Last Dive
数歩歩けば終わってしまう空間から、世界を描いていた。
独特の匂いの染み付いた白いベッドに、無造作に皴をつけながら。右側に見える窓の外をひたすら写生する。
街。
高台から眺める風景は明るく、開けていた。二車線の広い道路、ガソリンスタンド、向かい合ったコンビニ、坂になった住宅街、グラウンド、田んぼ、公園、竹林、マンション、線路、遠くの山々、学校。のろのろ荷車を押す老人や日傘をさした子ども連れの母親、集団の小学生、暑そうに自転車に乗る中学生、汗を拭きお辞儀をするサラリーマン、手を繋いだ男女など、様々な人間が小さくうごめいては消えていった。
私の世界は、もっと多くの幻に溢れていた。田んぼから、天まで届く樹が生えていた。悪魔と天使が駐車場で言い合いをしていた。民家に所構わず風見鶏がついていた。コウモリの羽を持った猫が、空を駆けていた。翡翠を蕩かした月と玉虫色の太陽。
つまらなかったからだ。
完結させることが面倒だった。
入れ込むほどの趣味ではなかったが、完成すれば、また新たにすることを探さなければならない。
この場所に慣れるのが恐ろしく、出来ることなら何も見たくないと思っていた。
白い仕切りに囲まれた、白い部屋の右奥。
醒めない夢が、あってもいいと思った。
※
人には許せない事が、各自多くある。
私は平均もしくはそれ以上に許容できない範囲を持っていると自認している。
中でも何かに集中しているとき、予想しない人間にそれを邪魔されることが許せなかった。
「こんにちは」
だから、返事をしなかった。
いつものように惰性で、昼が傾いた真夏の世界をスケッチしていた。看護師ではない男の声に、ただ眉をしかめただけだった。
「あの、えっと。すみません、急に話しかけたりして。今日からお世話になります、オヅキエイジといいます。よろしくお願いします」
数秒後改めて声が掛かる。無視をしたというのに意に介さない鬱陶しさに、反射で苦い視線を向ける。
いかにも騙してくれといわんばかりの、緩い笑顔の若い男が、正面のベッドの上に座っていた。
嫌いだと思った。こんな奴は許せない。世話をするつもりもなければ馴れ合う気もない。他の人間とやってろ。
住宅を塗っていた色鉛筆とスケッチブックをベッドに投げ捨て、私は仕切りを閉めて視界を遮った。世界の見える窓は右斜め前にあったから、正面まで仕切りを閉めてしまうともう何も見えなくなる。
完結した白い空間、意味のない焦燥募る現実、ゼロですらないマイナス地点。
じっとりと汗で湿る背中を感じながら、シーツを被って夢を見ないように目を閉じる。
※
池の中にいた。
少し泳げばすぐに岸にぶつかるような狭い池だ。
私は一匹の魚だった。私の他にもう生き物は残っていなかった。池の周りで何か大きな生き物達がざらざらと騒いでいた。不快に思ううちに、それもいつの間にか消えた。
静寂と澱み。そしていくら泡を吐いても、尾を動かしても、私は池に残った最後の魚だった。
──サン、……いさん。
「佐井さん」
苗字を呼ばれているのだと気付いた。
虫のざわめきは遠く、目を開いて認識した闇は、先ほどまでの青い孤独とは異なって、しっとりとぬるいものを含んでいた。
自分を呼ぶ声を見つける。知らない人間。
私は露骨に眉間に皴を寄せ、相手の心臓が冷えるような視線を投げかけた。
「誰。ここで何をしているの」
相手はすっかり日の落ちた世界のそばで、頬を掻いて、曖昧に首を傾げた。
「えっと、オヅキです。今日正面のベッドに来て……覚えてませんか? あ、そうですか。覚えてないですよね、すみません。あの、先ほどは家族がやかましくてすみませんでした。え、ああ寝てました? って今もそうだったし、別に何もおかしいことはないよね──」
「やかましい。今すぐここから出て」
私は遮った。新入りだかなんだか知らないが、図太いにもほどがある。今、自分とこの男以外の部屋の住人たちはどこかへ行っているらしかった。いつもそうだ。私だけが仕切りをし、日が落ちると同時にシーツを被る。他の住人たちは気を使っているのか、電気をつけず、他の場所へ行って一緒に食事をしたりテレビを見たり、談話をする。
男は申し訳なさそうに髪に手をやり、一歩下がった。
「もう、寝てしまうんですか」
「だったら何」
「その、食事を。看護師さんが持ってきました。そのことを伝えたくて。約束もしたし」
「そう」
「食べないんですか」
「こんなものを毎日毎日食べられると思うの」
「嫌い?」
「そういう問題じゃない」
「まあ……おいしくはないけど、ちゃんと食べないと健康にも」
「うるさいな。動かないんだから食べる必要なんかないんだ」
声を交わすほどに、夜はじっとりと熱を持ち、苛々と不快感は増した。腹痛がする。なぜ一々こんなことを言わなければならないのか。誰が言わせているかわかっているのか。許可のない偽善者。反吐が出る。
私は水の入ったコップを掴んで相手の足元に投げつけた。プラスチックの容器は生ぬるい水を撒き散らして一度跳ね、転がって斜め前のベッドの下に入っていった。
驚いた様子の男を突き飛ばして空間から押し出し、しっかりと仕切りを閉めなおす。視界から夜の世界が消える。私はシーツにしがみつくように身体を丸める。もしかして呼吸も消えてしまわないかと、息を止める。すぐに苦しくなって肺が強制的に酸素を取り込む。
耳を塞ぐ。
そうすれば離れていく足音も、床を拭く音も、どこかの階から響く笑い声も、遠くへ旅立つ船の汽笛の音さえ、血が淀むような音に掻き消されていくから。
※
世界が始まる瞬間が好きだった。
うっすらと空が明るんで、青く透明な空気が、金色に変わっていく。まだ動かない街。眠ったままで、息を潜めて空の下に横たわっている形ある影の塊。
私は暗い内に目覚め、世界の見える窓から息を詰めてそれを待っている。変化する空を目に焼きつけ、動き出す人間を探し、ざわめきが重なり始めるのを聞く。
生きている。息づく世界。
無言で謳う光景を見ている私は、生きているのですか。
※
「おはようございます」
必要最低限の身支度をし、トイレから戻ってきた時に和やかな声が掛かった。
聞き覚えがあり、随分と上手い嫌味だと思うと同時に、倦怠感が募った。要するにそれほど腹が立った。私にとって許可なくペースを乱されることほど許しがたいことはないのだから。
「昨夜は、どうもすみません……その、よくわからなくて。怒らせてしまいました。謝ります」
私は罵声を堪えて仕切りを閉める。ベッドの上で、味のない朝食を機械的に飲み込む。
コップを手に取ったとき、零れた水の風景がフラッシュバックされて、手が止まった。一体自分は、何をしているのだろう。どうしてもひっかかってしまう。
傾いたコップから水が腕を伝い、肘で雫をつくって、シーツに染みを広げる。それはぼやけているし、すぐに消えてしまうから、私はひどく安堵している。
「何を描いているんですか?」
男は相変わらず声をかけてきた。口を開かなければ死ぬ病気なのかもしれない。
無視を決め込もうと思っても、いつまでも続く不思議そうな視線と沈黙にため息が出る。
「……絵」
「何の絵ですか?」
「街……」
小学生でもしないような会話未満だ。左斜め前のベッドの老婦人が小さく微笑むのを見て、私は頭痛をこらえている。
見せてくれ、いやだ、ちょっとだけ、無理、お菓子あげるから、いるか、どうしても? どうしても。
私の血圧を一方的に上げる会話が続き、その内、部屋のドアが開くのがわかった。一人分の足音は、私のベッドの側で止まる。看護師ではなかった。
「姉ちゃん、元気」
「ああ……いらっしゃい。別にいつも通りだけれど」
高校生の弟だった。鬱陶しい会話はやっと終り、私はいつもより機嫌よく迎えることが出来たかもしれなかった。
弟はつらつらと学校の様子やニュースや近所の事や家族の話をし、私はそれを適当に聞きながして相槌をうつ。ろくに返事をしなくても怒ったりはしない。私が見舞いに来られるのがとても嫌いだと知っているから。
両親や友人や恋人でさえ遠ざけたのに、弟だけは何か責任を背負っているかのように律儀にやって来る。そんな彼に私は言う。
「別に義務じゃないから。無理に来なくてもいいよ」
「そういうこと言うの、止めた方がいいと思うよ」
傷付くくらいなら最初から来なければいいのに。ため息混じりに花束を置いて帰っていく弟の背中を、私は冷えた気持ちで見送った。
※
久しぶりに、街以外を描く。
サイドテーブルに置かれた見舞いの花束は綺麗だったから。弟にしては珍しい選択で、花をもらう機会も滅多になく、オレンジやピンクのカーネーション、カスミソウ、小柄な白いユリのような花が寄り添って組み合わさり、それは小さな世界のようだった。
スケッチブックを淡い色鉛筆で埋める。鉛筆削りからこぼれた顔料がシーツに色をつける。花束はいつの間にか一つの大きな樹となっている。そこへ、色とりどりの鳥たちが集まってくる。赤い羽根や黄色の尾、緑の足、虹色のくちばし、桜色のカラスに水色のハト。
花の樹と鳥達の楽園だった。
一旦描き終えると、もう夕方に近かった。包装されたままの花束に少し触れて、不意に──するべきことに戸惑う。
「花瓶。貸しましょうか?」
そんな私の様子を目に留めたのか、穏やかな声と手が降ってきた。
オレンジ色のリボンが解け、水を含ませた布や輪ゴムやセロハンがはがされる。音も無く一枚の白い花びらが床に落ちる。彼が丁寧にそれを拾ったとき、もう花々は透明な花瓶の水中にいた。何も違和感はなく、私はぽかんと口を開いていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
男は緩く笑って答え、「お礼に絵を見せてくれないか」と要求した。私は彼を追い出して仕切りを閉め、さっさとシーツを被った。
※
こんにちは。
まどろんでいた私は、僅かに目を開く。蒼い碧い水の世界。狭くて透明で、自分以外はいない小さな池の中。最後の魚はゆらゆら沈みながら呟く。こんにちは。こんにちは。だれかいるのですか。
返事が聞こえた。
いますよ。わたしはここにいます。
見上げた水面に、消えそうな月が揺れていた。
診察の時間、就寝時、家族の見舞い、それ以外の時には顔を合わせざるを得ないから、私はだんだん投げやりになっていった。
オヅキは思い出したように絵を見せて欲しいと言う。
「なんだったらフルーツもあげるよ」
「……じゃあ、ぶどう」
私は彼の家族がお見舞いに持ってきていた盛り合わせを見て、心底疲れた声を出した。勝手にしろと、持っていたスケッチブックをぞんざいにサイドテーブルに置き、艶やかな濃紫色の粒を口に含む。ほどよい酸味と果汁が口内に溢れ、とろりと喉をひたした。
彼は私のスケッチブックを見て、声を上げた。
「すごい! これ、全部佐井さんが?」
「他に誰がいるの」
「はー……なんだろう、なんていうか、」
思ったよりも気恥ずかしくなり、私はページをめくっているオヅキから視線を逸らして黙々と果実を口に運んだ。
「優しいね。とても」
──その瞬間果汁が喉に引っかかり、盛大に咳き込んでしまった。
最悪だ。一体。どうして、そんなことを。
「あ、大丈夫っ!?」
濡れた口元から形を失った皮がこぼれる。ブラウスに紫の染みができる。背中をさする手があって、すぐにタオルを差し出される。口元を押さえて身体を落ち着かせると、過去に削られた内側の傷が痛んだ。そんな気がした。
なんでいつも笑っているんだろう。
やけに気に障る原因を考えていたら、そんな疑問にぶつかった。オヅキは私が視線を向けたことに目ざとく気付いたようで、やはり緩やかに笑った。
「佐井さんを見ると、何か懐かしいんですよね」
「何それ」
私にはこんなに自分を苛立たせてくれる男に出会った覚えは無かった。
「昔よく、実家に黒い野良猫が来てたんです。祖母なんかには慣れてたんですけど、僕には少しも触らせてくれなかった」
「馬鹿じゃないの」
「そうそう、そんな感じで」
色鉛筆を持つ手に不可抗力の力が加わって、紙が破れるかと思った。私が最大限の苛立ちを込めて睨むと、オヅキは悪びれることもなく、スイカあげるよ、と誤魔化した。
「認めたくなかったんです」
仕方なく赤い果肉を口に含む。その直後に、呟く声が聞こえた。
「こんなところに居る事、とか。つまらないし考えることがとても難しくて。でも、どう足掻いたって実際居るわけなんだ。それはそれで、何らかの選択の内で、事実で、その中でどんなことが出来るかとか、落ち着いて振り返ればまあ悪くはないかなって。認めない、拒み続けることに疲れた根性無しなのかもしれないけど」
「だから、そんな風に笑うわけ?」
「人が笑うのは楽しいからだよ」
嘘だ。
楽しくなくても人は笑う。そして次第に本当と嘘が混じり、区別がつかなくなる。区別がつかなくてもいいと思うようになる。
そんな笑顔に感情を動かされることを虚しいと思うのは、おかしいことだろうかと、思う。
※
眠っていたはずだった。
夕暮れが見えなくなる頃には、私はいつもベッドに横になって目を閉じていたから。眠れなくても眠るようにしていた。
けれど、診察から戻ってきた微かな足音でおぼろに目が覚め、微かな宵の風が意識を引き戻した。
なんのつもりだろう。こんな時間に窓を開けたりして。そんなことをしても、余計にぬるい空気が入ってくるだけなのに。鬱陶しい。馬鹿野郎。
私は熱を持ったシーツを跳ね除け、張り付くような黒髪を掻き分けながら仕切りを引き開けた。
「──……」
夜の世界。身を乗り出すようにして見ていた彼の、驚いた表情。廊下からの薄く僅かな光で、なぜかはっきりと目に焼きついた。
「何やってるの」と、私は言った。
彼はしばらく困ったように沈黙してから、くしゃりと笑った。遠くで、街が星のように広がっていた。
「なんだろう。近づけると思ったのかもしれない。ここに居なかった自分に」
「────」
思ってもいなかった。
耳を疑った。
なぜならそれは、全部否定するということ。生きることを間違えたということ。何もかも、全て、跡形もなく。
堰き止めるものさえなかった。感情が焼け焦げた。
暗闇。粘りつく気温。遠くを彷徨うような、笑顔にすらならない寂しげな顔。全部許せなくて、悔しくて、壁に思い切り右手を叩きつけた。
「嫌い。大嫌い……! 何それ、馬鹿じゃないの?」
オヅキは一瞬呆然として、また無理矢理笑おうとした。鈍く痛み始める私の手に心配そうに触れた。隠せばいいのに、みっともなく震えていた。私はその手を力任せに振り払って、荒い呼吸を繰り返した。こんなところに居るから。ふざけてる。そうじゃない。そんなわけがない。どこへだって行けるんだ──
財布を掴んで、ついでのようにオヅキの手首を掴んで、逃げるように部屋を飛び出した。
「佐井さん!」
階段を下り、人気のない廊下を駆け抜けて、玄関を飛び出す。
私は何を言われても返事をしなかったし、息が切れてもどこかが痛んでも、ただ手を引っ張って走り続けた。敷地を抜けて、街へ辿り着いて、裸足のままコンビニへ駆け込んで、やっと止まった。ここなら少しは落ち着けそうで、実際に人目があったから、冷静さが少しだけ戻った。
「だいじょうぶ、ですか……? 足、とか……」
「痛い、けど、別にいい……」
「一体、どうして、」
「行くんだ、海に」
私が咄嗟にそう答えると、オヅキは瞬きをして、うみ、と繰り返した。
息を整えるのもそこそこに、買い物籠を持ってアルコール飲料の売り場へ行く。まだぼーっとしているオヅキを、顔をしかめて促し、短く聞く。
「ビールでいいの? 焼酎? 日本酒?」
「え……と、うん、じゃあ、ビールで……」
缶ビールと自分用の缶チューハイと、氷をかごに入れ、地図を買ってコンビニを出た。寝巻きのままでいたから不思議そうな目があったが、構わず街灯の下で地図を広げた。ようやく納得したのか、オヅキも手元を覗き込んできた。
「あっちだ」
「うん」
笑う。笑い返す。お互いの存在を確認するように、今度は手を繋ぎ、夜を追いかけるように走った。交代で酒のはいった袋を持ち、途中の店で裸足の私が履くためのスリッパを買った。
疲れた、と文句を言えば、もう少し、といつの間にか私の手を引いて、楽しそうに彼は歩く。行き止まりに突き当たって、だからこっちだと私が指摘して、それも行き止まりで、苦しくなるまで笑う。夜空が広くて、星を探した。ベガ、デネブ、アルタイル。あれがはくちょう座だと言われ、少しも白鳥には見えないとあしらう。見上げすぎて眩暈がしても、手を繋いでいたから倒れなかった。いつか描いた公園やグラウンドや商店街を通り過ぎた。あそこで天使と悪魔が言い争っていた、と彼が指摘して、あれはどちらが年上かで口論していたのだと、くだらない嘘を吐いた。
暑くて、夜風が心地よくて、どこまでも歩いていける気がした。
音も空気も五感も本物なのに、浮遊感があって、熱い手のひらの感覚をいつまでも探していた。こぼすように話をして、あの電柱まで走ろうと励まし、車もほとんど通らない眠った街を辿った。
どこまでも。
夜の夢が、生まれるところまで。
足の感覚が薄れて眠くてぼんやりしていた頃、潮の香りがして、波の音が聞こえた。
それは夢のようで。
「着いた?」
「着いた……!」
意識が覚醒した。
疲れていたのも忘れて、子どもみたいに走る。眠った道路を横切って、肩ほどの高さの海岸堤防に手をついて、島影もない海面を覗き込んだ。右手に街の明かりが見えて、他には星だけが輝いていて、包み込むような音と潮風が身体を満たした。
「海だ」
「うん、広い、大きい」
「乾杯。早く」
散々走ってシェイクされた缶のタブを開けると、泡があふれてズボンを濡らした。氷はとっくに溶けて、常温に近い味がする。オヅキが少し咳き込んで、私は声を上げて笑った。
「まずくて飲めないんだ」
「いーや、おいしくて涙が出そうだよ」
堤防によじ登って酒を飲みながら、さんざん笑った。酔いが回ってくらくらして、眠くなりながら、世界が目覚めるのを待った。空が少しずつ白んで、海が青く色を取り戻して、霞む目で、こんなにも近くで朝日が昇る瞬間を見た。綺麗だと、オヅキが言った瞬間に胸が一杯になった。
泣けた。
朝が来てしまえばもう、一人きりだと知ってしまうのだと知った。
「佐井さん?」
声も無く泣く私を慌てた声がなぐさめ、その内に遠くから知らない人間の声が掛かる。壮年の巡査で、誰かが私たちを通報したらしく、間もなく連れ戻された。
※
白い部屋へ足を踏み入れると、待っていたらしいオヅキの両親が同時に立ち上がり、駆け寄ってきた。
「エイジ! なんともないか!」
「よかった……!」
母親の方が彼をベッドに座らせてきつく抱きしめる。オヅキは状況についていけないのかただ呆然として、反応しなかった。父親の方が、私を睨んで罵声を浴びせた。
「あんた! どういうつもりだ? 勝手にうちの息子を連れまわして」
「父さん、ちが……」
どうもこうもなかった。やりたいようにやっただけだ。
倦怠感から眉を顰めて黙る私に、彼の父親は耐えかねたように詰め寄った。
「黙ってれば済むと思うんじゃない。何でエイジが入院してるのか分からないのか? あんたはエイジを殺す気か」
激しい憤りの中に、僅かな怯えと不安を混じらせた瞳で、何かを求めている。
掴まれた相手の手をそのままに、私は微笑み、「そうです」と答えた。
振り上げられる拳が確認できた瞬間には、鈍く信じられないほどの衝撃が頬の辺りに感じられ、一瞬視界が白くなり、平衡感覚が崩れた。倒れこんだ先にサイドテーブルがあって、その角に頭をぶつけて呼吸が詰まった。甲高い悲鳴が上がって、それさえ歪んで聞こえる気がした。どこが痛んでいるのか、倒れているのか座り込んでいるのか眠りたいのか、教えて欲しくて、視界の端でオヅキが飛び起きて駆け寄ってくるのを、ただ見ていた。
「佐井さん! 佐井さん……っ!」
彼は必死の形相で私の血を抱きしめた。そこだけは、熱いほどに温かかった。ああ、もっと血が流れればよいのだと思った。罵声と悲鳴がわんわん鳴り響いて、もう何も聞こえなかったし、彼は決して私を離そうとはしなかった。
酒と薬品と死の匂い。
別にいい。
醒めない夢があっても、いいと思った。
※
祈るような声で呼ばれた。
私がゆっくりと意識を取り戻して目を開くと、辺りは暗くて、静かで、世界の見える窓から月明かりがもれているのだった。
私の手を握っていてくれる人がいた。どこかが鈍く痛んでも、心地よくて、まだ、眠っているような気がした。
夢を見ていたんだ。
囁くと、その人はいつもよりもぼやけた声で聞き返した。
「どんな、夢?」
「私は、……さかなだった。小さな池に残った、最後のさかな。孤独な池の魚」
沈んで消えるのを待っていた魚は、あるとき声に気付いた。呼んでいたのは空に浮かぶ月の光だった。魚は、月に恋をした。でも、月は近くていつでも見守ってくれるのに、不安定で、とても遠かった。
魚は、きっと会いに行きますと月に約束した。
「でも、魚は池の中からでることは、できないから、」
目を凝らす。そこにいるのだろうか。
わたしは、ここに。
「さかなは、どうなったの?」
魚は死んで獣になり、月へ向かって吼えた。また生まれ変わって草となり、月夜に花を開いた。死んで海となってその姿を水面に映したこともあった。そして死んで鳥になりほんの少し距離を縮め、死んでサンゴとなって月夜の海に雪を降らせ、また生き返って雲となり、真珠となって月を模し、発光虫となって同じ色に光り、星座となって同じ空間に輝き、また死んで月の光だけで現れる虹となり、何度も、何度も生まれ変わった。
さかなは、会えた?
さかなは。
ある日にんげんの子どもになった。子どもは、夢を見た。夢の中で、さかなは月までおよいでいって、月に辿り着いた。つきとさかなはいっしょに、ほんの一夜の間、空を旅した。朝が来る寸前に月は、いままでありがとう、とても嬉しかったと、涙を流した。さかなは月に、約束した。
「あなたが好きです。だから、また会いにきます。どうか、あなたが孤独ではありませんように」
透明な血液が、私の手の甲を濡らした。
ありがとう。さようなら。
また、いつか。
※
どこまでが本当だったのかわからないし、別にどこまででもよかった。
明るい部屋で目覚めたとき当然のように彼の姿はなく、私も間もなく自由になった。あの時の自分が確かに存在したことを示すものは、家の棚にしまわれて、もう開かれることはないだろうスケッチブックだけだ。
ただ、風の噂を聞くことがあった。
ほんの少しだけ気温を下げた夏の午後。私はビールと花束を買って、海岸堤防を訪れる。
子どもの明るい声と自動車の行過ぎる継続的な音が響いていて、そのすがすがしさに笑いがこみ上げた。
「――……」
私は、海面へ向けて花束を放り投げる。
ありがとうと、少しもなんでもないことのように言う声が、聞こえた気がした。