■1.南侵前夜。(前)
丹精された田園に午後の軽雨が降り始める。
田畑やあぜ道で作業中の老人たちは濡れるのもいとわず、ただただ黙々と手足を動かしている。長きに亘る飢饉と、弱者いたぶる疫病から息を吹き返した農村。その田園地帯のど真ん中を南北に貫通する長大な自動車道にも雨水は染みていき、土埃っぽい雨の臭いを立ち昇らせた。
辺りに響くのは雨水が木の葉を叩く音――その中に、異質の音響が混じり始める。
鋼鉄が軋む音。無限軌道の音。怒号と、クラクション。
そしてその音響に遅れ、のどかな田園地帯を突っ切るようにその姿を現したのは、再編されたばかりの朝鮮人民軍第2軍団第21戦車旅団の一部であった。
車列の最先頭を往くのは主力戦車だ。
だがその外見は農作業中の老人らが見慣れている“お椀型の砲塔”を有するそれではない。
楔形の複合装甲を纏った鋭角的フォルムの砲塔、そこから伸びるのは51口径125mm滑腔砲。従来の朝鮮人民軍の主力である天馬号戦車が備える115mm滑腔砲よりも強力であり、さらに砲塔内部にはイスラエル製の射撃統制装置が搭載されている。それだけではなく、車輛間で目標情報を共有出来るデータリンクシステムを装備。次世代の戦争――“ネットワーク中心の戦い”に適応している。
朝鮮人民軍の戦車兵の誰しもが羨望し、褒めちぎるこの最新型戦車――その名は、VT-4主力戦車。
このVT-4は朝鮮人民軍内部では“紅旗号”という名で通っている。勿論、北朝鮮の科学技術陣が独自開発できる代物ではなく、このVT-4は中国製の最新型輸出専用戦車だ。2017年にタイ陸軍に採用された後は、パキスタンやナイジェリアにも販売された実績をもつ。
朝鮮人民軍も数百輌を輸入し、前線配備軍団へ優先的に配備している。
そのVT-4数輌の後に、いくらか歩兵戦闘車等の装甲車輛が続いていく。
農夫らは鋼鉄の車列を遠目で一瞥すると、次の瞬間にはその存在を意識の外へ、意識的に追いやった。思考停止。思考を巡らせても無意味というのが、自身の青春から愛する家族まで多くのものを奪い取られてきた彼らの哲学であった。
ここは南傀儡政権の勢力圏に最も近い前線地帯のひとつ。
5個師団と1個戦車旅団を擁する第2軍団の管轄地域・黄海北道。
そして新たに開通した自動車道はずっと南まで伸びている。
◇◆◇
いまや中華人民共和国が朝鮮民主主義人民共和国へ支援の手を差し伸べていることは、公然の秘密となっていた。
巨額の経済援助、エネルギー供給、輸出用軍事兵器の供与――遠慮ない金と鉄とテクノロジーの投資。
世界第2位の経済大国の下で、死に体の北朝鮮は蘇生した。
国際社会はこれを問題視して経済制裁を発動したが、対する中国共産党側は開き直りの反撃的経済制裁に出た。こうした経済戦争の勃発を見越してか、2021年に中国共産党は中華人民共和国に対して経済制裁を行う外国へ逆制裁を可能とする“反外国制裁法”を制定していたのである。
無論、日米両政府は猛烈に抗議したが、中国共産党はどこ吹く風といった体。彼らは明確に周辺国へ喧嘩を売りながら、北朝鮮に“テコ入れ”をしていた。
その理由はただひとつしかない、と各国政府高官は思った。
「中共(中国共産党)は北韓を単なる緩衝地帯から、中華覇権主義の一翼を担う同盟国に格上げするつもりだ」
大韓民国首都ソウル市龍山区にある国防部庁舎の一室には、“憂国派”と称される数名の韓国軍高級将官がつどっていた。
彼らは、泰然自若の朴陸軍参謀総長を中心とした国防部の制服組、つまり実戦部隊の高級幹部たちから成る一大派閥である。特に陸軍・空軍出身者が多い。国防部の背広組や一部の議員からは“滅共派”と後ろ指をさされることもある。
確かに彼らは北韓独裁政権の脅威からいかに国民の生命を守り抜くか、そればかりを四六時中考えている生粋の反共主義者だ。それは自他ともに認めるところである。
だがそれを差し引いても、韓国戦争(朝鮮戦争)再戦の瞬間が刻一刻と近づいてきていることは明白だと、彼ら“憂国派”の人間は思うのであった。
「半年前から始まった緩やかな動員で、北韓の4個前衛軍団は完全に戦闘態勢へ移行した。偵察衛星によると第820戦車軍団の諸駐屯地に駐車する車輌が減り続けている。後詰となる平壌周辺の第3軍団の動向は不明だが――」
開戦の決意は明らかだ、と朴陸軍参謀総長は結んだ。
日焼けした横顔に、苦いものが走っている。短く切り揃えられた白髪をかくと、「戦争だ」と今度は苦笑いと微笑みが入り混じったような表情をみせた。
それに続く形で一同の中では比較的若手の大韓民国空軍空中戦闘司令部・金大学空軍少将が、苛立ちを隠そうともしないままに口を開いた。
「戦争はもう覚悟の上ですよ、朴閣下。それで我らが総大将――白武栄大統領閣下はいつ動員開始や陣地構築のご命令を下されるんですかね」
「命令が出ることはあるまい。戦備を整える時間はなかろう。大統領閣下に北韓と事を荒立てるご意思はない」
「だと思いました。さては北韓主導の統一朝鮮でも作って日本人野郎どもと戦うつもりなんですかね、大統領閣下は。だとしたら大した戦略眼の持ち主だ。くされジジイの老眼だと最も近い隣国の動向も見えなくなるのかな」
金空軍少将の明け透けな言葉に周囲は曖昧な笑みを浮かべたが、彼らも若き空軍少将の気持ちは分からなくもなかった。
北朝鮮が戦時動員を進める一方で韓国側は何をしているかといえば――何もしていないのである。
韓国大統領の白武栄は北朝鮮を刺激することをこの時期、極度に恐れていた。
これは彼の外交努力の一成果、数年ぶりの南北首脳会談が2か月後に板門店にて開催される予定になっているためであった。
――なんたる愚劣か。
それが憂国派の将官らの偽らざる感情だ。
白武栄大統領は対北宥和・対日強硬派である、と断じてもいい。
金空軍少将は一度、この大統領の頭脳を覗いてみたいと思うほどだ。もしかすると彼は北韓と協力して日本を討とうとでも考えているのか、と疑うときがある。
白武栄大統領は、中華人民共和国に負けじと北韓に多大な人道支援を行い、それに留まらず南北を貫く交通網の整備や、在韓米軍の基地返還運動と在韓米軍地上戦力の縮小に取り組んできた。
その具体的な成果は、アメリカ陸軍第8軍の撤退だ。
在韓米軍再編の動きは2010年代から始まっていたことで、驚くにはあたらない。
だがしかし、まさか戦闘部隊である第2歩兵師団や、パトリオット地対空ミサイルを備え、中距離弾道ミサイル防衛能力を有する第35防空砲兵旅団が韓国を去ることになるとは、朴陸軍参謀総長らは夢にも思わなかった。
憂国派の彼らからすれば、宥和政策というよりも利敵行為に近い愚行である。
だが白武栄が選挙に勝利したのは間違いなく、朴陸軍参謀総長ら武官は彼らに従うほかない。
あまりに北朝鮮に利するようにみえる政策を打ち出すことから、ゴシップ紙などは白武栄の選挙活動を朝鮮人民軍サイバー部隊が手伝ったのではないか、と取り上げたが真偽は明らかではなかった。
「金くん。自由と民主主義を尊崇する大韓民国の軍人として、口を慎むようにしなさい。とにかく我々は平時の態勢で北韓と戦わなければならない」
「閣下、口は慎むようにいたします。武人としてあとは戦うのみ。開戦となれば、まず手始めに青瓦台へ2000ポンド爆弾を落とすようにしますよ。……それで勝ち目はあるんですかね」
「厳しい」
朴陸軍参謀総長は率直に言った。
「平時から最前線に張りつく朝鮮人民軍の連中だけで、4個軍団――その内訳は20個歩兵師団と5個戦車旅団。さらに再び軍団級に昇格した平壌南方に駐屯する第820戦車軍団が参陣するとなれば――軍団所属の5個戦車旅団が新たに加わる」
「あわせて10個戦車旅団」
「第820戦車軍団は主力戦車だけでも600輌を数える一大機動打撃戦力だ。それが西部戦線を直撃することになる。38度線全体で捉えると、北韓どもは主力戦車だけで1000輌以上揃える計算になるな。戦車以外の装甲車の数など考えたくもない。我が陸軍が支えきれるかはわからない。予算食いの海軍の潜水艦やイージス艦はこの局面では役に立たん。……空軍は青瓦台へ2000ポンド爆弾を落とす前に、連中を空から皆殺しにしてもらいたいものだ」
「勿論、そのつもりですよ」
金大学空軍少将は米空軍大学の卒業者であり、韓国戦争(朝鮮戦争)再戦となれば圧倒的な航空優勢の下で湾岸戦争の再現をやるつもりでいた。
韓国国内の戦闘航空団を指揮下におく空中戦闘司令部では、密かに航空作戦の練り直しや基地警備の強化を行っている。
緒戦で恐れるべきは、3つ。
北韓の工作員が仕掛ける破壊工作。
北韓の弾道ミサイル等、長距離火力投射による地上被撃破。
そして、再建された朝鮮人民軍空軍による先制攻撃。
この場では金大学空軍少将は口にしなかったが、内心では大韓民国空軍もかなり厳しい戦いを強いられると思っている。
破壊工作やミサイル攻撃、これは従来からずっと考えられてきた脅威だが、緒戦の奇襲性に頼るところが大きく、語弊はあるかもしれないが“一過性”の戦術に近い。
どちらかといえば、中華人民共和国の援助を受け、文字通り息を吹き返した朝鮮人民軍空軍の戦闘機部隊との航空戦こそ彼の懸念するところであった。
その後、憂国派の将官らは一通り情報交換と愚痴のこぼし合いをしつつ、制服組(武官組)のトップである任義求合同参謀本部議長や国防部長官を務める李善夏議員に、戦時体制への移行を強く求めることを決定した。
ただ金大学空軍少将は、合同参謀本部議長や国防部長官が大統領を動かせるとはまったく思っていない。なにせこのふたりの高官は白武栄大統領のイエスマンであり、嫌々イエスマンを演じているというよりは、むしろその忠誠心を自身のアイデンティティとしている節がある。
(3バカのせいで流れなくてもいい血が流れ、大勢の国民が死ぬかもしれないのかよ)
と、金大学空軍少将は思ったが、さすがにそこまでは口にしなかった。
もしかしたら北韓の動員はブラフかもしれない。開戦となったら思いのほか順調に防戦、反撃がうまくいくかもしれない。
期待というよりは祈りに近いが、彼はそう願わざるをえなかった。
さて、金大学空軍少将の思ったとおり、合同参謀本部議長や国防部長官は動かなかったし、朝鮮人民軍の異変に「韓国戦争再戦か」と騒ぎ始めた一部報道を、白武栄大統領は一笑に付した。
「我ら南北の兄弟の意思。それは懲日で一致している。それを次の南北首脳会談で話そうとしているのに、なぜ水を差そうというのか」
さすがに公言こそしなかったが(公言すれば米国政府が黙っていない)、彼は任義求合同参謀本部議長や李善夏国防部長官にそう語った。
北韓の核戦力と陸軍力、韓国の空軍力と海軍力をもってすれば、日本政府を屈服させることは容易。日本政府に朝鮮民族への賠償金約1兆ドルを支払わせ、この資金を南北統一の課題解決に向けた予算とする。
それが白武栄大統領の野望――否、誇大妄想であった。
ところが2か月後、その白武栄大統領の夢想は脆くも破れることになる。
朝鮮民主主義人民共和国の事実上の指導者、李恵姫は板門店には来なかった。
「歓待ありがとう。鉄血で結ばれた絆に感謝を申し上げるとともに、中国公民の期待に応えることを、朝鮮人民を代表してお約束しましょう」
李恵姫は、北京にいた。
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次回更新は7月9日(木)となります。
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