紀之
こういうのって火事場の馬鹿力って言うんだろ?と紀之が言うと晶子は弱く笑って見せた。玄関に戻った二人は職員室前の廊下で座り込んだ。紀之の肩の血はまだ出ている。さっき無理をしたからだ。
「馬鹿だね、あんた。一人で逃げたら良かったのに」
晶子が紀之の左肩の具合を見ながら言った。
「助けてもらった恩を返しただけだから」
紀之も弱弱しく笑った。彼の場合は単に力が入らなかったからだ。出血多量だと自分でも分かる。
「なあ、俺ってどうなるんだろうな?愛美って人みたいになるの?」
晶子は思わず手を止めてしまった。
「分からない」
そうとしか言えない自分が不甲斐なかった。
「ごめん。そうだよな。俺も全然分からないし」
紀之も自分の左肩を改めて見た。多分、傷は貫通している。大量の出血のせいで詳しくは不明だが。晶子はその肩の様子をしばらく見てからスマホを出した。プルルル、プルルル…と五回ゴールが鳴った後で相手が出た。
「もしもし、先生?」
『はい、先生です。どうしたの?晶子ちゃん』
「怪我人が出てしまって…。止血したいんだけど」
『どの辺り?』
「左肩で…」
うんうん、と詳しく止血方法を聞いた晶子は少しホッとした声を出した。
「ありがとう、先生」
『いえいえ。斎賀くんにも報告してね?あの人、イライラしてたわぁ』
ふふふっと笑い声がする。
『主任があっちに呼ばれたから自分が慣れない事をしなくちゃならなくて。こっちに愚痴を言いに来たくらい』
「すみません」
『晶子ちゃんのせいじゃないよ。で?奴らは?』
「どうやら一体だけ。でも全然駄目だった。一緒にいるのは一人だけ。その人も怪我をしている」
『でも助けられるんじゃない?止血、早くしてあげてね?』
「はい」
晶子は通話を切るとすぐさま止血に取り掛かった。そして図書室から飲み物を持って来て紀之の隣に座った。
「喉、乾いてない?」
紀之はスポーツ飲料を受け取ると少しずつ飲み始めた。
「なあ、教えてくれよ。五十嵐さんの事。いつもこんな風に助けに回ってるの?」
「…」
晶子はどこまで話したらいいのか迷った。しかし紀之は穏やかな笑顔を見せた。
「知らない方がいいっていうのは聞いたけど、もう俺も当事者なんじゃないの?そもそも生きられるかも分からないし。こんな状況であれを忘れろなんて無理だし。それに、俺、五十嵐さんの事は全く知らないんだよね。だから五十嵐晶子といえば石川大輝のストーカーで有名だって言われてもピンとこない。俺にとって五十嵐晶子は命の恩人だ」
「…」
晶子は少し笑った。嬉しいと思う自分に自嘲したのだ。
「情けないけど、でも、そんな風に言ってもらえると来たかいがあったな。あなたの言う様にもう知らないままってわけにはいかないかもしれない。でもその前に図書室で何があったか教えてくれる?あと、私の事は晶子でいいよ」
紀之は視線を上に上げた。一時間前の事を思い出していたのだ。
晶子が図書室から離れた気配を感じた時、智明が決起を訴えた。
「あれは本当に悪質な奴なんだ。これだってあいつが仕組んだ事かもしれない。そうじゃなくても大輝に近付くために来たのかもしれない。そのためだったら何でもする奴なんだ。あいつの言う通りにしてたら何が起きるか分からない。逃げよう」
それに対して大輝も頷く。
「ごめん。俺はもう晶子とは同じ場所にいたくないんだ。他の人がやらなくても俺は逃げる。晶子が怖い。俺を見る晶子の目が怖いんだ」
豊は大輝や智明には興味が無かったがここに留まるのに不快感があった。
「俺も行くよ。今は活動が鈍くなるって言ってたじゃないか。別に走って逃げたらいいんじゃないのか?」
孝一郎や聖花も豊に同調した。それを見た真知子も流されるように頷く。
「俺は別にどっちでも良かったんだけど団体行動から外れるわけにもいかないだろ?それで愛美さんが晶子を引き付けているうちに窓から逃げようって事になった。窓から出ている間に晶子が戻って来たら台無しだろ?だからって愛美さんは自分で囮を名乗り出たんだよ、たしか。それで俺たちは図書室から脱出した。でも、足が竦んだよ。グラウンドには沢山の死体があって、俺は動けなくなった。その時に晶子が走って来たんだ。気が付くのが思ったより早かったなって思った」
晶子は話を聞いて「そう」とだけ言った。その時の様子が目に浮かぶ。あの三人がいたなら当然の結果だ。智明と大輝と愛美の三人と会ったのは最悪の偶然だった。
「晶子は一体大輝に何をしたんだよ?あの人、晶子がいなくなってから吐いてたぞ?」
「ああ…」
晶子は苦笑した。
「私が大輝と会ったのは高校の入学式だった。一目惚れだったね。優しくて少し儚げで、白くて細くて髪は茶色で。全部理想通りだった。それで親しくなりたくて話しかけたり、偶然を装って帰り道を一緒に歩いたりした。けど、いつも智明と愛美が一緒にいてね。あんまり一緒にはいられなくて、それで遠くから眺める事が多かった。それがストーカーの始まりかな。自覚は無かったけど。離れた場所から見ると私と同じように大輝を見ている人が数人いるって分かった。それでそいつらを蹴散らした。大輝の知らない所でストーカー同士の攻防が繰り広げられていたってわけよ、笑える。でも智明や愛美の場所には行けない。だから卒業式が終わった後で大輝を拉致ったの。一緒に暮らそうと思って。その時の私はそれが大輝も望んでくれていると信じていたし、これで二人きりで幸せになれるって思ってた。けどその生活も二週間で終わり。捜索願が出されていて、私はあっさり捕まった。それから何度も幾つかの病院で入退院したけど、その間もずっと大輝に手紙を書き続けていたし、これからの二人の未来をノートに綴ってた。改善の余地は無いってことで一生出られない病院に入らされた。その時にはもう両親と大輝の間で私は大輝に絶対に近付けないって誓約書が作られていたし、家族も私を管理しきれないと匙を投げていた。それくらい、私は大輝に大きな傷を負わせてしまった。大輝は入学が決まっていた大学に通う事が出来ないくらい精神が壊れてしまっていて、一年も治療に費やした。完全に回復したわけではないけど、引っ越しをして大学に入り直して平穏な生活を取り戻したはずだった。今日、ここに来なければ」
「その二度と出られない病院っていうのが、中央精神病院の事?」
「そう。あそこは試験的な病院で罪を犯した精神病患者が集められていた。私のようなストーカーとか殺人願望を抑え込んでいる人もいたし、被害妄想がひどい人とか、色んな人がいたよ?そこで私は正気を取り戻した」
「治療で?」
「ううん。いや、そうかも?ある日、朝起きたら突然思ったの。ああ、私は正常じゃないって」
唐突に我に返ったようになった晶子はよく考えるようになった。自分の事、大輝の事、家族の事。社会で普通に生きていくためにはどうすればいいのか、とか。そんな風に過ごすようになったある日の事だった。あれが起こった。
「私はその日、体操の時間をさぼろうとしていた。屋外運動場に集まってラジオ体操なんて無意味に感じていたから。でもそこでの様子を見る事も診察の一部だったから当然、呼びに来るわけで、たまたま午後から女性患者の内科検診のために来ていた静香先生が私を呼びに来たの。静香先生っていうのは、さっきの電話の人ね。私の他にもさぼろうとしてた人がいて、それが野上くん。三人で外に出た時、奴らは襲ってきた。運動場に光が降り注いできて、あっという間に沢山の人が死んだ。私達は病院の中に逃げてやり過ごしたけど、沢山の人が死んだのをただ見てるしか出来なかった。病院の中には私のようにさぼろうとしてた人が他にもいたし、そもそも屋外に出られない人もいたし、常駐の医師や私達を見張る職員もいたし、生き残った人も沢山いた。だけどそれもあっという間だった。だってあれが何なのか分からないんだもの。夜になれば電気をつける。建物の中に奴らが入り込んでからは逃げ場が無くなった。あそこにはだいたい百人くらいの人がいたけど、結局、生き残ったのは六人だけ。うち一人は今も意識不明。それが野上くん。私、ずっと一緒にいたのに…」
「…逃げられなかったの?助けが来るとかは?だって刑務所の中にあるんだろ?その病院。中央刑務所といえば一番大きな刑務所だろ?被害は病院だけだったのか?」
「あの施設は実は刑務所内には無い。場所を特定されないために本当に周りに何も無い僻地にある。それも奴らの狙い所なんだと思う。この小学校もそうでしょう?」
「確かに」
紀之は頷いた。
「じゃあ、どうやって生き残ったんだ?」
「とにかく暗闇で隠れているのが一番良かった。最初は職員の一番偉い人が仕切ってたんだけどすぐにやられて、最終的に職員で残ったのはまだ新人の河口さん。リーダー的な事をしてたのは斎賀さんで、斎賀さんは学生運動みたいな事をずっとやってた人なんだって。施設に来る前の事はよく分からないけど、変なカリスマ性がある人だよ?河口さんと斎賀さんが協力して皆を纏めてた。それで静香先生は内科が専門だけどずっと怪我人の手当をしてた。あと花田くんと野上くんと私は実戦部隊というか、そんな感じ。逃げてばかりじゃ悔しくて、私達は奴らをやっつけようとした。綿密な計画を立てて私達は奴らの一体を暗闇に閉じ込める事に成功した。だけど…」
今でも鮮明に思い出せる。光源が一つもない小部屋に閉じ込める事に成功した時、奴は暴れに暴れた。自らを発光させ、逃げようとした。そしてそのうちに何の光も見えなくなって晶子達は油断したのだ。様子を見ようとそっと小部屋の扉を開けた時、ヒュッと細い光が飛び出して来た。そしてその光は小さな懐中電灯を持っていた野上武志に真っ直ぐに向かい、彼の体内に入った。おそらく光に向かうのは奴らの本能的な行動なのだろう。奴を取り込んだまま武志は倒れ、意識を戻す事がなかった。
「ずっと一緒にいたのに野上くんだけが犠牲になってしまった。体内に奴を宿している野上くんは時々発光させながら今も意識を取り戻していなくて、隔離施設にいる」
悔しそうにしている晶子を見ながら紀之は「ああ、だから貫通したかを確認したのか」と妙に納得していた。そういえば、愛美がやられた時、光は貫通してなかったように思う。
「それで?生き残った晶子達はこうやって助けて回ってるの?」
「そう。私達囚人の方は親族からは縁を切られているし、帰る場所も無かったから。職員だった河口さんは主任となって組織に残ってるし、静香先生も野上くんの様子を診ながら私達と一緒にいてくれてる。海外では他にも奴らの襲撃を受けた所があるけど、日本国内では私達が第一例目。ここが二例目だよ」
「そうなんだ。俺もなれる?その助ける側に」
「…今までの生活には戻れないよ?家族にも友達にも会えない。奴らが襲ってくる現場に身一つで飛び込まなくちゃならない。いつでも死が隣にある。そんなの、頭がおかしくなければ耐えられないよ、私達のようにね」
自虐的に晶子は笑った。
「それに訓練もしなくちゃならないよ?毎日。私なんかそんなのした事無かったから、しごかれてるし」
「俺、小学生の頃は空手やってたから基礎はあるよ?中学校に入る前に両親が死んで、それからは兄さんと二人暮らし。六歳年上で進学止めて働いて俺を育ててくれたんだけど、俺が高校卒業してからは別々に暮らしてる。兄さんが結婚したからさ。俺、兄さんの奥さんにあまり好かれてなくて今はほとんど交流が無い。天涯孤独に近いから何の不都合もない。良かったら紹介してよ?俺、役に立つよ?」
紀之も自虐的に笑った。
「死ななかったら考えてみてよ」
晶子は小さく頷き
「分かった」
と答えた。「死ななかったら」という言葉の重みを感じながら。
紀之と話していると玄関に大輝を背負った智明が現れた。
「あの光が消えた」
そう言うと智明は大輝を降ろした。大輝は呆然とした様子で何も言葉を発しなかった。
「ようやく普通に笑うようになったところだったのに」
智明は悔しそうに呟いた。
「お前は本当に疫病神だ、晶子」
「っ!」
それを聞いた紀之は思わず立ち上がった。
「何だよ、それ。助けてもらってそれは無いだろう?」
しかし晶子は紀之を宥めるように彼の手を掴んだ。
「その通りだよ。私とは関わらない方がいい。これからは二度と会う事は無いから」
晶子は智明に微笑むと
「他の人は?」
と聞いた。
「…真知子さんはまだ祈ってる。豊は蹲って何かを言ってる。愛美は…」
智明は辛そうな顔をしてそれ以上、言わなかった。
「そう」
晶子も何も聞かなかった。そして立ち上がると
「真知子さんと豊さんを連れて来る。手伝ってくれない?智明」
「…俺が?」
智明が怪訝な顔をして晶子を見た。
「そう。動けるのはもう智明しかいない。お願い」
晶子は真っ直ぐに智明を見た。これが初めてかもしれないと晶子は思った。こんな風に向き合うのはこれまで無かった。いつも遠くから眺めているだけだったから。遠くにいる方がその人の感情が見える事がある。愛美の恋に気が付いたのも、智明の執着を理解出来たのも、晶子が遠い場所にいたからだ。分かり合えるはずがない。
「…今は智明しか頼めないの。でも、何かあったらすぐに逃げて」
「分かった。行こう」
智明は頷いた。ようやく一歩近づいたような気持ちになった晶子は少し安堵した顔を見せた。
「ちょっと行ってくるから、様子を見ていてくれる?」
紀之にそう声を掛けた。頼んだのは大輝の様子の事だ。紀之は苦笑しながら「分かった」と了承した。晶子にはその笑顔の理由が分からなかったが、特に気にしなかった。
「じゃあ」
と言って再びグラウンドに行った晶子と智明を見送った後で紀之は大輝に話しかけた。
「なあ、もう正気に戻ってるんだろ?」
すると大輝はゆっくりと顔を上げて紀之を見た。
「やっぱりね」
紀之が呆れた声を出すと大輝は小さな声で言った。
「あいつを信用するな。あいつが俺に何をしたのか知らないくせに」
「知らねぇよ」
紀之は怒りを露わにした。
「あんたの事も過去の事も。でも今はあんたが一番お荷物だって事はよく分かる」
「っ!」
大輝は体を震わせた。
「それは俺もよく分かってるよ」
そして静かに涙を流した。
「俺のせいで愛美が…。ずっと一緒にいたのに…」
大輝はただ泣いた。智明の前では泣けなかったのだ。愛美がずっと誰を見ていたのか、大輝も知っていた。だがそれを指摘しなかったのは愛美には自分の側にいてほしかったからだ。弱いままの自分でいれば智明はそばにいる。智明がいれば愛美も一緒にいてくれる。大輝はずっとそう思っていた。
「…くっ」
声を殺して無く大輝に紀之はもう何も言えなかった。晶子と似ていると思ったからだ。一途に相手を想い続ける所とかその方向が間違っている所とか。晶子が大輝に夢中になったのはその辺に理由があるのかもしれない。紀之は悔しがっている自分に気が付いていた。
一方、智明と二人でグラウンドに戻った晶子は這い蹲っている豊に声を掛けた。
「立てますか?」
しかし豊は返事をしなかった。
「ごめんなさい。許して下さい。死にたくない」
ブツブツと繰り返す豊の頭を晶子は無理やり上げさせた。
「しっかりしろ!」
晶子が耳元で叫ぶと豊は驚いた顔をして晶子を見た。
「ここは危ない。校内に戻るから」
「校内?そこも危ないだろう?」
「ええ。でもここにはいられない。さあ」
晶子は豊を立たせようとしたが豊は晶子の腕を掴んだまま動かなかった。
「俺、あの時、煙草を吸っていたんだ。外に喫煙所を設けていたからそこで。開会式が始まるからって田村が迎えに来た。煙草の火を消して二人でグラウンドに行って、それから田村は…」
豊は晶子の腕を掴んでいる手に力を入れた。
「もし俺があの時、煙草を吸ってなかったら田村は無事だったのかな?俺が同窓会には行かないって断ったら田村もここには来なかったのかな?なあ、何で俺は生きてるんだ?俺は生きていていいのか?」
縋るような目で見る豊に晶子は静かに言った。
「何故生き残ったのか、そんなのは誰にも分からない。でも生きている限り、何があっても生きていかなくちゃならない」
そして少し微笑んで見せた。
「仕事は?何してるの?」
「俺?印刷会社の営業してる」
「そう。やりがいはある?」
「そう…だな。大変だけど面白い」
「休みの日は?何しているの?」
「休みの日?ああ、草野球やってる。…中学まで野球部だったんだ、俺」
「いいね、野球。じゃあ、プライベートも充実してるんだ。デートとかもしてるの?」
「はあ?そんな相手はいないよ。あ、でも…」
「でも?」
「チームの応援に来てくれる子がいて、その子が可愛いなぁって」
「へえ、応援に来てくれるんだ。ご飯とか誘ってみた?」
「いや、まだ…」
「じゃあ、誘わなくちゃ。ここから出よう」
晶子が豊の手を引いて立ち上がる。
「家に帰ろう」
「…」
豊は晶子をぼんやりとした顔で見ていたが、次第に今までの鋭い顔付きに戻っていった。
「家に。そうだな。家に帰ろう」
晶子は頷く。
「うん。それでデートに誘わなくちゃ」
すると豊は顔を赤くした。
「何言ってるんだよ、あんた」
だが直ぐに笑った。
「でもそうだな。誘うよ。今度会ったら」
晶子はまた頷く。豊はもう大丈夫だ。それを確認してから智明を見た。彼は真知子に声を掛けていた。
「真知子さん?」
そっと近寄って晶子も声を掛けるが返事は無かった。
「寝てるみたいだな」
智明が呆れたような声を出した。真知子は手を合わせたまま眠っていたのだ。
「パニックを処理しきれなくて寝ちゃったんだよ。背負える?」
「俺が?ああ、大丈夫だ」
智明が真知子をおんぶするのを手伝ってから晶子は豊を連れて校内へ戻った。その間、恐ろしいくらい何も起こらなかった。何を考えているのか?晶子はこの静けさが怖かった。
職員室の前の廊下に来ると紀之がヒラヒラと手を振った。
「ご苦労様。こっちは大丈夫だったよ」
智明はゆっくりと真知子を降ろすと直ぐに大輝の元へ駆け寄った。大輝は無理に笑顔を浮かべた。
「迷惑かけたな、智明」
「何でもないさ」
幾分か正気を取り戻している大輝の様子に智明は心底ほっとした顔をしていた。しかし二人は敢えて愛美の話はしなかった。
晶子は豊を紀之の隣に座らせると胸元のスマホを取り出した。この状況を斎賀に報告しようと思ったからだ。三回コールの後で斎賀の声が聞こえた。
『五十嵐。そっちはどうだ』
「すみません。状況が変わりました。出来れば今すぐに脱出したいんですが、何とかなりませんか?」
『あ、お前、それを主任に話せ』
「主任?でも今は別のチームにいるんでしょう?」
『こっちの指揮を執る事になったから。自分から電話をする暇もないくらい怒ってるから早く電話しろ』
「ええー…」
河口の苛立っている様子が頭に浮かんで嫌そうは声を出した。
『ええー、じゃねぇって。俺はそっちに行く準備中だから安心しろ』
それを聞いて今度は安堵の声を漏らした。
「そうですか。良かった。では主任に電話します」
『そうしてくれ」』
そして晶子は一度通話を切った後で恐る恐る河口に電話を掛けた。
「もしもし?主任」
ワンコールで出た事にドキドキしながら出ると低い声で河口が言った。
『おい、晶子。何故、君が一人で行くなんて事になってるんだ?』
「ええっと、それはそういう命令があったからで…」
『もう俺の命令以外聞くな。そんな所に一人で行かせるなんて俺なら許さない』
「でも、まあ、人手不足というか。ほら、そっちは大規模で。斎賀さんも動けなかったし」
『とにかく、これからは俺が指示を出すから』
「でも大丈夫なんですか?主任ってまだアメリカでしょ?」
『電話でも指示は出せる。真治を手伝わせたままにしてきたから、あっちは大丈夫だろう。今は晶子の方が大事だ。一仁を向かわせる準備をしてるから』
自分の方が大事だと言われて胸が熱くなる。信頼出来る仲間がいるという事が心強い。その期待に応えたいと思う自分が好きだ。
「分かりました。ではこちらの状況を説明します」
晶子は手短に経緯を話した。
「今は怪我人が一人と、精神をやられたのが一人。三人が無事です」
『五人だな。とにかくそこから出る』
「でもどうやって?」
『ほんの少しだけ壁に隙間があるのを発見した。そこから一人ずつ出てもらう。外には車を待機させる。一仁がチームを率いて行くからその指示に従うように言ってくれ』
「分かりました」
『お前の言ってる通り、そいつがあの時の奴ならお前は誘き出されたのかもしれない。お前が狙いかもしれないぞ』
「…はい」
それは晶子も思っていた事だった。晶子と対峙したあいつは嬉しそうだった。わざと生き残りを出したのも、狙いが晶子だからなのかもしれない。
「でもやれるだけやります。生きてる限り生きていかねばならないんですよね?主任」
『ああ、そうだ。俺たちは生きていかねばならない』
「はい」
晶子は一度、通話を切ってまた胸元にスマホを戻した。そしてはっとして周りを見た。皆が自分を見ていたからだ。
「な…に?どうかした?」
「いや…、なんか本当に組織の人間なんだなって思って」
紀之がそう言うと晶子は「はあ?」と眉間にしわを寄せた。
「最初からそう言ってるじゃない」
「いや、そうなんだけど」
紀之は気を許している顔をした晶子を初めて見て、その顔をされる関係になりたいと、尚一層思いを強くした。
斎賀からの連絡待ちとなった晶子は皆から少し離れた場所に座っていた。真知子は眠ったまま動かない。大輝と智明は寄り添うようにお互いにもたれ掛っている。その隣で紀之が目をつむっていて、真知子の側で豊が眠っていた。しばしの静寂に晶子もウトウトと浅い眠りに入った。
目の前には白い扉がある。その中には奴らの一体がいる。その扉を開けてはいけない。開けてはいけないのに体が勝手に動き出す。扉を引き、自分の体が扉の影になった瞬間、光が見えた。武志が倒れるのが見えた。…目を開けると、そこは時を遡った場所。目の前にいる人達が次々に倒れていく様がスローモーションで見える。何が起こっているのか、何を叫んでいるのか、自分でもよく分からない。そして光が見えた。薄い黄色の光に包まれる。
「うわあああっ」
声を出して目を開けた。「はあ、はあ」という息を吐く音が聞こえる。晶子はまだはっきりしない頭で周りを見た。光は無い。真っ暗だ。
「大丈夫?」
いつの間にか紀之が隣に来ていた。
「魘されてたよ、ずっと」
「…ああ、ごめん」
汗をかいていたようだ。晶子は額に滲んだ汗を右手で拭った。繰り返す夢の中でいつも何も出来ない。
晶子の声で他の人も起きてしまったようだ。
「ごめんなさい。起こしてしまったみたいで」
それから紀之を見た。
「寝てた?」
「いや。俺は寝てない。」
変な違和感を感じた。それはただの勘でしかない感情であったが、この状況下で何故紀之だけが冷静でいられるのか、それは少し後で分かる事になる。
そのままほとんど会話も無く、空が白んで来る時刻の少し前に晶子のスマホが震えた。
『準備が出来た。午前四時に決行する。四時ぴったりになったら外に出ろ』
四時に皆を連れてグランドを横切り、その先にあるフェンスまで行く。その辺りで待機している斎賀と合流し、少しだけ開けられた隙間から一人ずつ脱出する事となった。
奇しくもさっき皆が逃げた方向は間違っていなかった。それを遮るように奴が現れたのは殺すためではなく逃がさないためだったのだ。
晶子は皆に作戦の詳細を説明した。未だに「神に逆らうなんて愚かだ」と言い続けている真知子を智明と大輝に連れて来てもらう事にした。二人を離す事は得策ではないし、真知子は引っ張らないと動かないだろう。先頭は豊と紀之に頼んだ。冷静に動こうとする紀之と行動力がある豊がいれば正確に合流地点に向かうだろう。最後尾は晶子。誰かが足を止めてしまった時に助けられるようにと考えたのだ。一度見ているとはいえ、沢山の死体を乗り越えていくのは容易ではない。
「空が白んでくる時間が奴らの休憩時間。こちらとしては一番逃げられる時間」
晶子はそう言って、空が少し明るくなるのを待った。
そして午前四時。脱出が決行された。