命の脈動
緩やかな下り坂を防波堤に沿って歩いて行くこと十数分、壁岸に鎖で繋がれた船がいくつも並んでいる泊地にたどり着いた。
今は朝の七時を過ぎた時間帯になるが、一般的には起床する人もいる時間帯だ。にもかかわらず、そこには共通点のある格好をした小さな人の集まりができていた。彼らが海に向けているのは釣り竿だった。釣りとは言わずもがな、魚を釣る行為のことである。
「おーい、恋杏ちゃーん!」「待ちかねたよ」「お姉ちゃん遅いよ~っ」「おそーい!」
そしてこちらの気配に気づいた彼らは、みな一様に歓迎モードだった。いや歓迎しているのは、俺の少し前を歩いている女の子に対してだ。帽子に白い布を巻きつけたおじさんや腰の曲がったおばあちゃんや小学生くらいの男女たちが、手を振ったりおいでおいでしている。
「……こあ?」
というのが少女の名前だろうか。
「みんなごめんね~。ちょっと用事で遅れちゃった」
「もう始めてるよ! お姉ちゃんお姉ちゃん! 釣り竿!」
ぴょんぴょん跳ねながら小さな男の子が、新しく用意した釣り竿を素早くセットして手渡した。すごく手早い作業だった。小さな女の子は恋杏の服の裾をいつの間にかつまんでべったりだ。
すっごく懐かれてる。何者なんだろう、この少女は……。
呆然とその光景を眺めていた俺に、恋杏が振り返ってにっこり笑う。
「ほらほら、お兄さんもこっちこっち」
「う」
いやいや、すごく気まずいって。今まで恋杏に友好的だった複数の目線が、むき出しの警戒心で一斉に睨んできてるから。怖いから。
「なんでえ恋杏ちゃん。その野郎は」
苦虫を噛み潰したような険しい表情で、おじさんが訊ねてくる。
「あ、松原さん。このひとはね……えーっと、そういえば自己紹介がまだでしたね」
周囲からの胡乱な眼差しが強くなったよ。
そんな雰囲気など気にならないのか、恋杏という少女はこほんと咳払いをした。
「私は雛雪恋杏って言います。二十歳の現役JKです。恋杏って呼んで下さいね」
そしてオレたちの嫁だ! と聞こえてきたが奥さんらしき人に殴られていた。
「俺は桐谷ツムギです。社会人です」
「胡散臭えな」「ほんとに社会人?」「知ってる! ニートって言うんだよ」「にーと!」
うるせえな、おまえら。
更に口を開きかけた松原さんというおじさんは、竿に反応があったのか立ち上がって急にはしゃぎ始めた。子どもたちも釣れた魚を見ようとそちらに集まった。
その隙を突いて恋杏に近づいた俺は、さっきからの疑問を口にした。
「で、ここで一体なにをするんだ?」
「え? もちろん釣りですよ」
「そんな『ここまで来て何言ってんの』みたいな、きょとんとした顔をしないでよ。いつの間に俺は釣りをすることになってるんだ」
「まぁまぁ、ツムギお兄さん。とりあえずやってみましょ」
「そう言われてもな……」
生まれてこの方、釣りというものをしたことがない。
ふんふんと気分よく鼻歌を鳴らす恋杏は、日傘を脇に置き、透明のパックに入ったケースから爪先ほどのエビを取り出すと、針に器用に刺していった。そして、ちょっと離れてね、という。
投げるフォームを取るのを感じ取った俺は距離をとって、その姿を見つめた。
海に対して半身になった彼女は、リールの取っ手のような部分を上に持ち上げた後、糸を指先に引っかける。右肩に接触するくらいまで竿を倒して、すぐさま勢いよく振った!
風を切る鋭い音がしたと思った瞬間、餌がついた針先は見事に十メートル以上先までとんだ。華奢な女の子の迫力ある投げ様をみて、俺は素直に驚いていた。
「すごいな……。あんなに飛ぶものなのか」
「し掛け次第ではもっと遠くにとばせられますよ。でも距離はそんなに関係ないんです」
リールをくるくると回して糸をピンと張るまで調整したあと、恋杏はこちらを向いた。
「ツムギお兄さんはサビキでいいですよね。初心者っぽいし」
バカにされた気もしたが、たしかに初心者なので口をつぐむ。恋杏は他のひとに声をかけて竿を調達すると、仕掛けとやらをセットしてくれた。
エビに似た針が糸の左右に複数くっついていて、一番下にはプラスチック製のカゴが付いている。それを赤い液体が入った容器の中で上下させると、カゴの中には細かいエビが沢山入っていた。
「これで準備おっけーです。リールの使い方は分かりますか?」
「このハンドルをぐるぐる回せばいいんだろ? 簡単だ」
初心者扱いをすぐさま脱却してやりたい俺は、竿を受け取ると、カゴの少し上を手に持って海に放り投げる。そしてリールを回して海に沈めるだけ……あ、あれ?
リールが壊れているのか、巻き取ることはできるのに下ろすことはできなかった。
「なぁ。何度やっても糸が下りないんだが」
「え? あはは、まさかそこで詰まるなんて(笑)」
「……」
「あわわ。笑っちゃってごめんなさい」
「すみませんねぇ、こちとら初心者なんで」
もう帰りたくなってきた。そもそもなんで釣りなんてしてるんだ、俺。
どうやらリールにはベールアームと呼ばれる細い金具の部分があって、それを持ち上げたり倒したりすることで糸の長さを調整できるらしい。簡単だった。
いよいよ初、釣りをすることになる俺に、恋杏はそっと身体を近づけてきた。熱い日差しの中でも、清涼感のある柑橘の匂いがふわっとした。
「……気をつけてくださいね?」
なにかを期待する表情を横目に、俺はため息を小さく吐いた。
一回だけだ。一回だけ釣りをして帰ろう。そうすれば彼女も満足するだろう。何より歓迎されていない俺なんかがずっとここにいるのは気が引けた。
リールを操作して糸を垂らす。ぽちゃんと間抜けな音がすると、カゴの重みもあってかするすると海に沈んでいった。海はお世辞にも透き通っているわけではなく、少し奥まで沈むと見えなくなってしまった。──と、その途端のことだ。
沈めたカゴの周囲から気泡が複数現れた。気泡だけじゃなく、現れたのは沢山の魚影だった。何十という魚影が縦横無尽に飛び交い、時たま竿先がくんっと引っ張られる。
「まだです」
どうしたらいい、と隣に助けを求めようと顔を向けると、真剣な表情の恋杏が竿先をじっと見つめていた。これまでの柔和な表情だけでなく、こんな顔もできるのか。
見とれていた俺は、そこで一際大きな引っ張りに竿を手放しそうになった。
「今です! お兄さん、巻いて! 早く。落ち着いて」
見れば竿先は何度も大きくしなっていた。細いその先をみて折れてしまわないか心配になった。竿を握る手には止むことのない振動が伝わっている。それが針から逃れようともがき苦しむ魚からの、決死の振動であることがわかった。
──命のやり取り。真剣勝負だった。
俺はぐっと竿を握り直すと、緊張でいつの間にか強張っている手でリールを回し始めた。隣で恋杏が矛盾していそうな掛け声を繰り返している。早く。落ち着いて。早く。その声に呼応するように、早く、けれど慎重に糸を巻き取っていく。この時間がすごく長かった。こんなに糸を沈めただろうか? まだ魚は見えないのか? 魚に逃げられる恐れもあって、次第にリールを回すペースが早くなっていた。ぐるぐるぐる。恋杏がなにか言った気がしたが、それよりも暴れる魚影が海から見えたことに俺は興奮をした。乾いた唇を舌で湿らせ、最後の巻取りを──
「あっ」
という声は誰があげただろうか。
俺は呆然としてリールの巻き取っていた手をとめた。竿からの振動はもうない。魚は海と陸の狭間わずかなところで逃げ切ったのだった。気づけば松原のおじさんを始めとして小学生たちもこちらの様子を見ていたらしい。
「あーあ、バレたか」「巻くのあせったよね」「どんまい、兄ちゃん! つぎつぎ!」
どういうことか、先ほどのような棘のある声ではなかった。
「最後、ちょっと巻き取りが雑になったのがまずかったですね」
「ああ、そっか。うん、すごく焦った。あんなに伝わってくるんだな……」
命が。鼓動が。すごく伝わった。
久しく感じたことのない、生きているという気持ちが全身に巡っているのが分かった。
「ね、お兄さん。楽しいでしょ」
いたずらに成功した恋杏の顔を見て、俺は頬が緩んだのがわかった。
「ああ、楽しいな」
それから俺はリベンジを果たすべく、二度目のサビキにチャレンジした。
気づけば二時間以上も経過していた。太陽は頭上高くに位置し、海は干潮となっていた。その頃には魚がすぐさま食いつくことはなくなっていて、お開きとなった。
書いていて笑いました。
こんな釣り作品にするつもりじゃなかったんです…。でも楽しい!