人民軍が南侵を開始します。