青春譚
まだ10代だから書けた気がする。20代になったらどう考えるのかな。
「青春」というものはどこにあっただろうか。
彼女曰く、それは高校時代のことだとか。
あの頃はいい。恋に、部活に、勉強に、一途にのめり込んだ。あの経験を、できるものなら再び味わいたい。そう言うのであった。
僕はこれを聞くばかりだ。彼女の話すことの大半を僕は知らなかった。
勉強はしていた。しかし、部活に入っておらず、ましてや恋など、今に至るまで全くない。彼女の言う「青春」が、一体どういったものであるか、僕には想像がつかない。
「青春」とは何か。
彼方、過去の淵に沈んでいる、淡い高校時代の記憶であろうか。
文化祭を行った。合唱祭を行った。様々な行事の記憶はある。だが、それらが「青春」だと僕は思っていない。僕は、彼女のように「楽しい」学校生活を送っていないのだろうか。
いや、それは違う。
僕には友人がいた。彼らと楽しく過ごしていた。
友人といっても、彼らは俗に言う友人とは違うのかもしれない。彼らは学校にいる間は友人でいてくれる。良き話し相手であり、良き遊び仲間であった。共に行事を盛り上げた記憶がある。
しかし、彼らは学校の外では他人だ。彼らは僕と何ら関わりを持たなくなる。仲良しこよしは学校だけなのだ。
僕は、友人とは、ほとんど連絡をとったことがない。用がないのに、連絡しても不自然極まりないと考えてしまう。しかし、先日、少し勇気を出して連絡を取ろうと試みた。結果は散々だった。連絡帳には、使えないメールアドレスばかりが記録されていた。例えそれが使えても、返信はほとんどなかった。
僕は、この時、改めて「青春」などなかったのだと思い知らされた。
甘酸っぱく、塩辛い、そんな「青春」が、人それぞれにあるのだ。本来は。
僕には「青春」がない。
彼女は、誰にでも青春はあると言っていた。彼女にとって高校時代の楽しい記憶そのものが、青春の証だそうだ。だが、僕が感じたあの楽しさは、僕にとっての「青春」ではない。
「青春」とは輝かしくも、懐かしさを含む、そんな綺麗で、懐古すべき記憶のことを示すのではないのだろうか。
違うのだろうか。
仮に僕が「青春」を送っていたとしても、僕自身、それを「青春」だと気づいていないだけであろうか。
きっと彼女はこう言うだろう。君は青春に気付いていなかっただけである、と 。
しかし、気づかぬ青春など「青春」であろうか。僕は「青春」を知覚できなかった。僕は異常者であるのか。僕の知らない「青春」を思い出そうとしても、僕にはそれに準ずる記憶が全くない。僕の高校生活は、「青春」とは程遠いはずだ。いや、僕の思い込みかもしれない。僕の「青春」は、あの時にあったのかもしれない。本当はあるはずの、「青春」を忘れてしまってはないだろうか。僕は、少し考えてみることにした。
数年前、僕は高校生という身分にいた。世間一般、小説や映画で描かれるような、まさに「青春」と呼ぶべきは、この時が多い。恋に、部活に、一途にのめり込む時代だ。残念ながら、僕はその両方に縁がなかった。
恋については、僕が感じるものは何もなかった。誰かしらを可愛いと思うことはあったけれど、その人を自分の手中に収めたいと思うことはなかった。結局、僕は恋というものを知りえなかった。それは友人達も同じだった。一人か二人は恋人がいた。彼らを除けば、僕の友人は、僕と同じく、誰彼が可愛いと言うのみであった。
彼らの「青春」もまた、僕と同じく無かったのであろうか。
いや、それは違う。彼らは、数人を除いて部活に所属していた。友人達は、運動部にせよ、文化部にせよ、それぞれ自身のやりたいことを一所懸命に行っていた。僕には理解し難いが、彼らにしてみれば、その努力の軌跡が「青春」だそうだ。一丸となって活動し、同じ目標に向かって一途となった経験は、彼らにとっての「青春」ほかならない。
ならば、恋にも部活にも励まなかった、僕と同じはぐれ者の姿はどうだろうか。まさに彼女がその一例だ。しかし彼女は、高校時代はとても楽しかった、と言っている。正にあれは青春だ、と。
彼女は「青春」を体験している。僕の体験しえなかった「青春」を、彼女は持っている。
羨ましい限りだ。
やはり、僕は「青春」を体験できなかったようだ。しかし、僕が逃した「青春」を取り戻すことは、もはや叶わないようだ。思い出せず、感じることもできず、新たに体験することもできない。忘れられた「青春」は僕の心に巣食うのに、僕は「青春」の影すら見ることができない。僕も彼女のように、「青春」に触れてみたかった。「青春」の片鱗に触れることできれば、思い悩むこともないのに、と悔やむばかりである。
嗚呼、「青春」というものが、近くにあればいいのに。
彼女の微笑みを見ながら、僕はそう考えるのであった。
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