episode 9 友情の策略
目が覚めた。
正確には、意識が醒めたというところか。
どこなのか判らないが、静かな場所のようだ。
少なくとも、危険な場所ではなさそうに感じる。
俺は横たわっている。
眠っていたらしい。
暑くも寒くもない。
そして硬くも柔らかくもない。ふんわり宙に浮いているような気分だ。
どれくらい眠っていたのだろうか。
目を開けようとした。
瞼がピクピクして上手く開けられない。
なんとか薄目が開いてのろのろと目を左右に動かしたが、薄暗くてよく見えない。
両手に力を入れてみた。
指一本ピクリとも動かない。
脚も同じだ。
少し目が慣れてきた。
僅かな陰影で、天井に、丸太で組まれた梁があるのが見えてきた。
そこでようやく自身の体重を認識した。
宙には浮いていない。ベッドに寝かされている。
もう少し見えてきた。
何処からか微かに光が差して俺の足元を照らしている。
暖かい日の光ではない。
冷ややかな月の明かりだ。
今は夜、らしい。
幾つかの独特の匂いに気付いた。
酒? ――消毒用の酒だな。
あとは、土、いや草だ。 ――薬草だな。
それに、控えめに何かハーブの香りもする。ラベンダーではない。
ああ、思い出した。
ラベンダー畑のある村に、アンドレス、エミリーと三人で訪れて、魔獣と闘った。
闘いの後、怪我人を介抱している最中に俺が気を失って・・・。
もう一度、両手に力を入れてみた。
今度は拳を握ることが出来た。
頭だけを動かす。
右は壁だ。
次に逆を向くと、左には人影があった。
すぐ傍らの椅子に座っているようだ。
窓から入る月光を背に受けて影になっているため顔はよく見えない。
しかし彼女だと気付いた。
座りながら寝ているようだ。俺の様子を観てくれていたのだと気付いた。
彼女がユラリと動いた。
「マスター?」
「やぁ。エミリー…」
フルフルと彼女が震えているのが判った。
自分の心がみるみる申し訳ない気持ちで一杯になり、次の言葉が出てこない。
「マスター、心配したんですから…」
すっと椅子からベッドの端へ座り直し、横になったままの俺の左手を両手で握ってくれる彼女。
月光の当たり方が変わって彼女の表情が僅かながら見えて、心を締め付けられた。
彼女の頬から顎先まで光を纏うものが伝い、俺の左腕に落ちた。
気が付けばさっきより彼女の顔が近い。吐息が届くほどに。
「エミリー。」
俺の左手を握る彼女の両手に、残った右手をそっと重ねた。
そっと、ではなく、恐る恐る、だ。
「マスター…」
一方的かも知れない。
嫌がられ、離れていき、店も辞めると言うかも知れない。
そんなことが頭をよぎったが、湧き上がる感情は病み上がりの身体を突き動かした。
彼女の手に重ねた右手を一度離し、そのまま彼女の左肩から首の後ろに回してぐっと引き寄せた。
抵抗もなく俺の胸の上にドサッと倒れこんでくる彼女。
「ワワッ…」
ここは「キャッ」とか言うと思ったが、本当に驚いたときはそんな可愛い声は出ないのだろう、なんて他人事のようなコメントは我ながら感じが悪い。
そこでようやく我に返り、右腕をほどき、そっと彼女の両肩を優しく掴んで身体を離そうとした。
「ごめん、エミリー。」
彼女は俺の胸のうえで顔を振った。
そして、まるで俺から離れまいと言わんばかりに、両手を俺の背中にまわしてきた。
「ううん・・・嬉しいです、マスター。」
かわいい。
胸の上で、影になってはいるが、上目遣いで俺を見上げているのが判る。
もう次にすることは俺にも解る。
そこでようやく身体を起こす。
彼女も手伝ってくれた。
ベッドの上で二人座り、見つめ合い、僅かに静寂の時間が流れた後。
そっと、唇を重ねた。
抱き締めることもなく、二人とも両手をベッドの上に置いて、身を乗り出すようにして。
時間にして数秒だったが、平穏で幸せな空間がそこにあった。
「…おはよう。」
「…おはようございます。」
お互いに照れ隠しで何となく挨拶を交わし、その後はポツリポツリと話をした後は、静かに二人でベッドに並んで、手を繋いで、ただ座っていた。
…決意した。
朝が来た。
二人ともベッドに横になっているが、俺は十二分に眠った後だったので眠くならず、ずっと起きていた。
彼女は眠っている。
俺は彼女の寝顔を一晩中眺めていた。
彼女はずっと俺の看病をして疲れたのだろう、暫くそっとしておこう。
ベッドから降りて、改めて室内を見渡した。
薬草とかもあるし、てっきり村の治療院かと思っていたが、兵士たちを介抱していた部屋とは違うようだ。
あ、宿屋かも知れない。
同じ建屋のレストランには少し滞在したが、部屋には荷物を置きに入った程度だった。
治療院で倒れた俺をここまで移動してくれたのだろうか。
エミリーが?
そういえば彼女とは昨夜そういった話をしなかった。失念していた。
着替えて、部屋を出てみた。
うん。見覚えのある廊下、階段だ。
洗面室で顔を洗い、身なりを整え、階段を降りた。
広い部屋――レストランに幾つか置かれたテーブルのうち、目に付きやすい中央の席に、見覚えのある背の高い竜の獣人が座っていた。
彼はすぐ俺に気付いて手招きしてきた。
俺は彼の前の席に座り、すぐに近付いてきた店の人間に、コーヒーを頼んだ。
「アンドレス、貴方がここまで俺を運んでくれたのか?」
「ああ、そうだ。だが質問は先に俺にさせろ。ユーゴ、もう大丈夫なのか?」
「ああ、申し訳ない、大丈夫だ。エミリーも一晩ずっと診てくれていたようだから、すっかりこのとおり良くなった。」
「それは良かった。では、お前が倒れた後のことは、もう彼女から聞いたか?」
「いや、その、いま彼女は俺の看病疲れで寝てしまっていて、まだそこまで話せてない。」
「…そうなのか? では、話すとしよう。」
少し彼の口元が緩んだように見えたのは気のせいか。
いや、気のせいじゃない。
この人は朴念仁みたいな雰囲気を醸し出しておきながら実は誰よりも周囲の変化や何やら全てに敏感で鋭い。時に怖いくらいに。
コーヒーが運ばれてきた。
勿論うちの店のものとは違うものだが、いい香りだ。
「あぁ、頼む。」
その後、俺が治療院で突っ伏した後のことを聞かせて貰った。
エミリーが取り乱したこと。
薬師が駆け付け、俺は魔力欠乏症と診断されたこと。
エミリーがずっと俺から離れなかったこと。
タイミングよく程なくしてアンドレスが戻ったこと。
兵士は皆回復に向かっていること。
エミリーはずっと俺から離れなかったこと。
アンドレスがここまで運んでくれたこと。
エミリーが一人で看病すると言ってアンドレスは閉め出された?こと。
…随所に「エミリーが」をわざわざ挟んで話すのは止めてくれ。恥ずかしい。
「お前、愛されているな。」
「アンドレス、貴方わざとだろ。」
また彼の口元が緩んだ。
さっきより大きく緩んだ。
「噂をすればだな。おはよう。」
彼の視線の先にはエミリーが立っていた。
顔を真っ赤にして、固まっている。
少し泪が潤んでいるように見える。
これは確実に今の話を聞いていた反応だろう。
「…おはようございます、アンドレスさん。」
そして視線を下ろしたまま俺の左手側の席に着いた。
左側だ。昨夜と同じ位置関係だ。
アンドレスが悪い顔をしている。
いや、悪いやつではないのだが。
だがこの顔は、企んでいる顔だ。
「ユーゴの方には挨拶は済ませているようだね、エミリーさん?」
「…!」
アンドレス!彼女が固まっただろ!
また顔を真っ赤にして俯いてしまった。
と言うか、俺も真っ赤だ。
俺もいい歳だけど、恋愛経験なかったっけ。少なくとも記憶にない。
そもそも色々な記憶がないのだが。
「アンドレス、やはり貴方わだとだろ。」
「すまん、ユーゴ。ついだ、つい。」
悪い顔がイタズラ小僧っぽい顔に変わる。
普段は顔色を変えない彼だが、時々こんなふうにコロコロ表情を変える。
そう、二人で旅に出ているとき、こうやって俺を和ませようとしてくれていた。
そして和ませた後は決まって反省会だったり、注文をつけたり、何かを求めてきた。
全て、俺が少しでも強くなれるための、彼の優しさだった。
椅子に座り直し、佇まいを整える。
「アンドレス、貴方に見届けて…立会人になって欲しい。」
「何だ?」
アンドレスは俺とエミリーを交互に見据えた。
エミリーはまだ俯いている。
「俺は、もう一度、冒険者登録をする。もちろん最初は無理をしない。しかし今回ここに来て、戻るべき場所だと確信したんだ。」
「そうか。そういうことなら俺も協力したい。だが当分ソロで動くのは止めておけ。」
「あぁ、そうするつもりだ。出来ればアンドレス、貴方と動ければ有難い。」
「それはこちらからも頼みたい。お前は元々優れた弓矢使いだからな。ぜひ力を取り戻して欲しい。」
「あぁ、努力する。」
「店のオーナー業はどうするつもりだ?たびたび店を開けるのも良くないだろう。彼女には何と?」
と、本題に切り込んできた。
解っているぞ、という顔をしている。
そして、悪い顔をしている。
いや、悪いやつではないのだが。
「店は俺がいなくても大丈夫だ。」
彼は表情を変えない。
少し睨んでいるか?
「ハッキリ結論を言え、ユーゴ。お前、さっき話の冒頭で俺に何と言った?」
む、そうだな。立会人になってくれと、俺は言った。
あ、エミリーが持ち直して、佇まいを直している。
コホン、と咳払いを一つ。
「…エミリー。」
「は、はい、マスター、何でしょう。」
「…俺と一緒になってくれないか。」
エミリーが目を大きく見開いた。
そしてみるみる頬を紅潮させて。
「はい!」
パッとエミリーの顔が明るく輝いた。
アンドレスがフフンという顔で我々を見ている。我が子でも見るような優しい眼差しだ。こいつめ。
とか思ってたら、エミリーが少しつまらなそうな顔になった。
「マスター、後で二人だけのときに、もう一度言って下さい。」
ククッとアンドレスが笑う。
「もうプロポーズは済ませたという報告を貰えるのだと思っていたんだがな、ユーゴ。」
そう言って、またククッと笑う。
俺が気まずそうにしているところへ、食事が運ばれてきたようだ。
あれ?コーヒーしか頼んでいなかったと思うのだが?
「お待たせ致しました。当店おすすめのチョコレートケーキでございます」
と、大きめのホールケーキが運ばれてきた。
しかもロウソクと長めのケーキナイフがついている。
何だこれは…とアンドレスを見やるとやはり悪い顔をしている。
今日はこんなのばかりか。
「おめでとう二人とも。これは俺からの、と言いたいところだったが、レストランからのご祝儀だそうだ。」
パッと振り返ると、知らない間に恐らくレストランや宿の関係者がズラッと整列していた。
その中から1名、身なりのいい初老の紳士が歩み出た。
「本日は誠におめでとうございます。そして先日は村をお救い頂き、誠にありがとうございました。領主邸に出向中の村長に代わり、村を代表してお礼申し上げます。」
ポカンとしている俺をよそに挨拶は続けられた。
「村からは改めて謝礼を予定しておりますが、こちらは取り急ぎ、私どもからの御礼兼御祝いとしてお納め下さい。元々はアンドレス様の御注文でしたが無理を言って譲って頂きました。」
さらにポカン…という訳にもいかず、慌てて俺が立ち上がるとエミリーも続いた。
「ありがとうございます。御礼なんてとんでもない、ただ必死だっただけで…あとアンドレスの注文だったとはどういうことですか?」
店の支配人らしき人物に訊ねると、彼は朗らかにアンドレスに視線を向けながら応えた。
「急きょ婚約披露をするから何か用意出来ないかと、アンドレス様からご相談を受けまして。」
やられた。
いや、バレてた。
いや、これも何か違う。
「ごめんなさい、マスター。」
「え?」
「アンドレスさんに、その、そそのかされまして、私もそれに乗っかりました。」
「エミリーさん、そそのかすなんて、人聞きの悪い。いや、否定はしないが」
二人きりになる状況を作ったのも。
気持ちを高揚させる効果があるハーブを用意したのも。
俺が治療院で倒れた後のエミリーの様子を語ったのも。
駄目だ。今日は完全に彼の掌の上で踊らされている。
「…いいよ。背中を押して貰ったんだ、お礼を言わないといけないくらいだ。」
そうして唐突な即席婚約披露パーティ?は滞り無く進められた。