episode 12 依存
目が覚めた。
見飽きた、無機質な、マンションの俺の部屋だ。
時刻は既に10時過ぎ。目覚ましをかけていなかったといえ少し寝すぎたな。
カーテンの隙間から覗く陽の光も、やや高めから射し込んでくる。
「エミリー…」
天井を見つめながら彼女の名前を呟いた。
俺のことを想ってくれる、彼女の名前を。
婚約した、彼女の。
――夢の中の…
「もう起きるか…」
ベッドの上で辛うじて上半身を起こしたものの、すこぶる身体が重い。
壁にもたれ掛かり、気だるく部屋を見渡す。
何かを…誰かを探すかのように?
喉が渇いた。
水を飲もうと、鉛のような脚をベッドから降ろして何とか立ち上がり、ノロノロとキッチンに移動する。
食器カゴに入れられた皿やグラスがいつもより多い。
グラスを取り、蛇口から水を注いで一気に喉に流し込む。
(杏菜ちゃん…)
言葉には出なかったが、彼女の顔が思い浮かんだ。
俺の家へ食事を作りに来てくれた、会社の女の子。
昨日…土曜のことだよな。今日は日曜で…あれからまだ一晩しか経っていない?
(でも、なんであんないい子が俺なんかの家に?)
――エミリーに逢いたい。
(杏菜ちゃんじゃなく?)
エミリーは、夢の中の女性だろ?
(――それでも…)
「――…っ!」
我に返った。
馬鹿げた自問自答だ。頭では解っている。
…これでは、いけない。
時計は12時になろうとしていた。
キッチンで水を飲んだ後、そのままシンクの前で膝を抱えて座り込んでいた。
どうにも、不思議なほど何もやる気になれない。
しかし腹は減る。
冷蔵庫にはロクな食材がないことを思い出した。
正確には無いことは無いが自炊する気になれない。
意を決し、身支度を整えた。
ノロノロと、適当な服を探し、ジャージに着替えた。
財布と鍵をポケットに突っ込んで、近くのスーパーに向かうことにした。
適当に惣菜か弁当を買おう。
昼と晩の2食分。
帰宅。
「…ただいま。」
誰も居ないと判っている部屋に向かって小さな声で呟いた。
「…」
もちろん、昨日みたいな返事はない。
杏菜ちゃんに「ただいまと言う派」かどうかと訊かれたのは、まだ昨日のことだ。
嘘だった訳ではないが、習慣と言う程でもない。でも何だか、不思議と必要だったことのように感じた。
日が暮れた。
昼食を済ませた後はテレビを観ながらボンヤリ過ごしていた。
時事問題を扱った番組がお気に入りだ。今日はたまたま池〇さん司会の3時間の再放送をやっていて、お陰で少し気が晴れてきたようだ。
だからか、全く動いてないのにお腹が空いてきた。
昼に買った弁当を温めて食べ、ゴミを捨てに立ち上がった流れでそのまま浴室へ。
シャワーを浴びて、パジャマは新しいものをおろして、歯を磨いて…
ふと、手が止まった。
今日この時間になって初めて活動的になった気がする。
――まるで出掛ける準備のようだな…
まだ8時前だ。
いつもならまだ休日を名残惜しく過ごしている時間なのに、既にテレビも消してベッドの前に立っている。
自分でも気付いていた。
これではいけないと解りつつも、気がはやっていることに。
部屋の電気を消し、ベッドに潜り込んだ。
まったく眠くないのだが、いそいそと。
――待ち合わせに向かうかのようだな…
もぞもぞといつもの寝る姿勢をとって、すぅーっと息を吸ったとき、スマホの着信音が鳴った。
(誰だ?)
スマホに手を伸ばし画面を見ると、杏菜ちゃんからのメッセージだった。
昨日のお礼と、なんと次回のお誘いについてだった。
…え?社交辞令じゃなかったの?
ガバッと起き上がる。
「ほんとに…?」
思わず声が出た。
早速レスを…と考えたが、不意をつかれてどう返せばいいのか、固まってしまった。
って、中学生か俺は。
大人の余裕、先輩の威厳。
ええと、同じく昨日の礼と、会社で休憩時間に相談しましょうという旨に留めるか。OKイラストを添えてシンプルに返すことにしておこう。
再びベッドの上で横になりながら、スマホを操作した。
誤字脱字なし、文章に問題は多分なし、…送信、と。
――相談。相談と言えば。
臨床心理学を学んでいる妹さんがいると、杏菜ちゃんが教えてくれた。
今の自分の状況をについて、彼女の実習先で医学的な見解を訊いてみたい。
――その旨も追加して…
と同時に急に眠気が襲ってきた。
ウトウトもなく、ついさっきまで大した眠気も無かったのにも関わらず、だ。
何と言うか、前触れが無さすぎるというか…
送ったメッセージにいつの間にか「既読」が付いていた。
やがて着信音が耳に届いたが、既に意識は現実世界から切り離され――
(エミリーに逢える…)
「おはようございます、ユーゴさん。」
窓から差し込んだ朝日に気付いて思わず顔をしかめた。
隣で毛布にくるまった彼女が、横たわったまま穏やかな笑顔を俺に向けて語りかけてきた。
「おはよう、エミリー。」
愛おしいエミリー。
右手を毛布から出し、彼女の方へ差し出し、左頬を優しく撫でる。
彼女は俺の右手に自分の左手を添える。
そして、いつの間にか記憶の糸を手繰り寄せていた自分に気が付いた。
「エミリー?」
「なんですか?」
「いつからここに?」
「…!」
エミリーは非常に判り易い。
目が泳いでいる。どこまで泳ぐのか。
そのまま毛布の中に沈んでしまったようだ。
いかん、溺れてしまう。
毛布をずらして救出、キャッと可愛い声を出す彼女…。
幸せだ。
さて、いつまでもイチャ付いていたいが、ここらへんでお開きだ。
昨夜は遅くまで騒ぎすぎて片付けを免除したから、従業員はみんな一時間いつもより早出なのだ。
まだ時間に少し余裕はあるが、料理長やリズは普段から早出なので更に早いかも知れない。
いそいそと身支度を整える。
エミリーは荷物を置いている居間に移っている。
オーナーとマスター代理が揃いも揃って遅れるわけにはいかない。しかも職場兼住居の俺たちが…
ん?俺「たち」?
思わず彼女の姿を求めて部屋の入口を見やると、ちょうど彼女がノックする音が聞こえた。
「どうぞ。」
「…失礼しまーす。」
ゆっくりとドアが開き、おずおずと彼女が入ってきた。
心なしかバツの悪そうな表情をしている。
「エミリー、どうかしたかい?」
「…あの、もう皆さんおいでです…」
「ええ!?」
一時間どころか、二時間ほども、しかも料理長たちだけでなく全員が勢ぞろいで申し合わせたかのように。
そう。申し合わせていたかのように。
「オーナー、マスター代理、おはようございマース!」
元気なソフィアの声が響き渡る。
「お、おはよう。」
「おはようございます…」
エミリーは泣きそうな顔だ。
ソフィア達は皆ニヤニヤしている。
こいつら、皆で申し合わせて早起きしてきたのか。
あらかた昨夜の食器を片付け終り、続けてトーストやサラダ、飲み物を並べていく彼女たち。
最初から店で朝食をとるつもりだったのか。
そこまでして俺たちの様子を伺いたかったのか。
しかも物音や気配まで押し殺して。
エミリーと二人で顔を洗って戻ってくると、既に全員がテーブルの周りを囲って我々を待っていて、着席を促してくる。
しかも昨夜のように隣同士の席に。
その日は仕事にならなかった。
俺はまだいい。元々そんなに店でやることは少ない。
エミリーはスタッフの誰かと目の合うたびに温かい笑みを向けられ、そのたびに頬を赤らめて俯いてしまう。
しかも一部の客からもからかわれる始末。ランチタイムもディナータイムも。
やがてその日の営業も終わり、いつもにも増してドッと疲れに押しつぶされそうになっていたときに、スタッフ達から謝罪の言葉が掛けられた。
いや、謝って貰うほどのことでもないのだけどね。これも祝福の一つだろうさ。
エミリーはどう思っているか解らないが…リズもなだめてくれていたし、まぁ大丈夫だろう。
解散となり、名残惜しいがエミリーも流石に今夜は帰宅した。
エミリーが帰りぎわ、翌日に相談があると言っていた。
マスター代理として考えていることがあるとか言っていた。
だったら今から聞こうかと言いかけたのだが、ソフィア達の視線を感じた途端、二人ともそんな気は消え失せたのだった。
しかしエミリーは、いい子で、可愛くて、仕事にも真面目だ。俺には勿体ないくらいだ。
明日また会えるまで待ち遠しい。
今夜はよく眠れそうだ。
「ピピ、ピピ、ピピ・・・・」
時刻は6時50分。
はぁ。目覚めてしまった。
見飽きた、無機質な、マンションの俺の部屋だ。
昨夜は、たしか8時くらいに布団に潜り込んだ。
その割に夜中は目が覚めることもなかった。今も目覚ましをかけていなかったらまだ当分寝続けていたかも知れない。
カーテンの隙間から陽の光が射し込んでくる。
否応なしに体内時計がリセットされる感覚だ。
「エミリー…」
天井を見つめながら彼女の名前を呟いた。
俺のことを想ってくれる、彼女の名前を。
――昨日もこんな朝だったな…
「起きないと…」
と言っても、今日は月曜日。
もう休みは終わりだ、切り替えなくては。
杏菜ちゃんに相談したいことがあった。
そう言えば、スマホでメッセージを打とうとして、いや読もうとしてだったっけ?寝てしまったんだ。
いかん。
メッセージをスルーされたとか言われると大変だ。
と、慌ててスマホを確認したが、そんな感じはなくホッとしたところへ、見計らったかのごとく着信。
杏菜ちゃんだ。
『レス待ってたんですよー』
慌ててレスしました。
出社した。
杏菜ちゃんは拗ねるでもなく、いや、特別な関係でもないから拗ねさせることもないと思うのだが。
ちょっとした脳内身勝手妄想というやつだ。
それは置いておいて、杏菜ちゃんはいつもどおりの元気いっぱいな様子だ。うん、可愛い。
昼休憩を利用して、夕ご飯に誘ってみた。
かつての俺はこんな気軽に女の子に声を掛けるなんて無かったと思うのだが、何だろう、自信みたいなものか。
解らん。
彼女は快諾してくれて、「まだ今夜はコースでなくていいですよ」だって。
やはりいつかは奢らなきゃ駄目なようだ。
その日はスムーズに終業を迎えた。
使った時間は同じなのだが、張り合いや目的があるとこんなにも違うものなのか。
いちおう気を遣って会社から少し離れた場所で彼女と待ち合わせ、彼女が前から目を付けていたという和食店へ。
和食とは意外だった。
値が張るかも知れないが、まぁいい。
「ここはリーズナブルですよ。」
顔に出ていたか?
「顔に出ていたか、って顔をしていますよ?」
クスクスと、いや、そんなマンガのような笑い方をする人はいない。
アハハ、と笑われながら暖簾をくぐった。
外装は和食を前面に押し出していたが、店内は洋食屋に近い白壁基調の明るい装いだった。
「で、先輩。今日は、夢の件でしょうか?」
オーダーを通したところで、先手を取られた。
ちょっと驚いたが、そういえばメッセージを送っていたのだった。
そのつもりで自分から誘ったものの、どう切り出そうかと思っていたから、むしろ助かった。
「実は…」
話し始めたところで店員がお通しと飲み物を運んできたため一旦中断する。
グラスを持ち、まずは今日一日の労をねぎらい合った。
「お疲れ様です。」
「お疲れ様、今日は急にゴメンね?」
「あ、いいえ、先輩からお誘い頂いて、ありがとうございます!」
取り敢えずは週末や昨夜のことも含めて悪い心象は与えていなさそうだ。
ビールの注がれた中ジョッキの生ビールをグイと喉に流し込み、それを確認したかのように彼女もライム酎ハイの入ったグラスを軽く傾けた。
その後また続きを話し始めた。
杏菜ちゃんと会った土曜の夜から二日連続で例の夢を見たこと。
夢の中で『エミリー』と婚約したこと。
夢から覚めても彼女のことが頭から離れず、夢の世界に依存し始めていること。
何故か杏菜ちゃんには全てを包み隠さず話すことが出来た。
友人や家族にはとても言えそうにもないのに。
彼女は真剣に聞いてくれている。
駄目な先輩とか変な先輩とか思われていないだろうかと気にしたこともあったが、それは杞憂だった。
「じゃあ、今夜でも妹に、連絡しておきますね。」
「ありがとう、是非お願いするよ。」
土曜日に初めてこの話を彼女にした際、臨床心理学を学んでいる彼女の妹さんが今ちょうど実習している先が心療内科だというので、そこに相談することを提案してくれていたのだ。
そのときは夢を暫く見ていなかったので必要ないだろうと思っていたのだが…。
「ちょっと訊いてもいいですか?」
「? いいけど?」
「その『エミリー』さんて、綺麗な人ですか?」
「え?」
返す言葉に詰まる。
「だって、夢から覚めてもその人のことが先輩の頭から離れないんでしょ?」
「まぁそうなんだけど、夢の話だよ?だから病院に行くんだよ?」
「…それはそうなんでしょうけど。」
なんだろう。
何故か弁明をしないといけないような雰囲気というか、圧?を感じる気がする。
圧?
そんなわけないやん。
違和感に戸惑う俺をよそ目に、グラスに手を添えながらチラッと上目遣いで俺を見る彼女。
「まぁ、綺麗、かな…」
「髪はロングですか?ショートですか?」
「…ショートで、ちょっとグリーンめのブロンド…」
「へぇ、先輩の好みのタイプって、黒髪じゃないんですね? …って、グリーンめ?」
「あぁ、ゲームっぽいけど、エルフと人のハーフなんだ。」
おっと、そこでちょっと引かれたか。
引かれたよな、きっと。
「知らない先輩の一面を知ることが出来た気がします。」
「いやいや、夢、夢やから。」
よくよく訊いてみると、既に妹さんには概要を話していたらしく、さわりだけでも聞き取りしておいてくれと頼まれていたということだ。
てっきりヤキモチかと…いやいや、俺ってこんなに厚かましい奴だったっけ?
「先輩、ご馳走様でした。」
「こちらこそ、話を聞いて貰って、ありがとう。」
「ちなみに、今も早く帰りたいって考えていますか?」
「そこまで節操なくはないつもりやで?」
「じゃあ、妹から返事があったら、また報告しますので。」
「うん、ありがとう。」
そして解散となり。
節操なくはないつもりと言ったものの、ちょっと足早に帰路に就くのだった。
「ただいま。」
自分でもエミリーを思い描いていることを確信して、誰もいない部屋に向かって声を紡ぎ、帰宅した。
そして、その夜も夢を見た。