出会い
「…………んん。あつい」
頬を焼くような熱気と、じっとりと全身に張り付く不快感に重いまぶたを開けた。
いつの間にか俺は寝ていたようだ。ぼんやりとした頭は、昨夜どのタイミングで寝たのかを脳内で検索し始めた。
仕事から帰宅したのが深夜一時。そこからシャワーを浴びて布団に入って寝たのか、それとも倒れ込むように寝落ちしたのか。たいていその二パターンなので、昨日がそのどちらかだったか定かでない。なにせ記憶力のなさだけは定評があるのだから。
しかし、鼻に微量の潮を含んだ柑橘系の風がくすぐって、今回はそのどちらも違うことに気づいた。改めて目を開いて、首をぐるりと回してみた。どこだここ。
視界の端から端まで一直線に走る道路。防波堤が連なっており、それを越えた先には海が広がっていた。海はどこまでも続いている。いつも観ている窮屈な高層ビル群と違って開放的な気分にさせてくれた。しかし、それ以外には何もない。田舎風景と揶揄されるほどに、何も。
汗ばんだ全身が気持ち悪くて身じろぎをした。アスファルトは陽炎が揺らめいていて、気温が高いことをうかがわせた。よくもこの日差しの中、直射で寝られたものだと見上げた。そこには黒く塗りつぶされた世界と、デフォルメされた猫のさまざまな顔が散りばめられていた。
ねこ……?
「起きましたか? ああ、よかったですっ」
風鈴のような心地よい声が聞こえた。それもすぐそばから、だ。
俺は隣で同じように座る人物を目にした。白いカッターシャツに紺と赤のストライプが入ったリボンネクタイを付けている、どこぞの女学生だ。歳は十六、七ほどだろうか。膝の上には開かれたノートパソコンがあり、それを支える陶磁のようなきめ細やかな白い手が印象的だった。
急に見知らぬ女の子にほんわりと微笑まれて、俺はかなり戸惑った。どうやら彼女が猫柄の日傘を差してくれていたことが状況から察した俺は、カラカラの口でお礼を言った。
「あ、ありがとう。その、日傘を差してくれて。日差し強かったから」
「そうですよ~。もう梅雨も過ぎて、いよいよ夏ですからね。日射病で倒れちゃいますよ」
ほんとうにその通りだ。彼女がいてくれて助かった。
「それはそうと、お兄さんはこれからお仕事、ですか?」
俺の脇にある通勤用のカバンに目線を落としながら、何気なく訊ねてきた。
徐々に昨晩のことを思い出しつつあった俺は、片頬が引きつるのを自覚しつつ曖昧に笑った。
「有給消化です」
「おおーっ、社会人っぽいですね! かっこいい!」
「そんな。かっこよくないんだ、ぜんぜん」
自嘲気味に笑うが、無邪気な少女は気にならないようだ。
「でも私とそんなに歳変わらないのに、バリバリ働いてるなんて。すごいです」
「俺は二十一歳だよ。大人になったばっかりだ。君はまだ高校生だろ?」
「ほら、やっぱり近い!」
正鵠を射たと手を叩いて喜ぶ少女。
「私は二十歳なんです。現役JKなんですけどね。えっへん」
二十歳というワードに驚いた。でも、だって、制服着てるし。超似合ってるし……。
こう言ってはなんだが、目の前の少女はすごくかわいい。亜麻色がかったセミショートの髪型はさらさらで、風にさらわれてはふわふわ揺蕩っている。くりくりとした大きな瞳は人になついた猫みたいな癒やしがある。それにハリを感じる真っ白な肌と、ぷるんと潤った桃色の唇が何よりも十代全盛期の若々しさと、細やかなオシャレの気合が感じられるのだ。
女性全盛期と少女全盛期が一度に来てしまった! みたいな、可愛さと美しさを兼ね備えたような目の前の少女は、それを自覚してかしないでか、胸を反らして偉ぶった。
──ちなみに胸は平坦が盛り上がった丘陵といった感じだが、それも俺はぐっと来る。
いやいや、初対面の女の子にこんなこと考えるのは失礼だろ、俺。
「さてお兄さん。じゃあ行きましょうか」
ひとり思考で懊悩していると、隣の少女はパソコンを閉じ、緩衝ケースに入れ、リュックの中に手際よく収めると立ち上がった。そして当たり前のように、こちらに手を差し出す。
「今からがいい時間帯なんです」
なにが?
疑問を抱きながらも、最初に目にしたものを親と認識する雛鳥のように、俺はヨタヨタとその後姿を追いかけた。柑橘系の淡い香りが再びした。