episode 8 さらに募る夢への想い
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
午前6時50分。
既に目は覚めていて、後からアラームが鳴った。
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
夢は、また見なかった。
旅行から帰った夜を最後に、もう4晩連続かな、あの夢の続きを見ていない。
軽い虚脱感。
あの子はどうしているだろうか。
兵士たちの介抱をしているところで俺は突っ伏して、意識が薄れゆく俺のことを「マスター、マスター」と呼び続けていた。
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
上半身を起こし、背伸びをする。
こころなしか身体が軽い。
ここ最近は夢を見ず眠れているからだろうか、疲れが幾らか抜けてくれたのかも知れない。
夢でも疲れることはあると、一時期ネットで調べていたので多少の知識はある。やっぱりそういうことだったのだろう。
しかし身体は軽くても、心は、晴れない。
「はくしっ!」
ベランダをウッカリ開けたまま寝てしまっていた。
季節は春とは言え朝晩は肌寒い。
ベランダを閉め、アラームを止めた。
「さて、起きるか。」
今日はやっと金曜日。明日は休みだ。
さくっと仕事を終わらせて今日こそポトフを作って食べよう。
それを想像するだけで少し心が軽くなるように思えた。
今夜は、あの子に会えるかも知れない。
「ゆーご先輩。」
「うん?」
昼飯を食べた後、自分の席でボンヤリしていた時に黒江さん・・・杏菜ちゃんが話しかけてきた。
今の呼ばれ方、「優護」ではなく平仮名で「ゆーご」って感じだった。
ヒトの聴覚器官で感じ取った空気振動には漢字も平仮名もなく、つまり俺の脳内変換に過ぎないのだが。
「風邪ひいちゃってます?」
無駄な脳内変換をリセットして彼女の問いに応える準備をする。
確かに今朝から何度もクシャミを連発して鼻もよくかんでいる。
「ベランダ開けっ放しで寝てしもうてさ、さっきから頭もボンヤリしてきたかな。」
「さっきからと言うより、先輩、最近よくボンヤリしてますよ?」
何を生意気を、と言おうとしたが、否定できない。
気が付けば考え事をしていることがある。
「ちょっと失礼しますよ?」
スッと、彼女が手のひらを俺の額にあててきた。ヒンヤリ柔らかくて気持ちいい。
少しドギマギしかけたのが顔に出ないよう必死で平静を装う。
「やっぱり少し熱あるんじゃないですか?」
「え、そう?」
君が触れたせいだろうとは言わず、彼女がオフィス備え付けの薬箱から体温計を持ってきてくれたので、おとなしく熱を測ることにする。
すぐに検温完了のアラームが鳴り、脇から取り出して液晶を覗き込む。
「37.3℃。ちょっと微熱程度、だな。」
「熱があるには違いないです。帰るほどではないとしても、無理はしないで下さーい。」
「解ったよ、ありがとう。何か薬も飲んでおくよ。」
彼女の気遣いが嬉しい。
俺は自分で薬箱に体温計を戻しに行ったついでに風邪薬を取り出し、給湯室に向かった。
「お疲れ様でしたー。」
「お先にー。」
午後5時を過ぎ、同僚たちが引き揚げていく。
今日もようやく終わり・・・いや、今日は全く調子が出ずにやり残しがあって、少し残業だな。
机の脇に置いた紙コップのコーヒーに手を伸ばす・・・
――何か既視感のような。
木のテーブルの上、ソーサーにのせられたコーヒーカップの映像が飛び込んできた。
「ふぅ。」
軽い溜息をついたところへ、黒江さんがやって来た。
「先輩?」
「終わった?お疲れ様。」
「いえ、まだ少しかかるのですが、先輩、熱があるんですから早く帰って下さいね。」
「ありがとう、さっき測ったら36.9℃まで下がってたし、もう大丈夫。あと1時間もしたら帰るよ。」
「うーん、きっとですよぉ。」
「解ったってば。」
俺のことを心配してくれている。いや、世話が焼ける兄、もしかして弟?みたいに見られているのか。
・・・きっと後者だな。
1時間後。
帰り支度の彼女が再び顔を出しに来た。
「ゆーご君、終わったかい?」
「ゆ・・・? 終わったよ。」
うん、思っていた通り、弟の方だった。
「先輩このあと何か予定ありますか?」
む。俺を食事に誘ってくれているのかな。
だとしたら、ポトフはまた明日だな。
「でも先輩、まだ風邪っぽいし、やっぱり今日は安静にしないとね。」
む。期待させておいて、引っ込めるのか。
だとしたら、やはり今日はポトフだな。
「そうやな。週末だから呑みに行きたいけど、まだ晩は冷えるし用心して今日は帰るわ。野菜も古くなるし。」
ガッカリしているところを悟られないよう取り繕ったつもりだった。
しかし最後に余計なことを言ったようだ。
「先輩、自炊するんですか?」
無意識ナチュラル系で『家事メン』アピール君みたくなっちゃったとかか?
「あ、あぁ、独り暮らしだからね。惣菜で済ませることもあるけど、つい月曜に色々買ってしまって、そのままやったんよ。」
「それで、なに作るんですか?」
え、食い付かれちゃったの?
いや別に、料理が得意とか趣味とかそういうレベルには無いのだが。
「ポトフ。一度食べて旨かったから、自分でも作ってみようと思ってね。」
夢の中での話、だけどね。
「私も結構好きで、よく作るんですよ、ポトフ。」
そうなのか。
衝動的に買ったものの、今日の今日まで手が付かず、そうと知っていれば早めに食材を譲っていたのに。
「そうなん?月曜に急に思い立って色々と買ったまではよかったんやけど、そこから億劫になっちゃって・・・」
はっ。
これは「家に来て作ってくれない?」って誘おうとしている流れみたいじゃないか。
違うぞ!そんな下心的な意味を込めた発言ではないぞ!
って、俺、既に視線が泳いでる!?
もう引っ込みがつかないぞ、ここは、いっそ自然に、ごく自然に、誘ってみるんだ、
――え、なに、その上目遣い。
俺も身長がそれなりにあるから多少は見上げられることには慣れているが、でもそれは、ちょっと俯き加減からの必殺の角度なのではないだろうか。
と思ったら、その角度は解除された。必殺ではなくなった。
よし、言うんだ。
「ヨかったら、教えてくれヘンかな?」
しかし声がひっくり返ったうえにイントネーションが撥ねまくってしまったーっっ!
「はい。いいですよ!」
え?いいの?
いま俺の顔には満面の笑みが溢れているだろう。
これでは、大人の余裕ってやつが、先輩の威厳ってやつが。
堪えろ、抑えろ、引き締めろ。会話だ、落ち着いて言葉のキャッチボールだ。
「もし明日あいてれば、お昼前からとかでどう?たぶん食材とか買いなおさんとアカンと思うし・・・」
「明日、夕方までなら空いていますよ。先輩ン家の最寄りの駅、どこでしたっけ?駅まで迎えに来てくれますか。その後お買い物しましょう。」
「○○○○線の△△△△駅やねん。11時前後でどうかな。着く少し前に連絡ちょうだい。」
「分かりました!」
ビルの前で明日の時間をもう一度確認しあって別れ、家路についた。
足取りが軽い。
明日はポトフを作るんだ。杏菜ちゃんと。
帰宅して、まっすぐキッチンに行き冷蔵庫の中をチェック。
ジャケットだけ脱いで調理開始。ポトフではない。
先日買った野菜のうち少々くたびれかけてるやつを豚肉とキムチと炒めることにした。
食事をしつつテレビで明日の天気をチェック。なんと朝方から雨か。
だが家で過ごすから問題はない。
早々に入浴し、今日は早めに寝ることにした。
明日に備えて風邪をしっかり治すためと、あと・・・と考えたところで苦笑しつつ、ベッドに潜り込んだ。
夢は、また見なかった。
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
8時30分。
窓からの日差しが心地良い。非常に晴天だ。
あれ、今日は雨じゃなかったか?
またアレか、晴れ男を発揮したか。
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
アラームを止めた。
また夢のことを考えそうになるのを堪えて、ベッドから降りた。
顔を洗って歯を磨き、トーストを焼きながらコーヒーを淹れる。
ゆっくりテレビでニュースを観ながら少し寛ぐ・・・、いや。
掃除しなきゃ・・・!
ごみを片づけて、掃除機をかけて、肝心のキッチンと、もちろんトイレも・・・なぜ昨夜のうちに少しでも済ませておかなかったんだ!?
久しぶりに布団も干して。
外を見ると、地面に水溜まりがチラホラあり、やはり雨は降っていたらしい。
「・・・って、やばい!」
もう10時半!まだ部屋着やん、俺!
大丈夫だ、焦るな。今から速やかに着替えれば間に合う。
まだ杏菜ちゃんから連絡も入っていな・・・
「♪~」
・・・スマホから着信音が。
「ゆーご先輩ーっ、おはようございまーす。」
「ぜぇ、ぜぇ、・・・お、おはよっ、・・・ぜぇ、ぜぇっ・・・」
「大丈夫ですか、先輩?」
かなり全速力で駅にチャリンコで駆け付けたが、彼女より到着が遅れてしまった。
「ご、ごめん、ま、待たせ、でっ、・・ッゲホゲホゲホッ!」
「そんなに急いで頂かなくてもー・・・」
「はは・・・、はぁ、じょ、ちょっど、だげ、待って、ね・・」
その後どうにか息を整え、俺の行きつけのスーパーへと買い出しに向かう。
彼女と食材を物色しながらアレコレと話しつつショッピングカートを押す俺。
うん?これはちょっとイイ雰囲気なのでは、なんて浮かれたりしないぞ。
大人の余裕と先輩の威厳でいくぞ。
「そこの新婚さーん、味見してってー!」
店の人の一声で、固まった。
「あはは、先輩、固まってましたね。」
「ちょっ、いやいや、店の人はテキトーで困るよなァ?」
店を出るとき彼女にからかわれたが、そんなやり取りも心地よく、買い物袋をカゴに入れて自転車を押しながら二人で俺のマンションへ向かい始めた。
濡れていた地面は少し乾いてきたようだ。
「雨、止みましたねえ。」
「あぁ、オレ晴れ男やねん。」
「そう言えば、先輩が先週に旅行に行ったときも、雨雲を引き裂いて飛行機を飛ばしたとか。」
「なんで知っているの、と言うか、何その『引き裂いて』って・・・」
「あの日は午後からずっと結構な雨だったじゃないですか。でも予定どおり飛んだって、月曜の朝に先輩が皆と会社でお話しをしていましたよ。そしたら皆から『またかー、モーゼだー』とか口々に言われていたでしょ。」
「はは・・・」
他愛もない話をしつつ自宅のあるマンションに着いた。
特にオシャレでも新しくもないが、まあ人を呼ぶのに躊躇しない程度には平均的な建物だろう。
そしてエントランスに足を踏み入れた途端、
ザーーーーーーーーーッ!
雨が。
「ええええええ!?」
声を上げたのは杏菜ちゃんだ。
バッと、俺の顔を見て、指を差し向けてくる。
「先輩、やっぱり、モーゼだ!」
「いやいやいや・・・、まぁまぁ良くあることで、否定しないけど。」
「しないんかーい!」
想定外のツッコミを入れられたりしつつ。
濡れずに済んだ愛車を自転車置き場に入れて、エレベーターですれ違った隣人のご主人から何だか温かい目で会釈されつつ。
自室のロックを外して玄関に入ったとき、杏菜ちゃんが、今度は控えめな声を出した。
「あ、そうだ。」
「え、なに?」
「先輩って、帰ってきたとき、『ただいま』って言う派?言わない派?」
「は?」
「あ、なんか馬鹿にしてます?」
「いやいやいや、そんなことはない。アレでしょ、一人暮らしでも、帰ったら『ただいま』って言うのかどうか、だよね。」
「そぉです。」
何だか、ご機嫌ななめ。
狭い玄関でまだ靴を脱がずに立ち話をしているのも落ち着かない。
「俺は『ただいま』って言う派だな。」
ぱぁっと彼女の顔が明るくなった。
かわいい。
「あ、でも・・・ここのところ何日か言ってなかったかも。」
と、それを聞くなり彼女が靴を脱いで俺より先に部屋に上がり込んだ。
おい、主人より先に上がるのか、客人よ?
すると彼女がクルッと振り向いて、身体を腰から斜めに傾けて、両手を後ろに組んで。
「お帰りなさーい!」
かわいい。
また上目遣いの必殺の角度。わざとやっているのだろうか。
「た、ただいまー。」
何とか絞り出して声を出したところでお互い笑い出した。
ああ、コレ、いいな。こうやって毎日、君に「ただいま」って言えたら・・・。
「先輩なにか言いました?」
はっ、いま声に出ていた・・・!?
「あっ、布団と洗濯物を取り込まなきゃ、ごめん、適当に座ってて!」
バタバタとベランダに駆け込む俺には、大人の余裕も先輩の威厳も、もはや無いと確信した。
「あー、おいしかった。腹いっぱい。」
「わたし片付けますねー。」
「あー、手伝うから。でも待って、苦しくてまだ動けない。」
「いいですよぉ、お買い物、ぜんぶ先輩が払ってくれたんだから。座ってて下さい。」
ウフフとマンガのような声が聞こえてきそうな笑顔でキッチンに立つ彼女。
かわいい。
チョロい、チョロすぎるぞ、俺。
彼女の料理の腕前はなかなかのものだった。
俺は感心しっぱなしで、そんな俺に彼女は手ほどきしてくれた。
彼女が洗い物を片付けてくれた後にコーヒーを淹れ、とても美味しいと褒められたのが嬉しかった。
店で鍛えられているからな、もちろん夢の中で・・・
夢のことを思い出し、彼女に不思議な夢の話を打ち明けたくなった。
変に思われかねないような話なのに、根拠もなく、受け入れてくれるような気がしたのだ。
彼女は、ふんふんと頷きながら、質問なんかも織り交ぜながら真剣に聞いてくれた。
嬉しかった。
午後4時。
楽しい時間はあっという間で、予定していたお開きの時間になり、彼女を駅まで送ることにした。
雨はすっかり上がっている。
「りんしょーしんりし?」
「えぇ、臨床心理士。」
彼女の妹さんが大学院の臨床心理学の実習で、スクールカウンセラーの補助や心療内科で患者さんの対応もしているらしい。
俺の夢の話を聞いて、自分の妹の実習先であるクリニックに紹介してもらうのはどうかと、彼女が提案してくれたのだ。
だが、特に医者に診てもらうほどではないように思う。
「そうやね、でも最近はその夢も見なくなったし、もう暫く様子を見てからにするわな。でも、ありがとう。」
たわいもない話を続けているうちに、駅に着いてしまった。
「先輩、今日はご馳走様でした。」
「いや、結局ほとんど杏菜ちゃんが作ってくれたけど・・・、ありがとう、美味しかったよ。」
「先輩がこんなに楽しい人なんて大発見でした。次はディナーよろしくネ。もちろんコースで!」
「えええ~っ!」
「じゃあ来週また!失礼します、先輩!」
元気よく改札を抜けて、また振り返って笑顔で手をブンブン振って、階段に消えていくのを見送った。
かわいい。
優しくて、いい子で、料理も上手い。
ホンワカした気分で家路に着いた。
その夜は、久しぶりに夢を見た。