episode 2 モーゼの如し
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
午前6時20分。
いつものアラーム音に、眠りの世界から現実の世界に引き戻される。
薄目を開け、天井を見つめたまま一つ溜息をついた。
枕元に置いたスマホのアラームを止める。
けだるく上半身を起こし、ベッドに座ったまま手を伸ばして窓のカーテンを開ける。空はどんより曇っていて陽が差し込まず、これでは目覚めも悪い。
部屋の灯りをつけた。見慣れた10帖程度の飾り気の無いワンルームの室内を照らす。さっきまで“居た”ログハウスの店ではなく、飾り気のない無機質で見飽きた部屋の中だ。
毎日とまではいかないが、時々同じような夢を見るようになった。
夢の中の俺はRPGに出てくるようなファンタジー世界で生活しているのだが、ワクワクするような冒険をするでもなく、ましてや魔法や剣を使えるでもなく(以前は使えたらしいが)、日常的に酒場で冒険者相手に働いているだけなのだ。店主という肩書ではあるようだが。
もちろん酒場が悪いわけではない。俺が好きな某有名RPGシリーズでも『ル●ーダの酒場』なるものが存在するし、人気のラノベでも酒場は必ず出てくる。ギルドや宿屋を併設してることも多い。夢の中の酒場も正にそういった雰囲気なのだ。
店で雇っている女の子たちも可愛い子ぞろいだが所詮は夢の中。さらに店主と従業員というだけの関係性しか無さそうと来たものだから更に面白くない。何やってんだ、夢の中の俺は。
「おっと、のんびりし過ぎた。」
今日は金曜日。
仕事を半日余りで早退して、今夕から土日を利用して友人達と旅行に行く計画だ。
そのためには下手に仕事を残したくないので少し早出をしようと思っていたのに、予定より出遅れていることに気付いて急いで身支度を始める。
旅行の準備は最優先で完了済みだ。
朝の通勤ラッシュにスーツケースを電車に持ち込むのは気が引けないでもないが、会社から空港に直接向かったほうが一時帰宅するよりも明らかに効率的と判断した。しかも有難いことに会社まで友人が車で迎えに来てくれるので車内で着替えも可能ときた。
マンションの外に出ると地面が濡れていた。どうやら既に一雨あったようだが、今夜の飛行機が飛ばないようなことにはならないだろう、多分。
自宅から最寄りの駅まで徒歩5~6分の歩き慣れた道を少し急ぐ。
就職を機に大学の近所からここに移り住んで8年余り。家賃は給料相応で済んでいて交通の便も良い。近隣にスーパーやドラッグストア、病院等も概ね揃っている。結婚でもしない限り引っ越すこともないだろう。
乗車駅に着き、ホームに降りたところへ電車がちょうど入ってきた。
いつもより30分近く早い電車に乗った。この時間の電車は比較的すいているのか、スーツケースを持っていても周囲にさほど気を遣うほどではなかった。
電車を乗り継いで計30分あまりで降車駅に着く。勤務先はそこから徒歩7~8分の距離にある。
今日は信号待ちも電車を待つ時間も殆ど無く、スーツケースを転がす音が途切れないくらいだった。30分早いだけで通勤がこれだけ快適になるとは思わなかった。
やがて馴染みのビルにつき、エレベーターで勤務先のあるフロアに向かう。
勤めているのは中堅どころの印刷会社だ。業界的には厳しくなりつつあるが当社は取引先や経営者に恵まれたためか業績は創業以来概ね堅調に推移してくれている。
勤務先に着くと既にフロア内には電気も空調も付いていたが、まだ早いので出社している人間はチラホラだ。
そこへ、嫌なやつが現れた。口が悪くて周囲から煙たがられている他部署の上司だ。
「おはよう、早いな。そういや今日は早退して旅行らしいな。しかし今日は午後から雨みたいやし、日頃の行ないが悪いってことちゃう!?」
朝っぱらから、しかも何処から聞きつけたのか知らないが、全く不愉快なことを笑いながらサラッと言うやつだ。
彼は言いたいことだけ言ってサッサと自分の席の方向へ去って行った。彼の部下の人達には申し訳ないが、自分が彼の部下でなくて良かったと、つくづく思う。
俺も自分の席に着き、頭を切り替えて自分の仕事を始めることにした。
その後は特に変わったことも無く順調に業務をこなした。
いちど上司に急ぎの仕事を振られそうになったが、俺の予定を知る後輩の女の子が代わって請け負うことを申し出てくれた。彼女にはお土産を買ってくるとしよう。
やがて退社時間になったのでパソコンの電源を切り、席を立った。
先ほど助けてくれた女の子に改めて礼を言ったあと上司の席に向かった。上司は俺の早退のことを忘れていたようで「さっきは気が利かずにすまんかったな、おつかれさん」と送り出してくれた。
「本日は早退します、お先に失礼致します。」
「先輩、お疲れ様でした。」
「お疲れさーん!」
レジャーで早退する俺を全く咎める素振りも無く、部署に関係なく何人か声を掛けてくれた。
一部のやつを除けば良い人が多いこともあってこの会社で働くことに関しては大した不満もない。給料が高いわけではないが、何よりも楽しく働けている。
「現状に不満は無いのに何故あんな夢を何度も見るのだろう?」
正確には、不満が全く無い訳ではない。
大学を卒業してから彼女がいないことが、ちょっと寂しい。だったら夢の中くらいはもっとハッピーでも罰は当たらないはずだが、どうやら夢の中の俺はかなり草食系っぽい。
現実の俺も奥手とはいえるが、しかしあの夢からは何故だか現実味というか既視感のようなものすら感じる。
「まぁ、夢は夢やな。」
途中であの不愉快なやつとすれ違いかけたが、スマホをいじりながら気付かないフリをしてサッサとエレベーターに乗り込んだ。
エレベーターを降りると外は雨風が強くなっており、真上の空を覆う雲は暗くて厚いがかなり早く動いて見えるほどだ。これはいよいよ飛行機が心配になってきたが、ちょうどそこへ友人の車が到着した。
雨が入り込まないようスーツケースと共に素早く乗り込み、声を掛けた。
「すまんなぁ、そっちも仕事帰りなのに。助かる。」
「お疲れ。こっちは外回り先からそのまま直帰にさせて貰ったからな、気にせんでええ。」
「うん。じゃあ今のうちに着替えさせて貰うわ。」
友人が空港に向けて車を走らせる。その車内で俺はスーツとビジネスシューズを脱いで楽な服に着替えを済ませた。
こいつとは大学時代からの付き合いだ。旅行にはもう一人やはり大学からつるんでいたやつと合わせて計三人で行くが、そいつとは空港で合流することになっている。
雨はまだ強く降り続けている。ぐるりと周囲の窓から空を見上げて俺は呟いた。
「嫌な雨やなあ。」
「さっき天気予報では、かなり強くなるかも知らんってさ。」
「飛行機、欠航とかにならんやろうなぁ。」
「最悪、飛ぶのが遅れる程度なら御の字や。でも止むんちゃうか。お前がおるし。」
「そうやったらええな。」
普通にやり取りしたが、どうも俺はかなりの晴れ男らしい。かなりの確率で雨に降られたことが無いのだ。勿論ゼロではないが、それでも親しい友人の中では普通にそう思われているほどだ。
やがて空港に着き、手配していたパーキングの担当者に車を預け、出港ロビーに向かう。すると、先ほどまでの風雨が不思議なくらい小降りになった。
西の空にはうっすら晴れ間すら見えて、雲の動きも穏やかだ。
「ほら。」
「そうやな、当然やん。」
もはや雨が止むのが当然の如くやり取りしながら待ち合わせ場所に向かい、三人目の友人と合流した。彼にも同様の事を言われたが、もう我々の中では日常会話レベルだ。
チェックインを済ませた頃は既に晴れ間が覗いていた。あれだけ暗く厚かった雲が、ちょうど今は空港周辺に限ってポッカリと無くなっている。
「いつも流石ですなー。」
「ふむ、苦しゅうない。」
「モーゼの奇跡をまた見せて貰ったわ。」
ふざけてそんなことを大人三人が言い合いながらゲートに向かった。
そのまま定刻どおりに飛行機は出発。
しかしその少し後から大雨強風警報に見舞われ出して欠航が相次ぎ、電車の運行にも影響が出て苦労したのだと、会社の同僚たちから後で聞かされた。
会社に「日頃の行ないが悪いってことちゃう!?」なんて言うやつが一人いたが、その考え方でいくと、俺は日頃の行ないが良すぎるということになるな。
いやいや、俺はそこまで思い上がっていないし、俺とは限らないじゃないか。友人二人もいることだし。
旅行中は雨どころか晴天すぎて汗ばむほどで、楽しい時間はあっという間に過ぎた。
会社、特に仕事を助けてくれた後輩の女の子への土産も忘れず購入し、日曜の晩に空港から友人の車で送ってもらって帰宅した。道中、もう雨は降っていなかった。
「ただいま」
玄関から、誰もいない室内に向かってそう言ってから靴を脱ぎ、部屋に上がった。
時々だが、誰も居ない部屋に向かってそれを言うようになったのは、いつの頃からだったか覚えていない。
スーツケースの荷物を片付けた後で洗濯機を回し、その間に素早くシャワーを浴びた。
シャワーの後は冷蔵庫から取り出した缶ビールで一服し、やがて止まった洗濯機から中身をカゴへ移し、ベランダへ運んだ。
月がよく見える。朝まで天気は大丈夫だろう。
洗濯物を手早く干しながら、そういえば旅行中はあの夢を見なかったな、と考えていた。あの夢を見た後は不思議な感覚に囚われるのでどちらかといえば歓迎しないのだが、見ないなら見ないで逆に気になってしまう。
ベランダから室内に戻り、飲みかけの缶ビールを手に取った。
ぼんやりテレビを眺めていたらウトウトしかけた自分に気付き、時計を見上げるといつの間にか12時を過ぎていた。
「大人しく寝るか・・・」
ぬるくなったビールを飲み干してそのまま空き缶をテーブルに置き、ベッドに潜り込んだ。
旅行の疲れとビールのアルコールのお陰ですぐに寝付けそうだ。
瞬く間に意識が遠のいていく中で、先日の夢のことを思い出していた。
そういえば、あのハーフエルフの女の子。居間のソファベッドに寝かせたけど大丈夫なんかな・・・かなり酔っぱらっていたよな・・・。
ちょっと可愛かったよな・・・、名前は・・・何て言うのだろ・・・う・・・。