5 自己紹介しましょう
生贄。生贄といったか。
だが、生贄は要らぬから嫁にとは…いまいち流れが解らない。
「経緯を知るか? 愉快な話とはいかぬが…」
「教えてくれると嬉しいです」
焔様は、特に感情の見えぬ目と表情のまま、言った。
「巷では、新たな病魔に悩まされていると聞いた」
それは聞いたことがある。
ニブフイエは、一昔前の日本のような国で、医療はまだそう発達してはいない。
流行り病として新しい病気が蔓延しても、それと気づくのに時間がかかり、治すのにはもっと時間がかかる。
そうぽんぽんと新しい病気が見つかるものでもないが、見つかると大騒ぎになる。
今回も、40年ぶりだとかで騒がれていた気もする。
身近に患者がいないせいもあって、インターネットのないこのご時世、尚のこと対岸の火事のような感覚でいた。
「鬼神族は病魔や災厄を生むと信じられている」
だから生贄が…。
成る程、前世の昔話にはありがちなやつだ。
けど、なんで私よ? それとも名指しじゃなくて、実は生贄志願者を探してたとか、そういう話?
疑問がそのまま顔に出たのか、焔様は小さく笑った。
…顔が幼子を見るそれなんですけど。
「今回、その病魔はとある娘が原因だと、人間たちは考えたそうだ」
なんつーはた迷惑な。
………………え、それが私?
思わず右手の人差し指で自分の鼻先を指差した。
「そうだ。勿論、因果関係など無い。だが、時に思い込みは事実より重視される」
マジかよ。えぇー…。
父も母も悲しむ訳だ。
なのに何も解らんと「ワカリマシタ」とか言ってすみませんでした…。
ほんと……ホントすみません…。
「だが、そんな形でこちらに勝手に人間を増やされるのも、正直面倒でな」
え、ああ、そうですよね。
生贄は別に要らないんだったら、そりゃいきなり食い扶持が増えるだけだもんね。
「だが、こちらの返答1つで人死が出るのも、この山を持つ領主たちと険悪になるのも避けたかった」
ふんふん。
最早先ほどまでの恥や申し訳なさなどどこ吹く風で、朽葉さんのいれてくれたお茶を飲む。
お、温い。猫舌な私にはこれくらい冷めちゃった方が美味しい。
「受け入れるからには同胞として扱う。ならば、鬼に嫁ぐ気概がある娘ならば許す、と、そう条件を出した」
……………………。
ワア、オチャガオイシイナァー。
大変申し訳ないです。私のいからっぺな返事が全ての根源でした。
二度目がないようチャレンジャー海溝より深く反省いたします。
この先同じ提案がされることすらないだろうけどね!
再び私は小さくなっていく。
「そうしたら、お前は来た。………来たのだ」
ハイ、モウシワケアリマセン。
恐縮に恐縮を重ねて顔色を伺うと、焔様と目が合った。
紅蓮に燃える瞳に、嫌悪の感情は伺えない。
困り果てたでもなく、例えるなら夢見たことはあっても、実現したとは思わなかった物を見つけたような。
UMAや宇宙人の類ではなく、どちらかと言えば、そう、渇望すらした神を見つけたかのような、そんな不思議な熱をもつ瞳だ。
その熱量は予想外でしかなく、流石に私は狼狽た。
「だが、聞けば勘違いでこちらへ来たに過ぎぬという…」
続く言葉は静なままだ。
だが、何か。何かが先程までと違う。
それが何なのかは、全く解らない。
黒髪の鬼は続けて言う。
「だから今一度問おう。今ならば帰れる。元の家に帰るも、この家…俺に嫁ぐも、お前の自由だ」
そう言い切る鬼の瞳は、ぎらぎらと輝く光がある。
それが何なのかも、全く解らない。
ただ、この鬼は何かを期待している。そう直感した。
……何にどう期待されてるかは正直全く、全く解らないけど。
「どうする?」
吊り上がった口角は鋭い牙をよく見せた。
弓形の瞳は、答えを楽しみにしている猫のようだ。
冷たく静かだった鬼はここで初めて、笑った。
その笑みは、正に鬼を連想するに相応しい恐しさをもっていた。
……ここは怖がる方が良いのだろうか?
とか思ってしまうあたり、私には大した意味にならないようだが。
自由とはいうが、じゃあ帰りますと言って帰ったとして、その場合の私の命の保障はないだろう。
かといって、図々しくじゃあよろしくというのは…なぁ…。
前世の控えめな日本人気質っていうんですか? なんかこう…倫理的にちょっと悩む。
それに何より、私には疑問があった。
「私がここに残る場合、それは私一人の問題には出来ませんよね? 焔様は本当にいいんですか?」
こんな女を嫁にというのは。
いくら大した関心がないとはいえ、気遣いくらいする。
出来れば無害な存在でありたい。
私の言葉を聞いて、焔様は目を見開いた。
だが、彼が何かを言うより先に、くすくすと笑い声が部屋の隅からした。朽葉さんだ。
彼女の笑いの沸点は低いようだ。そしてツボは謎だ。
だが、彼女が何かを弁明するより先に、焔様は口を開いた。
「災いを生むという鬼神族の側に在る事を、考慮した上でそう言うのか」
再び彼の方を向いたが、俯いていて表情が見えない。
その声は不思議なほど静かで、不気味なほど低かった。
が、何が言いたいのか解らない。
随分と私はいい加減にこちらに来てしまったが、返事をした時点で死すら覚悟しているのだ。
今更災いの一つや二つに、どう怯えろというのか。
第一、ちょっとやそっとの災いごときで、私の幸せは揺らがない。
沈黙を肯定ととったのか、焔様は小さく小さく、なんとか聞き取れるくらいの声で、「そうか」と呟いた。
そしてまた何かを口にしたようだが、もう流石に聞き取れなかった。
だが、再び上げられた焔様の顔は、先程の笑みでも冷たい表情でもなく、柔らかい微笑みだった。
………イケメンなので中々の眼福だ。
そしてお茶が美味しい。
「私はお前が望むなら受け入れる。第一、端からそういう約定だ」
今更だけど、この人の言葉遣いは古めかしいというか堅苦しいというか、なんだか慣れない。
そんなどうでもいいことを頭の片隅で考えてしまったが、悟られてませんよーに。
彼の中で何か心境の変化があったようだが、全く解らない。
とにかく、何故かすこぶる機嫌が良くなったらしい焔様は、柔らかく微笑んだままだ。
朽葉さんが気難しいとか言ってた気がするけど、確かにそうかもしれない。
「では、不束者ですが、末長くよろしくお願いします」
湯飲みを置いて、座り直し、深く頭を下げる。
髪に挿した簪が、しゃらりと軽やかな音を立てた。
頭を下げたままでいると、焔様の方でも物音と衣擦れの音がした。
「鬼神族、族長にして最後の生き残り。秋雨焔と申す。我が一族へ歓迎致す。至らぬ夫であろうが、末永く、よろしく頼む」
その言葉に思わず顔を上げると、同じように居住まいを正して頭を下げる焔様がいて、思わず頭を下げ直す。
というか私、そうだ、自己紹介すらしてなかった。
「名乗りが遅れまして申し訳ありません。稲井蛍と申します。至らぬ妻でありましょうが、どうかよろしくお願いします」
慌てて二度目になってしまった挨拶をやり直す。
部屋の隅から押し殺した笑いがしっかり届いていて、なんだか気恥ずかしい。
「朽葉」
咎めるような焔様の声に、ハイ、と震える声がする。
絶対笑ってて震えてる。
「お顔をお上げ下さい、奥様」
あー、そっか。奥様か。
自分で決めといて名乗っておいて、他人に呼ばれて初めて実感が湧いてくる。
ゆっくり顔を上げると、もう顔を上げていた焔様の隣に、朽葉さんが座っていた。
…移動した事に気づかなかった。
「このお屋敷で奉公しております。三鼓朽葉と申します。使用人はあと2人ほどおりますが、後ほどご紹介します。今後とも、よろしくお願い申し上げます」
三つ指ついた朽葉さんは、とても美しく頭を下げた。
……正直私が焔様の隣にいるより絵になると思う。
馬鹿丁寧に挨拶をくれたことに驚き、こちらも慌てて頭を下げてしまった。
…使用人となる人に頭下げるのっていけないんじゃなかったかな…。
思わず礼節に厳しい母の顔が脳裏を走ったが、まあ知るものか。
どうやら、殺される未来も、アホほど嫌われる未来も回避できたようだ。
相変わらず愛もへったくれもあったものではないが、この人の事なら大切にできそうだと、漠然と思った。
もう帰れないだろうと言うことがようやく実感を伴ってきたが、怖くも寂しくもなかった。