episode 10 帰って来れた
町にはかなり早く戻ることが出来た。
助けた村の兵士たちが上層部と掛け合い、馬用の魔道具――馬の疲労を大幅に抑制する魔法術式と魔力を埋め込んだ馬具を提供してくれたのだ。
朝ご飯、だった筈の“強制”婚約披露パーティの後すぐに出発し、せめてディナータイムの仕込みには間に合うようにと思っていたのだが、なんとランチタイム中に到着することが出来た。
馬は速度を緩めることも休憩もなく、むしろ活力に満ち溢れ、通常の三分の二程度の時間で駆け抜けてくれたお陰だ。
魔道具とは何と素晴らしいものなのか。
価格はピンキリだが、これは確実に一般民レベルでは手軽には買えない高価な代物なので最初は受け取りに躊躇したが、村の防衛に貢献したことへの正当な報酬だとアンドレスにも説得され、有難く頂戴した。
馬車を貸してくれた町長に預けて、共有物として町の皆で使って貰うとしよう。
あと、馬の脚が速くなっても馬車の乗り心地が向上するわけではないことは補足して言っておくべきだろう。
さて、その魔道具のお陰で移動が早かったのは勿論だが、そもそもラベンダー畑の村がオレの町からそう遠くないということを再認識した。行くときも昼過ぎに出発して日暮れ近くには着いたほどだ。きっとアンドレスが最初から、あの村から比較的近いこの町をホームに選んでくれていたのだろうと思う。
町の門をくぐったあたりでそんなことをボンヤリ考えていたとき、御者台からアンドレスが俺たちに声を掛けてきた。
「エミリーさん、このまま馬車を店の前に着けるか? それとも家に一度戻るか?」
「このままお店へお願いします。今ちょうどお客さんが多い時間帯で人手が足りていない筈ですので!」
「わかった。」
そんな二人のやりとりの間、俺はずっと馬車の窓からの景色を、特に町の人たちを見つめていた。
腹を空かせて屋台を覗き込む子供たち。
農家の露天商から声を掛けられるご婦人。
慣れない帯剣に歩き辛そうにしている騎士学校の学生。
天秤棒でフラフラ足元がおぼつかない魚屋の未来の跡取り息子…。
一昨日の昼から離れただけに過ぎないのに、この見慣れた光景が懐かしく温かく感じられた。
地元、いや、実家に戻った気分みたいなものだろうか。
もとも俺には実家はおろか両親や家族の記憶なんか残っていないのだが、心から安堵できる場所、帰ることが出来る自分の居場所、という点では同じなのだろうと思う。
しかしあの村のように、いつ魔獣の脅威に晒されるか判らないし、無いとは言い切れない。
炎上するラベンダー畑、吹き飛んだ小屋、土砂や瓦礫がフラッシュバックのように思い起こされる。
――この場所を守りたい。
「マスター、どうかしましたか?」
ハッと我に返ると、エミリーが正面から覗き込んでいることに気付いた。
やや下から上目遣いで。それは今昔万国共通の必殺の角度ではないだろうか。
「こほん。」
軽く咳払いをして、佇まいを整える。
聞き流して欲しい程度の話だけど、と前置きをして。
御者台のアンドレスも聞いているようだ。
「俺は、記憶を失って塞ぎ込んでいた時、アンドレスやこの町の人たちに救われた。それは話したね。店を通じて恩を返してきたつもりだったけど、きっとそれは…。」
努めて明るく続けた。
「それは自分に言い聞かせてきただけで、過去とは向き合えていなかったと思う。」
「マスター、でもそれは仕方が…」
発作を起こすのだから仕方がないことだとエミリーと、御者台からアンドレスも同意してくれるが、俺が言おうとしていることは、そういうことではない。
「いや、過去の記憶を取り戻すことにはもう拘っていない。今はこれからのことを一番大切に考えている。」
そう言ってエミリーを見つめると、彼女の頬が紅潮した。
柄にもないことを言って俺も恥ずかしくなり、視線だけを窓の外に泳がせる。
「当たり前のことだけど…今が在るのは過去があるからであって、繋がっている。さっき言ったように、今これからどうするのかを考えるにあたって、その覚えていない過去との繋がりまで無視してはいけない、いや、無視したくないと心から思った。」
視線を戻し、キャビンの天井を見上げて、言った。
噛みしめるように、ゆっくり。
「何故ならその過去は、俺が冒険者だった頃の、アンドレスとエミリー、二人との大切な繋がりそのものだから。今回、二人のお陰で過去の自分と向き合うことが出来たし、そして取り戻せたものもあったのだから。」
自分の左右の掌を見つめて、顔を上げ、エミリーと御者台のアンドレスに順に顔を向けて最後にこう言った。
「今こうやって帰って来れたのは、自分を取り戻せたのは、二人のお陰だ。本当にありがとう。こ、心から礼、をぉ…っっ」
最後のほうは、熱いものが込み上げて上手く言葉にならなかった。
気恥ずかしい気持ちが自分の中を満たしながらも、胸のつかえが下りた気分だった。
すると、向かいの席に座っていたエミリーが俺の横に座って、そっと俺の手を握った。
彼女は顔をグシャグシャにしている。俺のせいで綺麗な顔が台無した。
きっと俺も彼女に負けずにグシャグシャだ。
彼女は頭を俺の肩に預けて、グスグスと堪えながら泣き始めた。
束の間、前方から蹄の音と足元の木が軋む音が、彼女の控えめに泣く声と共にキャビン内に響き渡っていた。
やがて、アンドレスが手綱を引いて馬車を停めた。
ギシギシと音を立てて揺れて停まる馬車の振動と軽く乱れる蹄の音で、店へ到着したことが判った。
アンドレスがこちらを向いて、静かに口を開いた。
「…一昨日、出発する前、本当にお前を連れ出していいものかと葛藤していた。お前の苦しみを無視して、俺たちが勝手な考えを押し付けているのではないかと。」
俺の肩から頭を起こしたエミリーも同調したように悲しい顔をしていた。
しかし俺はかぶりを振った。
「俺のことを想ってくれてのことだろう? そして、さっきも言ったけど取り戻したものもあって、何よりも、新たな幸せを掴ませて貰ったよ。」
そう言って素早く扉を開けてキャビンから外に出て、エミリーに手を差し出す。
はにかみながら俺の手を掴み、キャビンの外に出てきた途端に日差しの眩しさに目を細めた彼女と笑顔を交わした。
その様子をまるで親のように温かい眼差しでアンドレスが見守っている。
「よう後輩、荷物と馬車は俺に任せておけ。彼女と店へ行け。」
「ああ、アンドレス先輩。ありがとう、頼むよ。」
「アンドレスさん、ありがとうございます。」
店の扉に向かいかけた俺たちに、背中からまたアンドレスに声を掛けられた。
「婚約のことはすぐに伝えておけよ!」
ビクッとする俺とエミリー。
いや、ビビっているわけではない。気恥ずかしさだ。
振り返り、心の友に向けて、笑顔で応えた。
「わかっているよ。」
「なら、いい。」
店の扉を開けて入った後ほどなく、店のスタッフから仕事攻めと、お客まで参加しての質問攻めに遭ったことは、言うまでもない。
ああ、帰るべき場所へ、俺は帰って来たんだ。
――守りたい『今』へ。