ごうかく→
暦の上では、暖かい季節ではあるがまだ夜は冷える。
襖の隙間から冷えた空気が漏れる部屋で、私は半身だけ布団へと潜らせた。
それでも、着物の胸元の合わせから冷えた空気が触れてくる。
そして、残りの寝支度を整える。
後は髪の手入れだけだった。
香油を手に取り、おろした黒髪になじませていく。
ふわりと椿の匂いが香る。
一日中働いた私にはたった数分のそれが、至福のひとときであった。
丁寧に髪を梳いていく。
やはり、指だけでは限度があるのかしら。
時折、指が上手く通らない。
私の使っていた櫛は先日、歯欠けの状態でだましだまし使っていたがついには最後の歯も欠けてしまった。
私のお給金では香油を買うのすら、贅沢なのに。櫛もとなると、食費を切り詰めるしかない。
髪の手入れを終えた私は、早朝からの仕事に備え布団の中で目を閉じた。
櫛が壊れてから数日後、私の休日の日となった。
特売にかけられたものでも、安物でもいいからと私は街へと向かった。
人の喧騒と溢れるほどの品物が店先に並ぶ街は、私にとって毒になるほど魅力的な場所であった。
ふらりと甘い匂いを撒く菓子の店へと向かいそうになったが、今日の目的はそれではない。
後ろ髪を引かれながらも、私は雑貨店へと歩き出す。
色とりどりの雑貨が並ぶ小さな店で、私は立ち止った。
道路に面した台の上に、女性が好みそうな装飾品やらが置かれている。
櫛も同じように置かれていた。
私はそのうちの一つに目を奪われた。
半月型の平たい櫛は、淡い木の色をして持ち手の部分には花や蝶が木目とよく合う淡い色で描かれていた。
おもむろに私はその櫛を手に取った。
近くで見ても、店頭の鏡に映しても美しい櫛であった。
これにしよう。
私はそう思ったけれど、値札を見ればその決心はすぐ揺らいでしまった。
とても私のお給金では買うことができない。
今日持ってきた巾着を触る。中にはお金が入っているが、全部出しても足りない金額だ。
あきらめよう。
けれど、まだ気持ちの揺らいでいた私はしばらく手のひらに載せた櫛を撫でて眺めていた。
その時、ふと私の頭の上の方から声が落ちてきた。
「その櫛が欲しいのかい」
顔を櫛から上げると、そこには栗色の髪が艶やかな着物姿の男性が立っていた。
私ははっと悟り、櫛を台へとすぐに戻した。
きっとこの櫛が買いたかったのに、私が手に持っていたから買えなかったのだろう。
この方に悪いことをしてしまった。
私は頭を下げ、謝罪を口にする。
「申し訳ございません」
「いや、謝らなくていいよ。君に謝られるようなことはされていない」
手を振って男性は否定した。
「それよりも。君はずいぶんとこの櫛を気に入っていたようだけれど、買わないのかい」
「はい、私の持ち合わせたお金では足りませんので」
男性から地面へと目線をそらし、私は答えた。
「それはしようがないことだな。しかし、これも何かの縁。僕が君に贈ろう」
「いえ!初対面の方に贈っていただけるような品物ではございません。ご自身の物を買ってください」
私は男性の言葉に顔を上げて、急いで首を振る。
「まあ、君がこれまで頑張った天からの褒美だとでも思ってくれ」
男性は口元に笑みを浮かべながら、あの櫛を取り店主に声をかけていた。
「ですが、あの・・・。もしやあなた様は海の向こうからやってこられたのですか」
懐から財布を取り出し、お金を払う男性に唐突であるが聞いてみた。
海の向こうの国では知らないが、この国では男が女に櫛を贈ることには意味があるのだ。
もし、櫛を贈る意味を知っていたら、初対面の人間に櫛を贈るなどとはしないだろう。
「んー。生まれは海の向こうだよ」
箱に入れられた櫛を受け取った男性はそう答えた。
やはり、と私は確信する。
この方は、櫛を贈る意味を知らないのだ。黙ったまま受け取ってしまっては申し訳ないと、その意味を伝えようと私は口を開いた。
「あの・・・」
「はい、いつも頑張っている君へのご褒美だよ」
そう言われ、私は右手を取られ手のひらに箱を乗せられた。
そして、頭を撫でられる。大きく暖かな感触を頭の上で感じた。
「じゃあ、またね」
弁明する間もなく、髪色と同じ明るい瞳を細め男性はその場を去ってしまった。
雑貨店の前で櫛の箱とともに私は取り残されてしまった。
お礼をしようにも、名前を聞くこともできなかった。
ふと、手の中の箱を見る。
男性は『頑張った褒美』だと言っていた。それならば、これからも仕事に励もうと意図せず用事を済ませた私は仕事場のお屋敷へと帰ることにした。
その日の夜、いつものように布団に半身を潜らせ、寝支度をする。
香油を髪になじませ、早速もらった櫛で髪をとかしていく。
最近の手櫛より、艶めいて髪がまとまっていった。
以前の櫛よりも、値が張る品物だからなのかもしれない。
この櫛に見合う働きをしよう。
そう意気込んで私は眠りについた。
しばらくして、私の働くお屋敷に栗色の髪の男性が客人として現れたのはまた別のお話である。